2-1話 ロケット
「おはようございます。ブラッドペリ公。よく眠れた……わけがございませんね」
翌朝のことであった。イロナは普段通り寝所にレナを起こしに行ったが、そこに彼女の姿はなかった。急ぎ八方に自身を散らした結果、城の主は上等な革張りの椅子に腰掛けながら、自らの執務机に虚ろな目を落としていたのだった
イロナが入口の戸をノックするまで、レナが従者の接近に気付いた様子はなかった。その時初めて顔を上げ、手にしていたロケットをパチンと閉じると、「ああ」と漏らした。
「せっかく用意してもらった耳栓も、だめだったよ。おかしなもんだね。石積みで二重にしておけば、大概気にならないもんだったが」
「それは仕方の無いことでございましょう、ご主人」
「なんだと」
「そのロケットの中、私どもめが知らないとでもお思いですか?」
その時、レナの白樺のような頬にさっと朱が差した。それはすぐに元通りになったが、レナの憤りは露わだった。
「……覗き見たのか」
イロナは深々と謝った。
「ご無礼をお許し下さい。しかしどうか、この屋敷の中で、私どもに隠し事が出来るなどと、努々思われませんよう。なぜなら我々の執心は、この屋敷の全容を知り、それを全力を以てお守りすることでございます。それが存在理由であり、存在するための活力なのです」
「ああ、分かっているとも。だが」
「ええ、誰にも口を割ったりはしません。それは屋敷の一部である、あなた様の尊厳と立ち位置を著しく損なう行いですので」
イロナは顔を上げて誓約した。
その誓約は、信用に足る物だった。レナが屋敷幽霊という異形を従者に選んだ理由はそこにある。この住処のありかたを変革する行いを、彼女らは自らすることが出来ない。住処を守るという信念こそが、彼女らを維持し、力を与える魔力の源泉だからだ。
「……そうだな。お前たちはそういうものだったよ。すまん、疑って」
「一城の主ともなれば、そう言った心持ちも必要でございましょう。まして、一睡も出来ていないのであればなおさらです」
そう言うが早いか、イロナのうちの一人が毛布を持って現れた。
「一時間ほど、お休みなさいませ。いかにあなた様が魔力で体を保たせているとしても、地は人間なのですから。私どもとは作りが違います」
「眠れていたらとっくにそうしているさ。だがあれの悲鳴が……耳にこびりついて離れない」
「そう思って、奴に与えている……なんと申しましょうか、苦役と呼びましょうか。それを休ませようかと思っております」
「いや、だめだ。続けろ」
レナは終始弱気な様子だったが、その一言だけは明確に鋭かった。
「時を空けては意味が無い。間断なく続けろ」
「そうは言いましても。いまや抜き去る牙がありません」
「……なに?」
「生え替わりの速度が、随分落ちてございます。初めは五分と言わずに右を抜けば左が、左を抜けば右が、という状態だったのですが、今となっては、最後に抜いてから三十分が経過しますが、牙の頭が見えてきたかどうかで。次に引っこ抜けるまでには、一時間ほどかかるだろうという見込みでございます」
イロナはそう言って、口元に笑みを作った。
「故に私どもの提案と、ご主人のご命令は矛盾無く平行できます。どうぞお休み下さいませ」
イロナの一人が、恭しくレナに毛布を掛けた。レナはそれを受け入れた。
大きな、大きな溜息が、レナの口から漏れた。
「そうか。生え替わりが遅くなったか」
その安堵はまるで囚人が牢から出たときのよう。あるいは獣に囲まれた旅人が、ある種の加護によって救われたときのよう。
「それは、僥倖だ…………」
一言呟いたのを最後に、レナは糸が切れたように眠りへ落ちた。
「お休みなさいませ、ブラッドペリ公」
僅かにずれた毛布を直しながら、イロナは呟いて、このやりとりの間一度も表情の変わらなかった目をレナの胸のロケットに向けた。
イロナは見ていたのだった。一晩中響き渡る悲鳴のその度に、レナがロケットを握りしめて祈るのを。
その名を呼ぶのを。
「……私どもは、城主たるあなた様の、完全なる味方です。私どもはそういう存在でございます」
そのイロナが、正確にはその一人が、感知した。
主の安寧を妨げる不埒な輩を。
「……客人?」
教会からの客だった。修道士が三名。若い一人が突出し、もう二人が後を追う格好。
義憤に燃えた目……。
ぐっすりと眠るレナに目をやるイロナ。
「さて、そうしたら。お引き取り願いましょうかね」
すでに門の前にはイロナが一人立っている。彼女の目に見えるのは、鼻息も荒く蒼血啜りの寝所に踏み入ろうとする若者。即ちトマソンだった。
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