箏曲手事

増田朋美

箏曲手事

箏曲手事

あたしは、女である。それだけは確かだ。そして、それ以外何にも特技がない。

きっとここではそれだけでも生きて行けるだろう。そういう世界にあたしは行った。ここであれば、自分の体さえ売ればいい。それでいい。あたしは、そういうところに買ってもらった。だからもうそれでいいようにしよう。

そう言い聞かせてあたしは、今日も男の人たちを呼び出している。

事の初め、あたしは三浦屋という小さな店に売られた。来る前に、女衒さんは、あたしを、女郎屋にうるんだと言った。あたしは、もっと大規模で華やかなところかなあと思ったがそうでもなかった。この店は、小さかった。だからきっと、あたし何て余計に売れはしないんだと、自信を無くした。

「ああ、そうねえ。」

女衒さんが、女郎屋の女将さんと話しながら、こういうのだった。

「この子は、ちょっと、顔がよくないから使えないねエ、ほら、顔のほっぺたにでっかいほくろがあるだろ。それでは、化粧をしても、意味がないのではないかなあ。」

そうか、女性の顔は命というけど、こういうことになっちゃうのね。あたしは、結局、女郎としても使えないのか。

それでは、どうしたらいいんだろう。下働きでもさせられるのかなあ。其れか、縫い子とか、そういうことをやらされる事になるのかなあ。

「ちょっとあんた、はな子ちゃんって言っていたよね。」

と、女将さんが言った。

「は、はい。」

「あんた、習い事とかそういうことはしたことあるかな?楽器でも習っていれば。」

「あ、はい。子供のころに、ほんのちょっとだけですが、箏は習ってました。」

あたしは、すぐに答えを出した。というか、子どものころ、数年間習っていて、すぐにやめてしまったけれど。もう当の昔だから、へたくそになっているはずだよな。

「わかった。それじゃあここに持ってきてあげるから、一曲、弾いてごらん。かよちゃんさ、箏もって来てやって。」

女将さんは、やり手のおばさんに、箏をもってこさせた。はいよ、と言って、やり手のおばさんは、あたしの前に楽器を置く。

あたしは、とりあえず、平調子をとって、かよさんに、爪を貸してもらって、一生懸命思い出しながら、六段の調べを弾いた。自分で聞くと、本当に、へたくそすぎて、もう自信も何もないくらいだ。弾きおわると、もうへたくそな演奏で、どうしようもない!と思ったが、

「おお!なかなか、うまいじゃないの。それでは、アンタは楽器担当の、太鼓新造として働いてもらおう。」

女将さんも女衒さんも、やり手のかよさんでさえも、あたしの演奏をほめてくれた。それはどういう事なのか、よくわからないけど、あたしは、演奏をほめてもらえたのだ。不思議なもんだと思うけど、なぜか、褒めてもらえたからいいのかな。あたしは、とりあえずそう思うことにした。

とりあえず、あたしは、その日から太鼓新造として働くことになった。うまくいえば、本当に男の人の相手をするのは、御職の人の仕事、あたしはその部屋で、雰囲気を盛り上げるために、音楽を演奏することがしごと。時折、気持ち悪い光景が繰り広げられることもあるが、それは、女郎屋というところなので仕方ない。要はそれを、盛り上げるのがあたしの仕事なんだ。

御職の女の人は、小花さんと言った。あたしは、小花さんの身の回りの世話をすることも、任された。着物を着るのも手伝ったり、紙をゆうのも手伝った。小花さんは、とてもやさしい人で、いつも頑張りすぎているあたしに、手を抜く方法を教えてくれて、例えば、気持ちわるい光景が出たら目を背けてもいいとか、そんなことをいって、あたしは、ちょっと仕事が楽になった。

お客さんが、遊び終わって退店し、昼間はお箏の練習にいそしんだ。お箏は、意外に難しい楽器で、弾きこなすのは結構、苦労する。あたしは、人一倍練習していたので、というか、其れしかすることがないので、非常に難しいと言われる、八重衣とか、融なんかも弾きこなせるようになった。ほかに、話せる人がいるわけでも無いし、あたしは、なじみのお客さんがいるわけでも無いから、暇さえあればお箏の練習をした。なじみのお客さんについて、話をするような友人と呼ばれる存在もいない。

