No.7-23
私の生活が、兵士としてのそれを本質として受け止めてるようになり始めた今になって与えられた、この一ヶ月の休暇は、銃弾の入っていない銃器のみを渡されたようなものであった。しかし、それこそ……金のように、使いようがいくらでもあるようなものが与えられるよりかは、このいささか間の抜けた贈り物のほうが、今の私には嬉しかった。それは如何にも、戦争という行為が私に与えてきた一連の物々それ自体のようで、心地よい感じさえあった。
私はこの休暇の間、何度か彼女ジェーン・ドゥとの対話を試みた。
「なあ、ジェーン。そろそろ何か、話をしないか」
「あなたがその『やくざな』商売をやめにするなら、話をしてもいいわ」
「……もう、やめたよ」
「嘘ばっかり。どうせ、おやすみでももらったんでしょう」
「やめることも、できる」
「それがあなたの嘘だと言っているの」
「……その瀬戸際にいる、ということだけは確かだ」
私が言うと、彼女は少し考え込み、そして結局は何も言わずに、ただ黙って寝室に引っ込んでしまった。
仕方がないので、私は久方ぶりに散歩に出かけようと思った。
街中は、平和なものであった。戦場のあの喧しさとは逆で、世界を構成する殆どの音が遠く……近くで人々が語らうその声。笑い。嘆きも、身近な場所に転がっているもののようには思えず、何か、この世界に存在する全てのものが、私の思う、私の立っている場所から線引きされた、その反対側に位置しているような気がしてしまう。
私は、家の近くにある公園に足を運ぶ。そこでは、人々が生を謳歌していた。野鳥に餌をやり、誰かと談笑し、例えば……今すぐに、ここに爆撃が起こって、この公園に居る人々が死に絶える、というような想像の余地が一つもないかのように、生を謳歌している。
私はそれを何か白けたような感じで見つめ、ひとつ溜め息をつく。
「どうすればいいんだろうな」
誰に言うでもないその言葉は無論、誰の耳にも届くことなく、空中に霧散した。
私は、公園で出ている露天でサンドを買い、それを持ってベンチに座る。そうして結局、買ったはずのサンドを食べる気にもなれなくて、ただぼうっと空を見ていた。
「お嬢さん」
そんな私に声をかける、奇特な人間が居た。声の主は老人で、その髭も髪の毛も、全てが白くなっている。
「サンドには飲み物がないと、喉が渇くだろう」
苦手じゃなければ。老人はそう言って、私に珈琲を差し出した。
私はそれを受け取り、言葉を返した。
「払いますよ」
老人は首を横に振る。
「別に、いいんだ。小銭を出す方が手間だろうからね」
そうして老人は、私が座るベンチの片側に座って、一息ついた。
「このベンチは私の特等席でね。池がよく見えるので、昼間は大抵ここに座っている」
「……公園のベンチに、指定席があるのですか」
「物の例えさ。私のお気に入り、と言ってもいい」
「なら、どきましょうか?」
「それも必要ない。ちょうど今、私は人と話をしたい気分だったんだ」
普段であれば会話も交わさず、ただ黙ってここを立ち去っていっただろう。しかし、その時の私はどうもそのようなことをするような気にもなれず、ただその状況をあるがままに受け入れた。
「お嬢さん」
老人は言った。
「休暇は、面白くないかい」
「……よく、分かりましたね。私が休暇で、こうして今公園にいるということが」
「普通、君の年頃の女の子というのは毎日がやりたいことだらけで、こんな風にベンチで座って、何かつまらなさそうな顔をする、ということは、しないんだよ」
「そうですか」
そう言った後に私はサンドに齧りつき、それを珈琲で流し込む。味なんてどうでもいい。サンドの味に驚くような段階は、とうの昔に過ぎ去った。
「お嬢さんは何か、悩みがあるんだね」
「はい」
私は、自分でも驚くほど素直に、そう言葉を返した。
「何か、間違えてしまったようなんです。私が必要だと思うことを、何もかもしようとして、見つからないものを探そうとして……結局」
「結局、何も手に入らなかった」
「そうです。そんな、感じなんです」
私は、分からないんですと言った。老人は、分からないだろうなと言った。
