4-2話 汝、なにものであるか?

「しかし、あなたも肝が据わっているんだかいないんだか。レナ・ブラッドペリの居城に単身乗り込んでくるなんて。しかも見習いの身でしょう」

 門を抜けた直後、緊張の糸が切れたアルカディアは、アーリアンに声を掛けた。

 何の気もない雑談……というわけではない。このアーリアンという少年を値踏みするための質問だった。本当に何の勝機も無く、ただ主のあとを追いかけてきたのか、それとも……何か隠し技を、レナを討伐しうるほどの技を持っているのか。

「い、いえ。私の居場所は……師父のお側だけですから」

 もしもレナが考える後者であったのならば、利用する価値があったというものだが、アーリアンという純朴な少年は、どうやら前者であるらしかった。アルカディアはため息を吐く。それがアーリアンを萎縮させる。

「お……おかしいでしょうか」

「その捨て身の献身は……評価するわ。だけれど命は大事にしなきゃね。あなたは定命のものなのだから」

「それは、そうかも知れません。私は吹けば飛ぶような見習いに過ぎません……」

「そうよね。ロザリオが無ければ魔性とも対峙できない、あなたのことだものね」

 アーリアンを貶めるような言葉を敢えて選びながら、レナはじっとアーリアンの目を見つめている。アーリアンを守っているのはちゃちなロザリオによる加護である。感じられる世の理への係留は、細い。アルカディアほどの力を持った吸血鬼ならば、魅了の邪眼によっていとも容易く千切ってしまって、体の良い傀儡にすることができるだろう。アルカディアはそう期待していた。

 しかし、アルカディアがどんなに見つめても、紅顔の美少年は少しだけ上気した頬と快晴の空のように澄んだ瞳で見つめ返すばかりだった。

「あの……恐れ入りますが、私の顔に何か付いていますか」

 おずおずとアーリアンが尋ねる。

「別に……何も」

 ――付いていないわ。だから問題なの。

 後半を辛うじて飲み込めたのは、アルカディア自身よくやったと思った。話題を変えようと、アルカディアは天を仰ぐ。

「良い天気ね」

 アルカディアが見上げた蒼穹には、小さな雲が三つばかり浮かんでいる。悠然と空を泳ぐその真っ白な姿に、アルカディアは驕っていた。何せ昼の景色など、今まで一度も見たことがない。憎むべき太陽と、蒼い空。そのはずだった。しかし今、それらの天敵はアルカディアにやけど一つ負わせていない。なんの苦も無くその下を歩くことが出来ている。

 蒼血啜りの居城で受けた様々な、身の毛もよだつような拷問によって大分力を削がれたと思い込んでいたが、どうやら見当違いのようだった。これまで一度も試したことがなかったが、アルカディアは光の理で遍く世界を照らす太陽の下を歩けるほどの狂気を未だ体に宿していることになる。

「でも、妙だわ」

「何がです」

「あなたには訊いてないわ。さっさと先を歩いて頂戴」

 しかし、だ。もしそれだけの魔力を持ちながらここで歩いているのだとしたら、ロザリオ程度の加護を打ち抜けないのはまったくおかしな話なのだ。そうして考えてみると、吸血鬼狩りが施したという薔薇の魔方陣も――連れ込まれるときにはアルカディアの力を大いに削いだものだ――それから門に施されていた防壁も、今のアルカディアにはまったく意味をなさなかった。

 アルカディアが狂気の圧縮された吸血鬼である以上、必ずぶつかる壁。それを今、すり抜けてきてしまった。

「見える、あなた」

 アルカディアがアーリアンに、背後に小さくなった門を見るよう促す。

「……門ですね」

「違うわ、お馬鹿さん。防壁のことよ。アレは今でも、貼られているかしら」

 アーリアンが言われるがまま目をこらす。

「……はい。少しずつ強度を増しています」

「そう」

 それでアルカディアには合点がいった。さっきまでは、その防壁は張られていなかったのだ。

 正確には、防壁を張る余裕がなかったというべきか。蒼血啜りとトマソンとの決闘は、それだけ熾烈を極めたのだろう。

 そして、もう一つの事実。

 それが今張り直されているということは、決闘の勝者は蒼血啜りに相違ない。

 戦慄する。すぐにでも奴らが追いかけてくるかも知れない。蒼血啜りの方は動けなくても、あの不気味な目をしたイロナが。

 アルカディアは震えを押し隠す。そしてアーリアンのまだ筋張っていない柔らかな手を、強く握る。アーリアンは身を固くするも、アルカディアの求めをすぐに察して、歩調を速める。