それを言うんだったら、同じころに売られてきたゆきちゃんのほうが、かわいらしい顔をしていて、すぐに留袖新造として、小花さんと一緒に遊ぶ練習をやっている。たぶん彼女は、可愛いから、すぐに売り出せられる様になるだろうと思う。あたしは、そういうことはできないんだなと、ゆきちゃんをみながら、いつも羨ましく思う。ゆきちゃんは、可愛いし、男の人を引き付けられる魅力もあるだろう。でも、あたしにはそれがない。あたしは、また、ただの太鼓新造として、ゆきちゃんや、御職の小花さんがやっているような、お客さんを取ってどうのこうのという事は、無理なんだなあと思いながら、毎日毎日ことを弾いて、小花さんたちとお客さんがしゃべっているのを、聞いているのだった。

ところがある日、杉ちゃんという人と、水穂さんという人がこの店にやってきた。水穂さんの体の都合により、小花さんは、おかみさんと相談をして、ここに滞在させてやることにした。水穂さんは、とにかく体が悪くて、歩くのも辛そうなくらいの人であったが、、、でも、信じられないほど綺麗だった。

「小花さんいいなあ、、、。」

何てあたしは、思わずつぶやいてしまうのだ。あんなきれいな人を四六時中眺めていられるんだから。

もちろんなじみのお客さんと遊ぶこともやるんだけど、それはあくまでも仕事。その時の態度と、水穂さんに示す態度が、多分というか、確実に違っている。

「あたしも小花さんと一緒に、水穂さんのそばに居たいな。」

何てあたしは、おもわず呟いてしまうけれど、水穂さんの世話をするのは、小花さんがやることになっているし、見習いのあたしが、声をかけるという分けにもいかない。あたしはやっぱり、まだ、一人前ではないのだし。

そういう訳で三浦屋に杉ちゃんと水穂さんがやってきてから、何日か過ぎた。小花さんは、娘さんに上げるためにとっておいた着物をばらして布団にするなど、一生懸命水穂さんの看病を続けている。でもやりてのかよさんの話によると、水穂さんは少しもよくなる気配がないらしい。それどころか、何だかますます弱っていくようなのだ。

あたしは、正直に言うと不安だった。せめて一回だけでかまわないから、水穂さんに私の気持ちを伝えたいのだが。それはもう無理なのだろうか。

そうだよなあ、あたしなんて女郎屋に勤めているといってはよいものの、まだまだ見習いだし、ぜんぜんダメかあ、なんてあたしは思った。やっぱり、男を相手にするのは、御職の小花さんでないと、ダメなんだなあ。あたしが、単独で水穂さんと二人きりという事は、出来ないよな。

そんな中、其れよりも大変なことが起こった。

「この三浦屋も、ついにお店を閉めることになった。」

あたしは、やり手のかよさんから、そういうことを聞かされた。杉ちゃんがそばを作って提供するなど、売り上げを上げるための工夫をやっていたが、この店の経営再建には、至らなかったらしい。

「え、つぶれるんですか?」

あたしはかよさんに言った。

「申し訳ないけど、もう区画整理に引っかかってしまってね。この店のあるところは、道路になって

しまうのさ、アンタたちはまた女衒さんに問い合わせて、もっといい店に引き取ってもらうようにするからね。」

そうか、そうなるのか。でも、大規模な店であれば、すぐに私よりも、きれいな人がいっぱいいるだろうな。あたしなんてこの顔だから、御職どころかただの下働き程度しか使ってもらえないかもしれない。だってきっと、あたしよりも、箏の上手い太鼓新造は、一杯いるだろうからね。それに売られた時に、あたしは顔つきがよくないとはっきり言われてしまったし、御職を目指すことは無理なのも自分で知っている。小花さんがよく、胸や尻などをさわられているのを、あたしはそのまま見ていられなかったから。

ゆきちゃんがうらやましかった。あたしと同時期に売られてきた彼女は、あたしよりも、顔つきは可愛いし、小花さんがやっているわいせつなことだって、仕事だとはっきり割り切ることができていた。

