2-5話 焼結

 白の塔、その最上階へと向かう螺旋階段を、レナは上っている。

 アルカディアを幽閉している檻へと向かっているのだった。その右手には葡萄酒を小売りする時に用いるような大きさの、乳白色をした瓶が握られている。その中身は、今日これから、更なる責め苦をアルカディアに与えることになる。

 瓶を握りしめる手に力を込めすぎて、割ってしまわないように、レナは気を配り続けていた。

 いまこそ、これが真価を発揮するときなのだ。イロナから報告があった。執拗に抜き続けたアルカディアの牙は、先ほど抜いた分を最後に生えてきていない。次の段階に進むときが来たようだ、と。

「ああ、そうとも。あたしたちは前に進んでいる」

 誰に聞かせるでも無く、レナは呟く。石壁に吸い込まれた声は、きっとイロナの誰かが聴いている。


 こつん、こつん……


 足音が寂しげに響く。足取りは重い。まるで処刑台に上る囚人であるかのようだった。囚われの身なのはアルカディア。そのはずなのに、レナの方がまるで死に歩み寄っていくかのようだ。それは階段を上る毎に重さを増し、アルカディアの独房へたどり着くころには歩みを進めるのに頬を張らなければならなかった。

「ついにここまで来たんだ……なにがなんでも、あれを滅してみせる。そうだろう?」

 答える声はなかった。それで良かった。レナの言葉は自らを奮い立たせるための物。

 牢獄の扉を前にして、思わず祈りの膝をついてしまいそうになる自らを、奮起させるための物だ。

 

 ――あたしは神には祈らない。頼るのはあたしのこの心だけ。


 これからのことが上手くいくという確証はない。しかし絶対的な力を持つ他者に、その結果を委ねるのはごめんだ。

 レナは、レナ自身の意思でこの所業を続けている。その半ばで神なるものが実際に持つ権能をこれから用いることになるのだが――それは祈りではない。恵みを利用させてもらうだけのこと、その辺に生っているリンゴをもいで食べるのと何ら変わりない。

 しかし、もしもこれが上手くいったとしたら。

「……ふふ、村の教会まで行って、布施の一銭でも投げ込んでやるかね」

 レナは独りごちて、自らの妄言を切り捨てるかのように鋭い咳払いを一つ。

 そして檻の扉に手をかけて、ゆっくりと開いた。耳に飛び込んでくるのは、闇の中にうずくまっていた――否、うずくまることすら許されずによだれと涙を垂れ流していたアルカディアの悲鳴である。

「は……ひぅ……っ! そ、そうけつ…………!」 

 昨晩には辛うじて見られた、意地の欠片はもはや何処にもない。大陸の東における支配圏を瞬く間に席巻した大吸血鬼は、今や目の前の脅威に対して素直に怯える無力な少女と変わりない。

 その吸血牙は、イロナの報告の通り失われている。アルカディアの足許にまだ潤いを残した血痕がある辺り、ごく最近最後の抜歯が行われたのだろう。

「いい仕事だ。そうだったろう? イロナの腕前は」

「や、やら……! やめへ…………おねがい…………なんれもするから…………いらい……」

「何でもする? そりゃあ重畳。それじゃあ、健気なアルカディア嬢にはをあげないといけないねぇ」

 レナは鋼で出来たかのような無表情を崩さずに言った。

 アルカディアの表情が一瞬、明るくなる。しかしレナの冷たい顔と、お召し替えのことを思い出したのか、すぐに怯えに支配された様子に戻る。

「…………こんろは、なによ」

「身構えなさんなよ。。それだけさ。口の中が血だらけで気持ち悪いだろう……いや、お前たちにとってはその状態が至福なのか? まぁ、知ったこっちゃない」

「へ?」

 レナが提示した行為は、これまで受けた苦痛に比べれば遙かにたやすい物だった。拍子抜けしたあまり、気の抜けた声を出してしまうアルカディア。そんな様子を余所に、レナは持ち込んだ小瓶から、ティーポッドへと中身を移し替えている。

