3-6話 ひかり

 白の塔の頂上に構える、アルカディアのための牢獄以外を目にするのは、彼女にとっては初めてだった。

 しかし、分かったことがある。この城は非常に丹念に、整備されている。燭台に一つ一つに太い蝋燭が灯っているのはもちろんのこと、真鍮でできたそれはアルカディアの顔を映し出さんばかりに輝いている。もっとも、吸血鬼であるところのアルカディアは、その姿をあらゆる反射するものに映すことはないのだが。

 廊下に敷かれている絨毯だってそうだ。壁石の様子から古城であることには間違いないのに、絨毯はまるで新品のように毛先が立ち、柔らかく裸足のアルカディアを包み込む。額装された風景画にも埃一つ無い。時の流れるに任せて仕方の無い部分以外、人の手でなんとかなる部分は、徹底的に磨き上げられていた。

 一体誰が――苦しく永劫にも思える記憶が蘇った。猫の目のイロナによる仕事に違いない。命じられれば何でもやり、無数に増えるレナの屋敷幽霊。彼女らが総出で、掃除を引き受けていたのだろう。

 まるで、大切な客人がいつか訪れると信じていたかのように。その人物に恥じぬように。


 ――誰のためなの。


 尋ねようとしたが、アルカディアは止めた。どうせ、また蹴り飛ばされるのがオチだ。

 それよりも。

 逆襲の機会は、実は今なのではないか。アルカディアは画策する。

 廊下は長い。転じて、広い。広い空間に魔術的結界を施すことは難しい。たとえレナの狂気が、いかに膨大な物であったとしても。

 彼女の目的地がどこだか知らないが、部屋に入るとなるとまた話が違ってくる。アルカディアへの備えが、あるかもしれない。備えと言っても様々あるだろう。単に彼女の力を削ぐだけの物ならまだマシだ。そこに、これ以上の責め苦を強いる器具があったとしたら…………アルカディアは身震いする。そして目の前、といっても半身ほど頭上にあるレナの首をにらみ据える。

 牙は抜かれたが、爪は残っている。足は動く。ならば、切り裂けるはずなのだ。蒼血啜りとはいえただの人。首をかっ切ってやれば赤い血を流して死ぬはずなのだ。敵は前を注視したままで油断しきっている。周りにイロナの姿も見えない。絶好の勝機。報復の機会。

 

 それなのに、アルカディアは。

 動けなかったのだった。


 ――ここでし損じたら、どうなる?

 怯えのためだった。それから。


 ――に見せたい物……って、どういうことよ。


 これが遠征から帰ってきた息子や娘に対しての言葉ならまだ分かる。しかし彼女は東の一帯を荒らし回った吸血鬼、アルカディアだ。その吸血鬼に対して、”見せたい物”があるなどと。

 まるで、そのために生け捕りにしたかのようではないか。

 蒼血啜りの真意は読めない。しかし言い知れぬ悪寒が、アルカディアの背筋を走った。

 この蒼血啜りの考えることだ。何か悪いことが起きるに違いない。

 このレナ・ブラッドペリが抱く真の目的というのが、この先にあるのだと思うと。これまでの身の毛のよだつような拷問の数々を結実させる何かがこの先に待ち構えているのだと思うと。

 その実幼い娘のままであったアルカディアの胸は、ぎゅうと縮まって苦しみにあえぐ。すると蒼血啜りが即座に振り向いて、声を掛けた。


「大丈夫かい(、、、、、、)」


 アルカディアは唖然とするあまり、しばらく声が出なかった。

「は?」

「その様子なら歩けそうだねぇ。ほれ、早く着いてきな」

「ちょっと待って。今なんて言ったの」

「蹴り飛ばされたいのかい。今の血液が枯渇したお前さんじゃあ、骨が砕けてもそう簡単には治らないよ」

 その苛立ちを含んだ言葉に、アルカディアは黙る。先ほどから端々で顔を見せる弱気は、自らが魔力の根源とする血液の枯渇から来る物だったのだと悟る。

「そうだ。そうやって黙って付いてくりゃいいんだよ」

 ふたりは再び歩き始める。そのお互いが、お互いに不安を抱えたまま。

 アルカディアの不安は、恐怖から来る物だった。

 そしてレナの不安は……アルカディアの知るよしもない。

 アルカディアは蒼血啜りが、次第に階を下っていることに気がついていた。それは即ち城の門扉へと近づいていると言うことだ。

 見せたい物、など本当は無いのではないか。自分を太陽の下に引きずり出すための、甘言だったのではないか…………。そう疑い始めた矢先、レナがやおら立ち止まった。

「ここだよ。長く歩き回って疲れたろう。少し休んでいこうじゃないか、ええ?」

 何の変哲も無い、小さな扉の付いた、恐らくは小部屋だった。ただ、アルカディアの緊張に研ぎ澄まされた観察眼は、その手すりが今まで目にしてきた真鍮製の家具とは一変、ひどくくすんでいることに気がついた。

