3-3 トマソンの失意
「……役に立たない村人どもだ!」
村に一つの教会、その修道院の中の一室。そこでトマソンを頭をかきむしりながら叫んでいた。
「これだけ聞いて回って、蒼血啜りの事情が何一つ分からないだと……? ふざけるな!」
あの屈辱的な敗北の日からずっと、トマソンはレナ・ブラッドペリという女――蒼血啜りという狩人に関する情報を集めようと試みていた。どんな些細な噂でもいい。それが糸口になって、奴を打ち倒す力になるかも知れないというのに。
村人から出てくるのは一連の約定だけだ。
『”レナ・ブラッドペリが帰ってきた”』
『”女子どもは家の中へ。戸締まりをして外を見るな”』
『”あの魔女に、捕まっちまわないように……!”』
「恐れてばかりではないか! なにも知ろうとしていない!」
拳が白樺材の机を激しく打ち据える。しかしその音と衝撃が、トマソンを正気につなぎ止めた。
「……そうだ。市民とはそうであって当然なのだ。恐るべき存在に対して、恐怖のあまり何も出来ないというのは……自然なことだ」
だから俺がいる。
トマソンを奮い立たせるのはその義憤ただ一点だった。無力な市民の代わりに、教会という力を振るって彼らの恐れを断つ。恐れの根源を粉砕する。
蒼血啜りと言う存在を、あの城から消し飛ばしてみせる。
その決意は灼けた鉄のように熱い。しかしトマソンは卓越した拳闘士でもあった。彼我の実力差――と言うよりも、勝算を見積もることくらいは出来る。
今のまま再び奴と対峙すれば、今度こそ敗北するだろう。
イロナとか言う屋敷幽霊についてもそう。初撃こそ入ったが、あれはあれで相当な使い手であり、その上何人現れるか分からない。
蒼血啜り本人についてもそう。本人の戦力もさることながら、こちらには邪視が効いてしまうという不利がある。邪視によって冷静さを欠いた状態で戦わされれば、結果は目に見えている。
「……いったい、どうすれば」
トマソンの懊悩は深い。
なぜなら一度集めた人心が、再び離れ始めていたからだった。
大木をへし折るという盛大な示威行為を行ったトマソンだったが、その衝撃の強さ故に市民が失望していく速度も速かった。
『あれだけの力があるなら、今すぐに乗り込んでいけばいいのに』
『何をもたもたしているのかしら』
『ひょっとして、大口を叩いているだけで、実はあれのことを恐れているんじゃ…………』
「うるさい!」
再び激しい音で打ち鳴らされる机。しかし、今度は答える者があった。
「師父! どうされました、お一人でそのように」
「……アーリアンですか」
トマソンはこちらに来るよう、アーリアンに促した。するとアーリアンは恐る恐る足を差し伸べながら、トマソンの腕の中に収まった。
安らぎに目を細めるアーリアン。しかし漏れ出した本音は、若い心の震えをそのまま表していた。
「師父、私は心配でなりません」
「なにがです」
「あの日以来、師父は変わられました」
トマソンの屈強な腕に抱かれながら、アーリアンが呟く。
「寝ても覚めても、あのレナ・ブラッドペリを滅することばかり……そうお考えなのでしょうから、無辜の子羊たちにもつらく当たられていらっしゃいます。それが、心配でなりません」
「アーリアン、君が何を心配しているのか私には分からないよ。化生がいて、それを狩る。それは教会のあり方そのものではありませんか。それがたとえ、どんなに強大であっても」
「僭越ながら……師父。あなた様がとる高圧的な態度のせいで、人心は離れる一方です」
「ああ……そうだとも。分かっているとも。民草の誰もが心のまま化け物退治に賛助してくれるとは限らない。それをこのたび私は痛感しているところです」
絹のようにきめ細かいアーリアンの頭髪を撫でながら、トマソンは吐き捨てた。
「師父……おいたわしや。心なしか目が落ちくぼんでいらっしゃいます」
「あの魔女のことを考えると、おちおち眠れもしないのですよ」