「よほど、恐ろしい目に遭ったのですね」

「……ええ。思い出したくもないわ」

「私には想像することも適いませんが……心中お察し致します。だってそのおきれいな髪が……髪が」

 アーリアンがこみ上げる憐憫を呑み込むために、言葉を切る。そして言う。


「そのおきれいなから、ところどころ色が失われてしまうほど。恐ろしい目に遭われたのですね」


「ええ、そうよ。およそ思いつく限りの悪逆非道を受けたわ」

 アルカディアは面倒くさそうに話を流そうとする。しかしその時、アーリアンが発した一言が、喉に刺さった骨のような違和感となって……

「今、私の髪の色が何色って言った?」

 アーリアンは当惑するが、それでも答えた。

「え。金髪です」

「金……!?」

「どう言うことです。何故狼狽えていらっしゃるのですか」

「そのロザリオ……! 丹念に磨いてあるのね、熱心なこと。ちょっと見させて」

 アルカディアは息を吐く間も与えず、アーリアンへ息のかかるような距離に近づく。そして胸ぐらを掴み上げて、アーリアンの提げている銀のロザリオを見る。


 映っていた。アルカディアの姿が。

「ひっ……!」


 映っているのだ。吸血鬼の姿が、よりにもよって銀のロザリオに。

 アルカディアはその時、吸血鬼として生を受けてから初めて覚える類いの恐怖に囚われていた。


 ――これは、どういうこと。


 世界の理を淡々と映し出す鏡面に、理から外れたはぐれ者は映らない。故に吸血鬼もそうだ。そのはずなのに。


 ――蒼血啜りたちは、いったい何をしたの。


 アルカディアは戦慄する。

 この世の魔なる所業を煮詰めたような苦役の果て。

 待っていた対価は……しかし先の苦痛を圧して、アルカディアをもっとも絶望させたのだった。


「……これじゃ、私が私じゃない……!」


   †


「私が……私じゃない? どういうことです」

 アーリアンが怪訝な声で尋ねる。

 驚きのあまり考えが回らなかったとは言え、アルカディアは自分の失言が致命的なものだったことに気付く。普通の人間は、鏡面に映るのだし、自分の顔など見慣れている。アルカディアはそんな、当たり前のことに狼狽してしまったのだった。長い時を吸血鬼として過ごしてきて、そういった人間の特性を忘れてしまっていて、アルカディアは今ごまかしの一手を必死に模索している。

 ここで、吸血鬼とばれてしまったら。村に降りたら即座に磔にされてしまう。

 焦るアルカディア。しかし助け船は、向こうからやって来た。

「……ああ、触れられたくないと思って避けていましたが。その痛ましい傷のことを驚いておられるのですね」

 傷? アルカディアに心当たりはない。しかしせっかくの好機。話を合わせなければ、死を待つばかりだ。

「…………ええ、そう。手ひどくやられた記憶も……もう残ってないわ。覚えておきたくなかったんでしょうね」

「右目の目尻を掠めるように二本……可哀想に。このことも併せて報告しましょう。蒼血啜りをなんとしてでも、審判の場に引きずり出さねば」

「――審判……? 何悠長なことを言っているの」

 アーリアンは義憤に燃えていたが、アルカディアは焦りと呆れが入り交じって思わず語勢を強めてしまう。決定的にずれている。この奇襲の好機をみすみす逃そうというのか、この少年は。

 先ほどから感じられていた違和感、というよりも疑念の一つが言葉として形を持った。このアーリアンという少年、素直に過ぎる。

 純朴、といえば聞こえは良いが、人が良すぎて、何も考えていない。誰かに利用されるだけ利用されて捨てられる愚昧な性格をしている。アルカディアにはそう感じられる。かつて東領で迎え撃った教戒師の何人かが、そういう質だった。教会の意思にすべての判断を委ね、自らはその傀儡として動くことを旨とする人間。望み通り何も考えずに済む傀儡にしてやった者だったが、このアーリアンという少年もまた、同じような思考の仕方をするようだった。

 ――つまらない男。

 こうしてアルカディアが回想に浸っている間にも、アーリアンはなぜアルカディアが怒っているのか分からない様子で狼狽えているのだった。一から説明しなければ分からないか。面倒くさい。

「いいこと、よく聞いて。なんだか知らないけど弱った蒼血啜りを、あなたの師父が――多分――瀕死にまで追い込んだ。あの蒼血啜りレナ・ブラッドペリが瀕死なのよ。この意味が分かる? つまり先行き長いあんたの一生の中でも、もう二度と無いって事」

「それは分かります。しかしブラッドペリ公は、形としては人間でありますし、人間は罪人でなければ誅することは出来ません。やはり一度神判を仰がなければ」

「神判! バカバカしい。私じゃ不足だって言うわけ? 蒼血啜りの城に軟禁されて何年か分からない、顔に傷までつけられた私の存在が、そのまま彼女の罪になると思ってた。だけどあなたはそう思わない。そういうわけね」

「い、いえ……。あなたが受けたいかなる苦痛も、主はきっとご照覧でしょう。だから、神託を仰ぐのです。要するに、私一人では判断できないと言うことです。なぜなら私はただの見習いで」