「ある時。大きな問題が立ち塞がって、その問題のために一生とか、死とか、生とかいうものを天秤に乗せて物事を考えたとする。時間は流れ行くものであるから、どこかで行動することで結論を出す。しかしな」
私は考えるんだ。老人は滑らかに言葉を紡いでいく。
「結局、それが正しかったか否かなんて、後になっても分からんのだよ。大抵は、終わったことであるから、それを正しかったと考えるようにして、頭を整理する。スッキリする。だから皆、そうする」
「それは、正しいことなんですか?」
「正しさの問題ではない。そこを考え込んだらきりがないし、何か自身にとって破滅的な結論が出てしまったとして、自らの命を断つわけにもいかない。だから次善の策として、そうだということにしておくんだ。自身のために、自身の思考を制限する」
「……そういうもの、なのでしょうか」
「私はね、お嬢さん。『そういうもの』を『そういうもの』として扱いたくないから、色々頑張って、こうやって生きてきたんだ。でもね、歳をとって、とって、今こうして君と話をしていると、思うんだ。『そういうもの』というのを、肯定してやったって、良かったんじゃないか、とね」
「それは、あなたの人生に関わることではないのですか」
「私の人生に関わることだからだよ、お嬢さん。だから、私だけがそうして、私自身に対して自分勝手なことを言えるんだ。それが確かに私の……うん。昔の『僕』風に言うならね。自己の存在理由の問題を問うことができるのは、ただ自己だけなんだ。だから、私は『僕』にこう問いかけるわけだ。君が嫌っていた過去や、或いは現状を、今になって肯定はしないでも、否定しないようにはできまいか、と。そう聞くわけだ」
「それで、何かが変わるんですか」
「変わるわけじゃないさ。内心の問題だからね。しかし、人間の問題とは原則が内心のそれであって、外にある何かではないことの方が、遥かに多いと私は思うよ」
老人は、その何か枯れ果てた雰囲気とは裏腹に、内心に瑞々しい何か泉のようなものを、持ち合わせているかのように思えた。
「……あの、私は……そう」
「何が、あったんだい?」
「仕事と生活の話です。つまり、私がやるその仕事を、共に生活する相手はやめて欲しいんです。そしてその整理をつけるために休暇が与えられたのですが、結局……その相手とは、和解できていないのです」
「きっとその仕事は危険なのか、或いはあまり褒められたものではない」
「そうなんです。だけれど、私にはそこに。その仕事の中に何か大事なものがあって、それを置き去りにしていくことができないんです」
成程、成程。老人は髭を手で触りながら、そう話す。
「仕事と生活は人間の基礎だ。そこに纏わる問題にすんなり、答えが出るわけがない」
「そう。だから……」
「でも、それを許さないのは君の問題なんじゃないのかね?」
「どういう、ことですか?」
「つまり、仕事の中に。その危険な渦中に置き忘れがあるような気がしている。しかし、その置き忘れを許さない。それが何なのかを掴まないことには『許せない』。それはきっと、君が君を、許せないんじゃないのかね」
私は、老人のその問いかけに答えることができなかった。
老人は続ける。
「やはりそれは、自己の問題なんだ……無論、そこに生活上の問題がある。例えば、そこで得られるお金抜きには生活ができない、というような差し迫った問題があると言うのであれば話は別だが、そうであればこのような悩み方をするはずは、なかろうね?」
ならば。老人は言う。
「君はもう結論を出しているようなものじゃないのか。つまり、許さないのか、許すのか。そういうところに、話は戻ってくるんだ」
そこまで言って、老人は立ち上がる。
「いや、久々に人と話ができたので、実に楽しかった。ありがたいことだ……君の休暇を邪魔して、悪かったね」
私は答えた。
「いえ。私こそ、感謝しています。答えが、出たような気がしたので」
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