「最近は礼拝にもいらっしゃらなくなりましたね。魔女のことばかり考えているせいですか」
「いかにも……恥ずべき事ではありますが、今は主におもねるよりも先にやれることがある」
トマソンにとって、それは何気なくこぼした一言だった。しかし年若いアーリアンにとっては――ただ主を盲信することしか知らない純粋な彼にとっては、雷鳴の轟くような衝撃を孕んだ言葉だった。
アーリアンは師父を見上げて、早口で言った。
「師父。今こそ主の御心を伺うべきではないですか。師父は惑っておられます。いいえ、惑わされております。あの魔女の……邪視……とかいうものの残滓が残留しているに違いありません。主のお言葉を軽んじられるなど、今までの師父では考えられなかったことです」
「アーリアン」
それをトマソンは遮って、鉛のように重い目つきをして言った。
「人を救うのは主ではない。主の御心を受けた信徒たちです」
アーリアンに再び、強い衝撃が走った。
それは、背教の言葉だった。主の恩賜は遍く人の上に降り注ぎ、その加護によって人は救われるのだと、アーリアンは信じていた。
それを、規範となるべき師父が否定する。
「主の御心ならば、それは常に我が胸にあります。私はそれの執行者。それだけのことです。余計なことを考えず、着いてきなさい、アーリアン」
「……そういうことならば、私にも手伝わせて頂けませんか」
なんとかそう言えたのは、敬愛ゆえだった。師父としてはもはや尊ぶに忍びない様子になってしまったトマソンだが、それでもアーリアンは彼のことを慕っていた。
なぜならトマソンは、彼の逸話としてもっとも恐れられる『魔女三十人殺し』の真ん中で、祭儀の贄として捧げられるはずだったところを救われたのだから。あの時翻ったトマソンの長いローブ、燐光を帯びた鋭い拳、そこらから舞い散る血と脳漿の飛沫、断末魔の悲鳴、それらは鮮明にアーリアンの根底に刻まれている。
魔性は殺すべきだ。身を以て経験したアーリアンは、それには同意する。しかしそれは、主の恩賜を届けるべく行われるものであって――あの蒼血啜りは、そういう意味では共に化生を狩る味方なのだ。
だから、あれを狩るためには納得できる理由が必要で。アーリアンはそれを集める役を買って出ようというのだった。
「師父。あなたの鬼気迫る形相に詰め寄られては、出る言葉も出ないでしょう。私が代わりに、蒼血啜りの事を聞いて回ります。微力ながら……大変恐縮なのですが」
「アーリアン。ありがとう。それでは少し、頼んでも良いでしょうか。俺……私は、少し休みます」
「眠られるのですか」
「いいえ、そのような時間は無い。文献を……教会の所蔵している日誌をあたります。教会ならば何かしらの記録を残しているはずです」
トマソンは立ち上がった。しかし立ちくらみを覚え、座っていた椅子の背もたれに手を付いて耐えた。
アーリアンが駆け寄って言った。
「師父。その不調はあなた様が人間である証左だと私は考えます。どうか一度、お休み下さいませ」
「いいえ、アーリアン。人であるからこそ無理を通すのです。だからその手を離しなさい」
アーリアンが知らずのうちに、トマソンの節くれ立った手を強く握りしめていたのだった。その手は未だ穢れを知らぬ純白を呈している。それはきっと、これからもずっとそうなのだろう。純粋なアーリアン。主の教えのみを本気で信仰する、無垢な信徒。
――アーリアン。そのままでは、いずれ取って食われますよ。
素直に手を離したアーリアンに対して、トマソンは苛立ちに近い感情を覚えていた。
その感情に囚われたトマソンは気付かなかった。
『この純粋な信徒が、自らのことを信じてくれている』
そのことそのものが、トマソンの心をつなぎ止める楔となっているのだということを。
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