彼女は、ここへ来る前は、一応学生だったようで、其れも優秀なところだったようだから、それなりに頭がいいんだろう。禿ではなく留袖新造からのスタートという事になるけれど、自身が遊女であるとしっかりわかっているようで、遊ばれても平気なんだから、きっと彼女はほかの女郎屋に行ってもちゃんとやるだろう。でも、あたしは、そういうことは出来そうもない。できることと言ったら、お箏一本である。

「おい、お前さん、こないだの炭坑節は、うまかったからな。」

不意に、杉ちゃんが、あたしにそんなことをいいだした。

「あたしが?」

「おう、上手だったよ。お前さんはそれくらい腕が立つからよ。今から教えるこの曲を覚えて、お前さんの十八番にしてしまえ。そして、音楽関係者に身請けでもしてもらって、ここから出させてもらえ。それで金儲けができるし、自由に生活することができるぞ。」

え、え、ええ?そんなこと、あり得る話だろうか?そんなうまい話なんてあるだろうか。ちょっと待ってよ。そんなことあるわけが?

「よし、今から手本を弾いてやるからよ。これを書きとるなどして、覚えてみてくれ。」

杉ちゃんはそういってお箏を弾き始めた。それは実に難しい曲で、右手ばかりではなく左手も使わなければならない、そして大曲であった。とりあえず、三曲から構成されているが、三曲目などは嵐のような激しい曲で、わあー、どうしよう!と、思ってしまうほどである。こんな曲、あたしが弾くことなんてできるんだろうか。

「杉ちゃん、これは一体何という曲?」

あたしが聞くと、

「手事。」

と、杉ちゃんは、サラリと答えた。ちなみに手事という言葉はあたしも知っている。箏の曲というものは、先ず前歌を歌い、そのあと手事という長い間奏を弾くことになる。そしてチラシという腕の見せ所になる部分を演奏し(洋楽のカデンツァのようなもの)、あと歌を歌って終わるのである。つまりその間奏曲の部分が独立したということであろうか。それとも単に歌を作るのが、面倒という事であろうか?

「その曲の作者って誰なの?」

「宮城道雄という、日本におけるお箏のスーパースターが作ったものさ。いずれにしても、これを弾けば面白びっくり。すぐに練習してそばを求めるお客さんの前で弾いてみな。」

あたしは、そうね、と考え直して、やってみることにした。

次の日から、あたしは一生懸命手事の練習を開始した。ことのほか難しい曲で、あたしは、仕事以外のときは、ずっと練習することを強いられてしまう。もう本当に難しくて、やめてしまいたいと何度も思った。ある日、余りにもできなくて、もうやめてしまおうかとお箏を乱暴にしまおうとしたその日。

あたしたちがいつも使用している廻し部屋に、やりてのかよさんが、血相を変えて飛び込んできた。

「どうしたの?かよさん、何かありましたか?」

同期のゆきちゃんがそういうと、

「あんたたち、急いでお医者さん呼んできてくれないか。大急ぎで!」

「あれ、どうしたんですか?」

あたしは、最後の琴柱をはずしながら思わずそういうと、

「水穂さんだよ。なんでも小花ちゃんの話では、咳き込んだまま止まらなくなっちゃったらしいんだ。呼びかけても咳き込んだまま、何の反応もないらしい。ぐずぐずしていると大変なことになるから、急いで行ってきて頂戴!早く!」

「わかりました!」

あたしたちは立ちあがって、郭の中にいるお医者さんを呼びに行った。お医者さんは、本当にのんびりしていてじれったかったが、呼びかけてもなんの反応もないというと、お医者さんは急いで三浦屋に来てくれた。

「こっちです。」

あたしは、お医者さんを小花さんの部屋へ連れて行った。ああ急いで急いで、とやりてのかよさんは、落ち着きのなさそうな様子だった。入りますと言ってふすまを開けると、雷の様に咳き込む音が聞こえてきた。そばで杉ちゃんが背中をさすったり、たたいたりしているが、どうしても咳き込むのをやめさせることはできないらしい。お医者さんが、とりあえずみんな部屋から出てもらえないかというので、あたしたちは全員部屋から出た。ただ、杉ちゃんだけは、いう事を聞かないで部屋に残った。