「あー、はい。はい。分かりました。それならさっさと村に戻るわよ。大急ぎで! 時間切れになっちゃ、つまらないからね」

 アルカディアは呆然としているアーリアンを置いて、さっさと丘を下って行く。

 この小僧と話していると、イライラする。

 それはきっと、彼が生粋の信徒でありながら、これまでなぶり殺して操ってきた蛮勇の教戒師たちと違って気骨がないからだと思われた。

 こんな弱腰の少年に対してすら、今の自分は無力なのだ。

 かつての私は、どんなに鍛練を積んだ教戒師であっても平気でひねり潰せたというのに。

 アルカディアの煩悶は、要するにそういう事だった。レナ・ブラッドペリによって奪われた力を。アルカディアは取り戻したいのだった。



 村に戻ったアルカディアたちを待ち構えていたのは、しびれを切らした様子の村人達だった。

 皆一様に不安げな顔をして、中には震えている者もいた。そして口々に、思い思いの不安を二人にぶつけた。飛び出していった修道士トマソンの安否を問う者。レナ・ブラッドペリを刺激して大丈夫だったのかと訝る者。大きく分けてその二つだった。アーリアンはそのどちらにも、一貫して答えようとしなかった。「まずは司教様のご判断を仰いでから」と躱したのである。

 それは教会という組織の仕組みとして正しい判断であったし、実際のところ、人心を不用意に揺るがさないためにも必要なことだった。アーリアンの拙い知識と言葉では、「恐らくトマソンが死んだだろう」という一見無責任にもとれる報告をうまくまとめられなかったに違いない。

 群衆の中を割って進み、アーリアンはアルカディアを教会へと導く。強ばっていくアルカディアの顔に、気付くことなく。

「さぁ、あそこがこの村の教会です。暖かい暖炉とスープがありますよ……どうしました、足を止めて」

「……いいえ、なんでも」

 なんでも、ない。

 そんなことが、あるわけがない。アルカディアは怯えていた。

 自分がこれまで、どれだけの教戒師を屠ってきたか。どれだけの恐怖をこの世にばらまいてきたか。この純朴な少年は知らないから、アルカディアを教会などに連れ込もうとする。敵の総本山に、連れ込もうとする。

 アルカディアは、教会の敷地と村を分かつ境界を跨いだまま、一歩も動こうとしなかった。手を引いていたアーリアンが不審がって振り向き、アルカディアが浮かべているこの世の終わりを迎えたかのような表情を見て、怪訝な顔をする。

「あの……先ほどから気になっていたのですが」

「な、によ」 

「貴女……教会に入ることに不安がおありですか」

 流石に気付かれるか。アルカディアはいよいよ焦りを露わにする。冷や汗というものを、久方ぶりにかく。蒼血啜りと対峙したときと、動と静の違いはあれど同じ状況だ。生き死にを今、握られている。目の前の非力な少年に………

「ならば」

 アーリアンが口を開く。

 踵を返して逃げだそうか、それとも前に出てこの少年を倒すか。アルカディアの頭は焦りに焼かれていて、どちらも選択することが出来ない。棒立ちのまま、アーリアンが選んだ言葉を、拝聴する。

「ならば……尚更参りましょう。私を庇護して下さった教会へ」

 しかしアーリアンがこぼしたのは、アルカディアへの非難でも、糺弾でもなく、優しい誘いだった。

「お話しなかったかも知れませんが、私は師父によって、魔宴から救い出されてここに立っています。貴女を……つれて。そして貴女をここにお連れすることが出来たのもまた、師父の貴い犠牲によってです。故に私たちは、兄妹も同然です」

「……突然なにを言い出すの」

「私も最初は、私のような者を拾って下さった教会という存在に、懐疑的だったものです。生け贄となるはずだった私を、無垢な体など一つも無かったわたしのことを身請けして下さるなどと、考えられなかったのです。なにが言いたいかというと……安心して下さい、アルミナ。教会の慈悲はあらゆるものに遍く届きます。貴女や……私のような救われぬものにも」

 それはアーリアンが紡ぐことの出来る、精一杯の励ましの言葉だったのだろう。アルカディアはため息を呑み込み、同時にその重要な事実に気がつく。

 アルカディアが吸血鬼であると見分ける根拠は、今や存在しないのだった。

 自らその目で確かめたばかりだった。ロザリオに映ったアルカディアの顔は、金髪に碧眼というおよそ吸血鬼という狂気とはほど遠い姿になり果てていた。ならば教会の連中に、その正体を看破されることも――少なくとも一目では――あるまい。

 そう気付いてしまうと、心が少し軽くなる。アーリアンの言葉を信じて、足を進めてみたくもなる。

 何より、あの蒼血啜りを滅ぼすためには。

 今のところ、教会の力が必要なのだ。


「……ありがとう。勇気が出たわ」


 アルカディアは笑みを浮かべ、決然と境界線を跨ぐ。

 レナ・ブラッドペリ。彼の悪魔に引導を渡すために。



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