No.1-2
この丘には、三〇cmぐらいの雑草が生い茂っており、身を伏せていれば、全身を覆い隠すことは容易に出来る。もっとも、銃を撃ち合ってるでもないのに、匍匐前進なんかをするその精神構造については全く理解しかねるが。
『狼』は、ある時からずっと私のことを睨んでいた。早くからそのことに気付いてはいたが、私達を取って食うわけでもないので、何も言わずにそのまま放っておいていたのだ。
「イーデン上等兵。消灯時間はとっくのとうに過ぎているぞ!」
草むらから声がする。がさがさと音を立て、迷彩服の女性が姿を現す。
その声の主は、ニーナ・ジューコフスカヤ少尉。私の所属する中隊付きの士官だが、彼女も私の感覚からすればアリシアとそう変わらない。彼女も、明日の作戦が人生初の戦闘だ。線の細い印象が受けられる顔の輪郭と、それに釣り合わない気が強そうな眉が特徴。身体こそ鍛えてはいるが、胸や腰付きが妙に女性らしく、それを気にしてかいつも肩を張って大声を出している。私からするとその様子は、ほんの少し滑稽で、可愛げがあるように思える。
「エダでいいって言ってるのに。ねえ、ニーナ?」
「その呼び方はやめろ。私は上官なんだぞ」
「いつも肩肘張って、疲れない? たまには休めばいいのに」
「貴様こそいつもいつも、良く口が回るようだな。そろそろ反省して、軍人としての自覚を……!」
その説教臭い言い回しが面倒臭くなってきた私は、ニーナの肩を強く押して、草むらへと組み伏せた。
「お説教ならもう結構。そういう言い回しは、あなたの悪い癖よ。直すつもりのない相手に説教したって無駄なだけなんだから」
「お前、何をするつもりだ」
「あら、何をって……元はあなたが求めていたことでしょう?」
「私はお前に何かを求めたことなんかない」
「知ってるのよ。あなたが私と、あの新兵の跡を付けてたことぐらい。すぐにテントに押し戻そうと思えば出来たはずなのに、あなたはそれをしなかった」
「なんでそうだと分かる」
「簡単なこと。あなたが『わざと』見つかろうとしていたから。新兵には気付かれないように、でも私には気付かれるように。普段の言動からは想像も出来ないぐらい器用よね」
「だから、何を根拠にそんなことを言っているんだ」
「そんなに知りたいのなら教えてあげる。まず、尾行を否定するのなら、なんでそうだと分かる、なんて言わずに初めから否定するはずよ。なんで分かる? なんて、自分で尾行してましたと言ってるようなものじゃない。それに……」
ニーナは呼吸を乱し、胸を上下させて大きく息を吸い、はだけた軍服の隙間から見えるその鎖骨は紅く熱っていた。
「気付いてるでしょ? 私が力入れてないってことぐらい。私を突き飛ばそうと思えばいつでも出来る。でもそうしないのはなんで?」
ニーナは無言で、私を睨んでいる。
「いい加減素直になりなさいよ。一度目は不感症のふりして、二度目は嫌々ながらしてるように見せて、いつもあなたは楽しんでた。あなたにはいつも直視したくない自分が居て、それを肩肘張って大声張り上げて、包み隠している気でいるんだわ」
私は、ニーナの服のボタンを一つずつ、ゆっくりと外していく。今度は、一切抵抗しなかった。
「あなた、不感症なんかじゃなくって、『不感症でありたい』って、そう思ってるんでしょ? 上手く行かなくっても必死に努力して、人一倍軍人らしくあろうとして、それでようやく一人前として、認められる。だから、褒められたくても褒めて欲しいなんて言えない。心は欲しているのにそれを曝け出せない。だってそれは、あなたの勝手な欲望なんだもの」
露わになったニーナの上半身。その腹部から胸に至るまでを、指先で撫でるように触ると、ニーナはぐっと息を呑み、声を押し殺した。
「だからあなたは今もこうして自分を押し殺している。でもいいのよ、私の前でなら、あなたはあなたで居て。それで構わないから」
私がその胸の突起に触れると、ニーナは小さく声を上げた。
私はニーナの、この弱さが好きだった。強くあろうとして、身体を強張らせて努力しているのに、ちょっと触れるだけで壊れてしまう、罅の入ったガラスのような、美しい弱さ。大きな一筋の罅が入っただけならそれはただの傷物でしかない。けれど、細かく罅の入った、今にも壊れてしまいそうなガラスであれば、例え使い物にならなかったとしても、近付く者を不安にさせる危うい美がそこにはある。その、息苦しく黒い美に、ニーナの心の美に気付いたその日から、私は踏み止まれなくなっていた。
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