「水穂さんどうなっちゃうのかな。」

ゆきちゃんがそういう事を聞いた。

「まさかと思うけど、あれだけひどいんじゃ、、、。」

あたしはどうしてもそのさきが言えない。いってしまったら、その通りになってしまうのが、恐ろしくて、どうしても口に出せないでいる。

「二人とも、やめなさいよ。本当にそうなったらどうするの。」

小花さんに言われて、あたしたちは言うのをやめにしたけれど、誰もがみな、同じことを考えていた。そして、それが実現してしまったら、もう終わりなんだ。二度と、話すことも、ご飯を食べさせてやることも、体を拭いてやることも、できなくなってしまうんだ。ああ、もうそうなったら、一貫の終わりでは、、、。

がらがらがら。

不意にふすまがガラッと開く。

「先生!」

小花さんがお医者さんに急いで縋り付いた。

「ど、ど、ど、どうなんでしょう!」

言葉に詰まらせながら小花さんがそういうと、

「おかげさまで、なんとか持ち直してくれたのではないかと思います。たぶん、目を覚ませば、なんとか大丈夫なのではないでしょうか。」

もちろんよくなるという事はないが、とりあえず最悪の事態は免れたという事だろう。

「もう、中に入って、話をしてもいいでしょうか?」

あたしは、この時なんでこんな間抜けな発言をしてしまったんだろうかと、後になって、恥ずかしいというかばかばかしく感じたが、その時は本気でそう思っていた。其れより、もっと大事な話をするするべきだったと思うのに、なんでこんな発言したのか、今でもよくわからない。

「気が早すぎますよ。とりあえず、目が覚めるまでは、静かに寝かせてやってください。それで、お願いします。」

「そうか、とりあえずあたしたちは、もう退散した方がよいのではないかな。もうひと段落ついたんだから、ゆっくり寝かしてやろう。」

やり手のかよさんは、お医者さんを玄関先まで送り届けながら、とりあえずそういった。

「ほら、アンタたちも、仕事の準備に入りなよ。」

「あ、はい。」

「わかりました。」

あたしたちは、とりあえずそういったけれど、まだこの場を離れる気には、なれなかった。

「人間って、簡単に逝っちゃうもんなのね。」

あたしは、本当にそう思った。何だか人間というものは、あれだけの重さがあるにも関わらず、逝ってしまう時には、本当にすぐに逝ってしまうのだと思った。あたしは、それを考えると、生きているって、本当にすごい事というか何というか、あたしたちはどうしたらいいのか、でも、ともかくここに生かされているというのが、何となくわかったような気がした。

そうなると、あたしはやるべきことを本当にやらなければならない。そう考えて、自分の部屋へ戻ると、壁に立てかけてある箏を急いで床の上に置き、琴柱を立てる。

もしかしたら、うるさいからやめろと言われるのかもしれないが、一生懸命手事を練習した。あの人に聞いてもらいたい。あたしが一度でいいから、抱かれてみたいあの人に。

「水穂さんお願い、助かって!」

あたしは、練習しているというよりも、祈りをささげているような気がして、一生懸命お箏を弾いた。

水穂さんまだ向こうに逝ってしまうのは早すぎます、あなたには私の演奏を聴いてほしいのです。それでは今ここで逝ってしまうのは、私には酷というものです。どうかどうか、、、。

水穂さんに思いが届きますように。

数日後。ほんとうに数日しか日がたっていないの、もう何十日も日が立っているような気がする。

お医者さんが、今日も水穂さんの様子を見に来た。小花さんにいつも通りに何か話している。あたしたちは、直接的な看病人ではないので、お話が終わるまで、廻し部屋で待った。それが途方もなく、長い時間のような気がした。あたしは、どうしても我慢できなくて、こっそり、階段口まで行き、小花さんの話を立ち聞きしてしまった。

「できれば、もうちょっと体を休める場所があるといいんですけれどね。こんなに毎日毎日女の人が騒いでいるような場所では、本人も休めないのではないかと思われます。」

お医者さんはお医者さんらしいことをいい始めた。それはもっともなことなんだけど、この遊郭では、女の人が、騒がない場所なんてどこにもない。結局だめなのかと、あたしは、また部屋に戻った。

