3-5話 アルカディア解放
白の塔を上るレナの足取りは重い。
長い螺旋階段を一歩踏みしめる度に、その顔に苦悩が現れては消えるのが見て取れる。
しかし、レナの行為は単純だ。弱らせに弱らせた吸血鬼を見に行くだけだ。そこに苦痛を伴うのは、単に幽閉生活を送っていた疲れのせいだけではない。
「お嬢様……。私どもはすでに白薔薇の見張り台の前で待機しております。先行して様子を確認して参りましょうか」
「馬鹿も休み休みお言い、イロナ。お前さん、人の料理皿から主菜だけ抜き取って食べようって言うのかい」
「これは失礼致しました。あなた様は今日という日のために、自ら囚われの身となったのでしたね」
イロナは冷淡な目の下に、全てを包み込むように穏やかな微笑を浮かべて言った。
「こうでもしないと、すぐにでもアルカディアお嬢様のところへ飛んで行ってしまうから……。始めにご依頼を承ったときには、この御仁、ついに膨らみすぎた狂気に呑まれたかと危惧したものでした」
「おや、今更気付いたのかい。あの日あの瞬間から、あたしはとっくに狂っちまっているさ。だから奴らを狩れたし、アルカディアはその集大成だ」
階段を上る負荷と、気力の減衰によって息も絶え絶えだったレナ。しかしその歩みは、階が進む毎に力強く、早くなっていく。イロナはそれを見出して、ほっと息をついたものだった。
「不安で折れてしまってはいないかと心配しておりましたが、無用でしたね」
「あたしが折れるもんかね……これ以上。さぁ、見張り台だよイロナ。用意は出来ているだろうね」
目の前には、特別の職人が作り上げた、銀のメッキを施された鉄扉。
この向こうにアルカディアがいる。
レナは扉の閂を震える腕で押し上げ、それが落ちるが早いか両扉を押して開いた。
すかさず四体のイロナの炎剣が、幽けき灯りで部屋を照らし出す。
アルカディアは、いた。
膝立ちになる事もせず、『銀の肺』が促すままに背中を反らした姿勢のまま、床に転がっていた。
しかしその容姿が、特筆するならば髪色が、大きく変わっていた。全くの透明と呼んでもよいほどの銀髪だったのが、まるで樫の木肌のような薄暗い茶色へと変化していた。
レナの厳とした顔に一瞬、安堵の色が差したのを、イロナは見逃さなかった。しかし一瞬のことだ。レナにとっては、その変化は序曲に過ぎない。
光が差しても、アルカディアが動く様子が無い。レナは大声で呼ばわった。
「やあ、東のアルカディア。お加減はいかがかな」
その声に、アルカディアはピクリと身を震わせた。そしてイロナたちと、最後に蒼血啜りの姿を認めて、こういったのだった。
「……やっと私を、殺しに来てくれたの」
真に迫った痛切な願いだった。
いかに東のアルカディアといえども、もはやレナに対抗する手段は残っていない。彼女が唯一魔力の供給源とする吸血牙は、聖水による口内の焼結によって失われた。その屈辱へ追い打ちを掛けるように、三週間以上にわたっての幽閉だ。彼女に残っていた魔力の残滓も、抗おうという気概も、全て失われた。
今そこに横たわっているのは、屠殺されるのを待つ家畜のような目をした、一人の少女の様な物に他ならない。稀代の魔性狩りに抗おうなどと、考えも出来ないだろう。
自らを迎えいれようとする死の定め。それを救いと感じるほどに、アルカディアは弱っていた。
しかしレナは。
「いいや」
無情だった。しかし次いだ命令は、アルカディアにとっては福音であるのかも知れなかった。
「イロナ、銀の肺を外せ」
「よろしいのですね」
「ああ。成功だ」
体を縛りつづけていた銀の肺という忌々しい小道具。それを外してもらえるのならば、これほど嬉しいことはない。
しかしアルカディアは知っている。この蒼血啜りが、アルカディアの利になる事をするはずが無いと言うことを。
「こんどは、何をさせるつもり……」
「簡単さ。外に出てもらう」
アルカディアは息を呑んだ。疲弊と戦慄のあまり声が出なかったためだ。
「……昼間よ」
「ああ。それがどうした?」
「それがあんたのやり方ってわけ。最期は太陽の力に任せようって」
日の光、と言えば吸血鬼の主要な弱点としてよく知られている。それは吸血鬼と言う存在が自由奔放な狂気の塊であることに由来する。人の行いを遍く照らすことで律する太陽の動きや日差しは、この世でもっとも大きな力を持った法規だ。それに照らされることで、狂気は多かれ少なかれ矯められて力を失う。
平時のアルカディアであれば、日の光など物とものしなかっただろう。彼女の内に住まう狂気は、それほどに膨大な物だったからだ。しかし吸血鬼としての力を極限まで削がれた今となっては、その限りではない。
「ふん……吸血鬼は吸血鬼なりに、わきまえているじゃないか」
レナがそれを裏付けるかのように鼻で笑った。
「だが人の話はよく聞くこったね。殺しに来たわけじゃない。そう言ったはずだよ、あたしは」
「でも、いたぶりに来たんでしょ。私の肌がじっくり焼け焦げていくのをみながら、ワインのいっぱいでも傾けるつもりなんでしょう」
「そうできたら最高だねぇ。べつにお前さんの肌が焦げなくたっても構わない。日の光の下にお前さんを出せれば、それで十分さね。イロナ」
「ここに」
「足枷を斬れ」
「…………は?」
アルカディアも驚いたが、イロナの方も戸惑いを隠せない様子だった。
「お嬢様。それはなりません……これを、解き放つおつもりですか」
「いいから斬れ、と言っているんだ。従えないのか? 屋敷幽霊」
「私どもの主人はあなたではなく、この城でございます。この城を危険にさらすような真似は、たとえお嬢様の命であっても出来かねます」
「そうかい。そいつは残念だ」
言うなり、レナは虚空から巨大な鎌を取り出した。
そしてそれで、アルカディアを縛る枷を切り飛ばしたのだった。
「さぁ、自由だよ。アルカディア」
「あんた……正気?」
「正気の人間に何が為せるものかね。もし歩く気があるのなら……付いておいで、アルカディア。お前を太陽に晒す前に、見せたいものがあるんだ」
その一言にイロナははっとした様子だったが、アルカディアには何のことだか分からない。
分からないが、一つだけはっきりしたことがある。
――これは、脱出の機会だ。
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