Good morning my world.

星野 驟雨

「レモン」について

 寝ぼけ眼のままに、寝室から階段を下りてリビングに向かう。

 階段を下りきると朝の贅沢が視界に広がる。

 白を基調にしたダイニングキッチンに色調を崩さぬように並べられた大きな白い机がある。白い椅子が向かい合う形で二脚ずつ、よく言われるお誕生席が一つの五脚。

 フローリングは暗めのブラウンで、よく掃除がされているから大開口からの色合いが映り込むことがある。

 窓際まで近づくと、向こう側には草木が青々と生い茂っている。無造作ではなく、かといってきわめて人工的ではない美しい庭だった。白玉砂利を隔てて、花がいくつか咲いていた。名称は忘れたが、様々なる色合い、オレンジや黄色、はたまた青紫など小さな華やかさが、白石に反射した陽光に輝いている。木漏れ日がゆらゆらと揺れていることから、外では程よい風が吹いているのがわかる。天高く晴れた初夏の風は何とも心地が良い。

 大窓の右上には蒼穹が繰り広げられており、雲一つない中天を見上げながら、大きく伸びをする。


 こんな素晴らしき朝にはコーヒーが良いだろうと、キッチンへ向かおうと振り向く。

 刹那、私は怪訝な声を出してしまった。

 何故ならそこになくていいものが鎮座ましましていたのだ。

 その正体こそはレモン。想像だけで唾液を分泌させる酸っぱいだけの果物。

 学生時代に部活動で疲れ切った時によく食べていたものだ。

 蜂蜜と砂糖に薄切りにしたレモンを漬けておくだけでいいから、今でも稀に食べる。

 しかし、何故レモンが一つだけそこに置いてあるのだろうか。疑問に思いながら、歪んだ黄色に向かい合うようにして椅子に座る。

 立て肘のまま、あれやこれやと考えても始まらない。

 おもむろに鼻を近づけて嗅げば、青春の香りがした。久しく忘れていた匂い、その残り香を鼻腔で楽しむ。深く息を吸い込んで吐き出す。呼気と混ざり合い肺へと届けられ、吐き出されたことで少し目が覚めた。

 たったその行動一つで、このとき既に、私の中でこのレモンを楽しんでやろうという遊びが芽生えていた。

 私は観察が好きだったから、まずはレモンの高さまで視点を落としてじいっと見つめることにした。

 焦点はレモンに定まっており、その向こう側にぼやけた緑と穏やかな木漏れ日が踊る。

 すると面白いことに、先程まで映えることのなかったレモンが淡い輝きを持っているように見えるのだ。そのかんばせは、何も変わっていないというのに。私はこの現象に、化粧や着飾りを想起した。

 瑞々しい驚きに伸ばした手の中にレモンを収めてみる。そうしてしまえば、やはり先程の何の変哲もないレモンなのだ。黄色一色というわけでもなく、植物らしさが茶色の斑点から感じ取られる、ただのレモン。少々不服だったが、今度はその触感を確かめてみる。

 おそらく常温に放置されたレモンらしい温みだった。湿りが感じ取られ、その温度も手伝ってか、歪ながらによく手に馴染んだ。想像するよりも硬いようで、少し力を入れてみればへこみが出来た。指先は仄かに濡れていた。

 暫く触り続けていると、レモンの香りは一層強く広がっていたように感じる。一度離して掌を扇いでみれば鼻を優しく抜ける香りがする。

 

 ふと、清々しさが呼び寄せた考え事に腕組みをする。

 レモンと言えば梶井基次郎が思い浮かぶわけだが、これは爆弾には見えない。

 すべての色を吸い込むよりは、落ち着きの中の快活に相応しい。緑に映えるその姿に驚きを感じた先の体験からそう思うわけだ。

 たしかに、古びた商店の色合いというのは落ち着きと退廃のその中間だし、その中に瑞々しいレモンが一つあるというのは目を惹く。それこそ人々が爆弾に目を惹かれるように。

 そこまで考えて一つ合点する。

 ――何もレモンが爆ぜる必要はない。

 そこに一つあるだけで、周りが際立って見えるのだ。

 レモンは物理的な爆弾ではなくて、心理的な再発見のための眼鏡なのだ。

 とりわけ自然に対して効果を発揮する。

 この歪な物体から世界を覗いてみたい。

 私は、無邪気な子供がするように、その眼鏡を翳しながら窓へと近づいていった。

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