急に玄関先ですすり泣きが聞こえてきたので、あたしはまた玄関先へ出る。

「お医者さん、ひどいこと言うわね。」

小花さんが、玄関先に立っていた。あたしは、小花さんが、きりりと唇をかんで、血が一滴顎から落ちたのを見た。

「なによ、なのがよくなっているっていうの!お医者さんはうそつきだわ。あたしたちが女郎だからと言って、バカにしているんだわ!」

小花さんのいう事もわかる。確かに、あたしたちは、遊女という事で、身分の高い人からは、バカにされてしまうという事はある。

「ひどいこと言うわ。昨日だって、あれだけ咳き込んで大変だったのよ!あれだけ苦しそうにしていたのに!」

「小花さんどうしたんですか。何をそんなに怒っているの?」

あたしは聞いてみたけれど、小花さんは何も言わなかった。でも、何か、重大なことを決断してしまったような気がした。

その日。あたしが、一生懸命手事の練習をしていると、二階の部屋からひどく咳き込んでいる声がして、あたしは、本当はいけないことだけど、水穂さんのところへ行ってしまった。なんと、ふすまが開いていた。そういえば、小花さんたちは、衣装を買いに行くと言って、出かけて行ったんだっけ。急いで支度をしていたから、閉めるのを忘れて、出かけて行ったのだろう。

「水穂さんどうしたんですか?小花さんなら、まだ衣装屋さんへ行って、帰って来ませんよ。」

あたしは、できる限り優しく言った。水穂さんは、ところどころ咳き込みながら、

「すみません、どうしようもなく寒いので、かけ布団をもう一枚ください。」

と、お願いした。

「あ、あ、ああ、ちょっと待って。えーとあの、ここにあるうす掛けでかまわないですか?」

そばにあった小花さんの手作りのうす掛けを、水穂さんにかけてやった。

「ありがとうございます。」

「はい、じゃあ、あたし、出ますから。」

とはいっても、あたしは、出てしまうのは、ちょっと嫌だった。それは、水穂さんも同じ気持ちだったようで、まだ外へは行かないでよ、という感じの顔をして、あたしの顔を見つめている。

「何かあったんですか?」

「いえ、特に用事があるわけでも無いのですけど。」

と言って、水穂さんは改めて咳き込んだ。やっぱり、よくなっているというのは嘘なんだなあと、あたしにもわかった。

「大丈夫ですか?」

すぐにあたしは、水穂さんにチリ紙を渡した。水穂さんは、右手で口の周りを拭いた。それを枕もとのごみ箱に入れると、チリ紙は赤く染まっていた。ごみ箱の中は、そういうチリ紙ばかりはいっていた。

あたしは、もう一度出ようかと思ったが、やっぱりまだ出られない。何か、ここで出てしまってはいけないというか、そばにいてやりたい気がする。

「ちょっと一曲聞かせてくれませんかね。」

不意にそんな言葉が聞こえてくる。

「お願いなんですが、一曲聞かせてくれませんか。杉ちゃんが、難しい曲をよくやっていて、感心したと言っていたので。」

本当は、水穂さんもこんなところで動けなくなるなんて、心ぼそいというか、寂しいのだろう。あたしは、それがよくわかった。それに、ここで聞いてもらうなんて、あたしが今までしてみたいことが、やっと実現できたような気がした。

「ありがとう。」

あたしは、急いで一階の廻し部屋にもどり、お箏を持ってきた。急いで琴柱を立て、爪をはめる。其れではと言って、手事を弾き始めた。もっと静かな曲のほうが、良いのかなとか、そういう考慮は全く思いつかなかった。

とにかく、第一楽章、第二楽章と弾き進めて、一番難しい第三楽章に突入した。これがとにかくむずかしく、あたしにとっては、坂道を猪みたいに付き進むような気がした。もう、最後のところなんて、

