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「好きな有名人、いる?」

 聞きながら、李舜は冷蔵庫から出したペットボトルを差し出してくる。これも暇潰しの会話らしい。山のラベルのミネラルウォーター。500ミリリットルの大自然。

 私はベッドに腰かけたまま「いるけど」と言って、ペットボトルの蓋を開ける。

「……あなたじゃないよ?」

「アハ、分かってるよ」

 自分のぶんの水も出してきて、私の横に腰かける。

「ファンには手を出さない。厳しく言われてる」

「そういうものなんだ」

「そういうもの」

「言われてなかったら、本当は手出したいの?」

「イヤァ……」

 ちゃぽん、と水が揺れる音。出したくはないなあ、と笑う困り顔がいやに魅力的で、よく出来たアイドルだと改めて思う。

 芸能人のどころか、男性の部屋自体初めて入ったが、想像以上に物がない。一人暮らしには広いだろう部屋の隅に、CDラックと日本語の教本、分厚い辞書が縮こまるようにして並んでいる。

「それで、その僕より好きな人って誰なの? 参考にしたいな」

「今上陛下」

 あ、と思う。李舜の質問は一見茶化す様だったけれど、声に真剣さが滲んでいる気がして、正直に答えてしまった。

 少し焦る私の横で、しかし李舜はいまいちピンと来ていないらしく、ンー?と首をかしげる。

「キン・ジョー・陛下?」

 言いながら、両手を前に出してクイッと宙に潜らせる。ラッパーか何かだと思ったようだ。

「今の天皇って意味」

「え……っと」

「即位中は平成天皇とは呼ばないの。私もよくは知らないけど」

 李舜の目があからさまに泳いで、ああ、これは作った表情じゃないな、と判る。こんな顔をテレビでも流しているのかは分からないけれど、好みの顔だ、なんて贅沢なことを考えながら眺めていると「ごめんなさい」と、神妙に謝られてしまう。

 私も慌てて首を振る。

「だ、大丈夫! 私、その……思想とかで言ってるんじゃないから!」

「いや、でも……」

「大丈夫! モーマンタイ!」

「わかった……ごめんね」

 そもそも謝られることなんて何もない。手に持った水が体温を吸って、見る間にぬるくなっていく。小さく波打つ。

「どういうところが好きなの?」

 わざと明るい声で訊いてくる李舜に私は少し驚く。話を簡単に流さないのには好感が持てるけれど。

「優しそうなところ」

「フーン?」

「薄っぺらいなって思った?」

「ううん。ただ、そもそもよく知らないからなあ」

 なんだか、じぃっと李舜の顔を見てしまう。遮るものはもう無いのに、不思議にチカチカして落ち着かない。左目の下に小さな傷跡があるのを知る。

「でも、優しいのはいいことだ」

「うん」

「それくらいでいいのかも。好くのも、好かれるのも」

 楽だ、と言って、李舜は背中からベッドに倒れる。そのまま両腕をだらんと横に広げて目を瞑る。

 私はまだ座った姿勢のままで、振り向きざまにそれを見ている。

 パキン、と音がして、李舜は右手に折り畳みのナイフを持っている。私は手に持っていた水を落としてしまう。

「構えなくていい。傷つけない」

 喉が渇いて、固まったように動けない。李舜も動かない。小さく開いた口の隙間から、ただ言葉だけが漏れ聞こえる。

「変なんだ。昔からかもしれないけど、こっちに来てからは特に。会う人間全て、僕を殺したいんじゃないかって気がして、振り払っても全然消えない」

 ああ、最悪だ。なんでホイホイついてきちゃったんだろう。落としたペットボトルから、水がいつまでもこぼれ続ける。

「そんなのがずっと続いて、安心したくて、ある日急に思いついた。殺せるようにしても殺してこなければ、そいつはきっと僕を殺さない人だろう、って」

 最悪だ。好みだった顔がグチャグチャにゆがんで見える。部屋の明かりは点いているのに、まるで夜のように暗い。

「だから頼んだ。これで僕を死なないように切ってくれって。理屈が破綻してるのは解ってる。それができるなら最初の恐れも成り立たない。解ってる。実際最初は頼んだ瞬間に後悔した。死ぬんだと思った。本当に怖くて、泣きもした。

 だけど生きてた。胸に小さい傷がついただけで、少し痛いくらいで、生きてた。僕はようやく安心できた。

 あの日、僕は久しぶりに人を愛せた気がした」

 最悪だ。最低だ。なんて、なんて下らない話。下らない心。

「何度か同じことを繰り返して、相手も何度か変わって、ファンの子とも一度したんだけど、怖かったから一回で終わった。あの子だけは最後まで僕を殺す気だったと思う。

 それからはなるべく僕に興味がなさそうな人を選ぶことにした。僕の顔を見てもピンと来てなさそうで、あと、執着が無さそうな人。

 生きるも死ぬも……っていうと、流石にそうそういないんだけど、そこまでは望まないにしても、生きなきゃダメ!とは言わないだろうなって人。手に取ってるCDで大体分かるんだ。せっかくの特技だけど、自慢できる場所がない。

 ハ。うん。と、いうわけだから。」

 従うことになるのだろうか。絶対に嫌なのに、男の部屋、ナイフ、夜──目頭の奥が焼ける。

「これで、僕を切ってほしい」

 やだ! 

 下らない!下らない!下らない!

「……って、つもりだったんだけど。そうだよね」

 パキン、と音がして、ナイフがしまわれる。李舜は微動だにしない。

「なんか醒めたというか……どうでもよくなっちゃった。なんでだろう。キミのことも、怖いのか怖くないのか、よく分からない。わかる?」

 喉が音を失って、私は答えられない。

 足元にこぼれた水が体温を奪って、なのに刺すように冷たい。私のなかで小さな気泡たちが沈んでいく、謎のイメージ。

「まあいいか。とにかく、僕はキミに何もしない。させようともしない。まだ電車はあると思うけど、泊まりたいならここにいてもいい。僕は外で夜を明かすから」

「……あ」

 渇きのなかから、どうにか声を振り絞る。

「あしたも、仕事、なの……」

 事実だった。

「……明日、日曜だけど」

「ほ、本当に……仕事、なの……」

 李舜は私をようやく見る。そして「そう、大変だね」とだけ言って、また視線をどこかへやってしまう。

 タクシー代を出そうとするのを固辞して部屋を出ると、地面がじっとりと濡れている。知らぬ間にひと雨降っていたらしい。あるいは来たときすでに降っていたのかもしれない。頭が震えて、記憶が判然としない。

 何かの枝を踏んで、パキンと音がする。弾かれるように、街の光に向かって走りだす。

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空問答のピース・アット・ナイト 玉手箱つづら @tamatebako_tsudura

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