「悪いねぇ、痛い思いばかりさせていて。ただ、ここまで耐えたのはお前さんが初めてだったよ。残りは忌々しい牙を引っこ抜いてる最中に消滅しくさったもんさ……。さすがは東のアルカディア、と言ったところかね」

「……ろーれんよ。そこらの雑魚らころもと一緒にしないれ。こんなろころくたばくららってなるもんれすか」

 回らない舌で憎まれ口を叩く余裕も出てくる。何せアルカディアは今まで、この世に地獄が顕現したのかと思わされるほどの痛みを何回も何回も味わわされて来たのだから、それを耐えきった今、「今更うがいだなんて……」と高をくくっていたのだった。

 しかし提示されたその行為を思った瞬間に、ひどい悪寒がアルカディアを襲った。

「待っれ、その水……?」

 小瓶はティーポッドをちょうど満たして、空になった。用済みとなったその乳白色の瓶は、石床にたたき付けられて耳を刺すような悲鳴を上げながらその生涯を終えた。

 まるでアルカディアが得た安心が、打ち砕かれる音のようだった。レナは依然、触れれば凍傷になりそうな顔をしたままだ。そしてアルカディアへと、ゆっくり、歩み寄る。問いに答えようとは、しない。

「やら、しょっとまっれ、やら……! なにをのませる気……!」

 身を捩ろうにも、裸に近い体を拘束する銀の背骨がそれを許さない。忌々しい拘束具はさらに仰角を増し、アルカディアの顔を上向きにさせた。となれば、これはまさしく拷問の続きなのだ。するとあのティーポッドの中にある液体は――――


「おねがい、やめれ」


「何でもするって言っただろう?」


 アルカディアは頬を掴まれて、口を開くことを強いられる。それ以上なにも言えない。

 そこへ、ティーポッドの細い注ぎ口が差し込まれる。


「なに、お前さんにとってはね……ちょいと熱いだけさ。我慢しておくれ」

 そして、再び地獄の釜が開いた。

 口の中へ一息に注がれた液体は、灼けた鉄のように熱かった。それを受け止めた喉元が、噎せ返ってそれが飛び散った上顎が、舌が、灼ける、灼ける! 熱さと痛みのあまりにアルカディアは吐き出そうとするが、蒼血啜りが口を押さえ込んでいるのでそれも叶わないのだった。やがて彼女の口腔は、余すところなく沸きたった水銀で満たされたかのような灼熱の地獄と化した。

 熱い、熱い! しかしそんなはずはないのだ。熱いはずがないのだ。なぜならレナもまた同じ液体を、手のひらで押さえ込んでいるはずなのだから。吸血鬼ですら身もだえするこの溶鉄の温度に触れて平然としていられる人間など、いるはずが無い。

「聖水だよ」

 残された顔の穴という穴から苦悶を溢れ出させるアルカディア。そこへレナが淡々と答えた。

「キール・アーチェの北峰、その最果て。奴らの主とやらが最期の巡礼に向かい、そこで十二の聖典と共に自らを埋め、この世の礎となった……なんて与太話の現場で取ってきた雪解け水さ。本当に効くのか半信半疑だったが、どうやら上手くいったようだねぇ」

 しかしアルカディアにとっては、それが何物かなどとどうでも良いのだった。レナの言葉など聞こえてはいなかった。散々いたぶられた末に、とどめとばかりのこの仕打ち。吸血鬼がもつ青ざめた血を垂れ流していた、牙の生えていた穴からもその聖水は容赦なく侵入し、体の深い部分を焼く、焼く! くぐもった悲鳴を何度も何度も挙げてアルカディアは懇願するが、レナの無情な手のひらが離れることはない。

 城下に広がる村民の誰も、この祭儀のことを知ることはない。

 レナがどんな思いで、憎まれるべき吸血鬼をいたぶっているのかも。

 その結果アルカディアを、どうしたいのかも。

 全ては鉄仮面のように硬い顔をしたレナの瞳の奥。そこに灯る炎を狂気と呼ぶのだとしたら、それは瞬きにも等しい時間の間だけ、彼女の心に広がったある種の雨によって火勢を損なった。

 瞬間のことだ。レナはそれを、瞳からあふれ出ないよう堪えるのに、必死だったのだった。

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