 そうしてみれば、今まで目にしてきた中で、この扉だけがいやに古びているのだった。塗装ははげ、端々がささくれ立っている。まるで、時の流れの中に取り残されたかのよう。

 この部屋は、屋敷幽霊イロナの手の下にないのだということ。

 単に見落としているのか? それはあり得ない。イロナはあえて触れていないのだ。恐らくは、レナ・ブラッドペリの厳命によって。

「……随分使われていないようだけど? 本当に休めるの」

「物のたとえだよ、お馬鹿さん。中を見たらすぐに出発だ」

 アルカディアを詰りながら、レナは扉に近づく。そして胸からだしたロケットを、扉にかざす。すると、水滴が落ちるような澄んだ音がしたかと思うと、扉に緩やかな水色の波紋が走った。そして鍵の開く音がやさしく、


 かちり、


 と鳴った。

「ねぇ、聞かせて。この中には何があるの」

 アルカディアが尋ねたのは、今度は不安ばかりではなかった。たとえ簡易的な物とは言え、孤立施錠された部屋など、始めて見た。この施錠を施された部屋は、その鍵を持つ物以外の接触や侵入を許さない。人は勿論、空気、水、そして時間ですらその限りではない。

 そうした厳重な封印の中にある物とはいったい何か。

 そうまでして保管された、アルカディアに見せたいものとは……いったい何か。

 アルカディアは躊躇う。

 ――私に(、、)見せたいってどういうこと?

 そもそも、話の前提がおかしい。アルカディアは人間にとって、討ち滅ぼすべき敵であるはずだったし、そうされるものだと信じて疑っていない。そこに来て蒼血啜りは、まるでアルカディアがこの場に現れるのを心待ちにしていたかのような物言いだ。

 その目的が吸血鬼なら何でも良かったのか、それともアルカディアでなくてはダメなのか……怯えるアルカディアにはそれを考える余地は無い。

 吸血鬼を捕えては、ありとあらゆる方法でそれをいたぶる。この城から出た吸血鬼はいない。ならば……度重なる拷問の果て、力を失ったアルカディアを通そうとするこの部屋は、まるで断頭台のようではないか。

「……ねぇ、なにがあるの」

 語尾を震わせながらアルカディアは問うた。返事はない。蒼血啜りはドアノブに手をかけたままだ。目頭に手を当てて、懊悩の表情。

 蒼血啜りがいったいなにを悩んでいるのか、アルカディアの知るところでは無い。しかし、この期に及んで何を躊躇っているのか、なぜ躊躇っているのかについては、興味と言うほど強くはないが、淡い好奇心が湧いた。これまでの冷徹な蒼血啜りのこと、アルカディアを加害する事に対して今更躊躇するとは思えない。となればこの中にあるものは。

「……臨むところだわ。見てやろうじゃないの」

 アルカディアは蒼血啜りに発破を掛けるように、強気な語勢で言った。すると蒼血啜りの態度が、正確にはアルカディアの手を引く骨張った右手が、僅かに緩むのを感じた。これもアルカディアにとっては意外なことだった。蒼血啜りの態度が、他ならぬアルカディアの言で軟化するなどと…………。

「そうかい」

 蒼血啜りは短く言った。疲れ切った、しかし多分に安堵の含まれる声で。

「それじゃあ、行こうかね」

 押し開きの戸が、蒼血啜りの手によって開かれる。部屋の全容は、孤立施錠の影響により外からは見通せない。

「さぁ、お入りよ」

 またも短く言う。まるでそれ以上の言葉が出てこないかのように。

 アルカディアは促されるまま、部屋へと入るつもりでいた。どのみち逃げ場はない。それにつけて、部屋の中身はアルカディアを害する物ではどうやらなさそうだったから。

 だから孤立結界に向けて一歩踏み出したとき。

 枯れ枝のような細い腕に抱きすくめられて、トロルのような強い力で引き戻されたとき、混乱のあまり状況に追いつけなった。

「何故ここにいる!」

 蒼血啜りの怒号があとから響く。ついで鈍い打撃音。蒼血啜りが挙げる、くぐもった悲鳴。アルカディアが自らを抱きすくめる蒼血啜りとともに吹き飛ぶ。広い廊下を一部屋、二部屋……三部屋分。

「何故。何故だと。よくもまあいけしゃあしゃあと無実面が出来たものだな、魔女め……!」

 廊下に反響する喝破。蒼血啜りをそう呼ぶ蛮勇と胆力を持つ者は、この辺境の地には一人しかいない。

 修道士トマソン。拳の勢いもそのままに、倒れ伏した蒼血啜りに迫る。

 鬼気迫る形相。迷いのない走り。彼が未だに人間であるかどうかについては……もう少し、観察が必要かも知れない。

 

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