周りもみえずに、猛スピードで走っているようなでかい音で、全曲を弾ききった。

水穂さんは、にこやかに笑っていた。あたしは、自分がこんな大曲を弾きこなせたとは思えなくて、暫くぜいぜいして、いきが止まらなかった。

「うまくなったじゃないですか。」

にこやかに笑う水穂さんの顔は、どんな拍手よりもすごいものだと、あたしは確信した。本当はもっとずっとここに居たかった。でも、あたしは、水穂さんの回復のためには、もっと安静にしていなければならないという事は知っていたから、もう部屋を出なくちゃいけないなと、その時は本当に思った。

「ありがとう。また聞かせてくださいね。」

そういう水穂さんは、本当に幸せそうだ。其れだけはありがたかった。

あたしは、なんだか、一線を越えたというか、何か自分の中で変わってきたような気がした。その時は、それではごめんあそばせと言って部屋を出たが、そのあとのことはあたしは知らない。ただ、水穂さんは、あたしがこの部屋へ来てお箏を弾いたことを、誰にも言わないでくれたようだ。だからこの逢瀬は、水穂さんとあたしのほかは誰も知らないことである。

あたしは、その日からお客さんの前で、手事を弾くようになった。と言っても、お客さんは、いろんな人がいて、中には変な曲をやっているという、お客さんも多かったが、あたしは全く気にしなかった。小花さんと一緒に遊んでいくお客さん、杉ちゃんのおそばを食べにくるお客さん。それらのお客さんの前で、あたしは今日も手事を弾き続けるのだった。

そして、その数日後のことである。

「身請け?」

あたしは、やり手のおばさんにそんなことをいわれた。

「そうよ。あんなに上手な子を、遊女のままにしておくのは、もったいないからって。昨日来たお客さんが、尺八の先生だったのよ。それで、アンタを身請けして、うちの養女にくださいと。」

あたしは、もう天にも上る気持ちになるべきところなんだけど、なぜかならなかった。それは、つまり、水穂さんとも別れてしまうという事になるのだ。もちろん、遊郭の外へ出て、遊女でなく、普通の女の子として生活できるのは、本当に幸運なのであるが、、、。できれば、水穂さんが身請けしてくれればいいのに、、、。

そうなると、お箏を弾くのがまた嫌になる。また手事をやりはじめたときのように、練習するのがどうしてもいやになってしまった。

でも、お客さんたちは本当にあの曲が好きなようで、何回も何回も手事を弾いてくれと私に言った。私は、しかたなく弾いたが、前のようには身が入らなかった。

「お前さんは、何をそんなにばかばかしいことを考えているんだ?」

不意に、杉ちゃんにそんなことを言われた。私は、外へ出て、ぼんやりと店の庭を散歩しているところだった。

「いえ、たいしたことじゃないわ。」

「大したことじゃないなら、話してみな?」

杉ちゃんにそういわれて、私は、胸に詰まっていることを話し出す。。

「身請けされることになったの。尺八の先生が、養女として、あたしをもらってくれるの。」

「はあ、そうか。身請けされるのか。でも、そうなればここからさようならできるんだからさ、素直に喜べや。」

そんなことできないわ。だって、すきな人とお別れしなければならないのよ。と、あたしは、がっくりと肩を落とした。

「もう一回言うが、素直に喜べばそれでいいのさ。水穂さんとお別れしなければならないのは、もう一回、乗り切っているじゃないか。」

「そうかあ、、、。」

その言葉を聞いて、私は、確かにそうだと思いなおした。

「お別れはつらいけど、お前さんの音楽は、あいつにしっかりと残ったと思うよ。それに水穂さんだって、お前さんがいつまでもここで働いているのは嫌だとお思うよ。それよりも、お前さんのすきなお箏をやって、金儲けするほうが、よっぽど、楽しいと思うよ。」

「そうよね。」

杉ちゃんの言葉を聞いて、私はやっぱり身請けの話は受け取ろうと思った。

とりあえず、ありがとう、といって、私は庭から建物の中に戻る。

杉ちゃんありがとうね。

水穂さんもありがとう。

私は、そんな言葉をつぶやきながら、いろんなものを片付けに、廻し部屋に戻った。もう、遊女ではなくなるのだから、要らないものが出るのは当然の事だった。私は、もう三浦屋のはなちゃんではなくなって、女性の渡辺花子に戻るのだから。

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箏曲手事 増田朋美 @masubuchi4996

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