1-エピローグ 修道士トマソン

 アルカディアが挙げた渾身の絶叫は、城下の村にまで響き渡り、村民を大いに震え上がらせた。

 それが年端もいかない小娘の、幼く甲高い声であったから、噂は噂を呼び、瞬く間にレナ・ブラッドペリへの不信が高まっていった。


「ブラッドペリの野郎……またおっぱじめやがった。今度の声は、随分と若くないか」

「バカ、なに言ってんだ。声が娘だろうが何だろうが、ありゃ吸血鬼だぞ」

「そういうこと言ってんじゃねぇ。いいか、あいつは吸血鬼と見りゃ、たとえ子どもの形をしてようが、容赦なくやるんだ。いたぶるんだよ。せめて一息に殺してやりゃあいいものを」

「今回のヤツ、今までで一番でかい声だったな。ひょっとするとこりゃあ、隠してたんじゃないか?」

「なにをだよ」

を、だよ。あのババァ、ただの嗜虐趣味かと思ったら……えり好みもするみたいだな」

「若い娘が相手の方が熱くなるんだろうって、そう言いたいのか。うへぇ……」


 もともと嗜虐趣味の悪評が着いていたところに、今度は少女趣味という汚点を市民は想像する。あの、堅物で、偏屈なレナ・ブラッドペリが、実のところ幼い娘に目がなくて、それをいたぶりたくて仕方が無くて、各地を転々として吸血鬼を集めて回っていたのでは……。

 怖気の走るような想像。しかし無辜の市民は、事情を知らぬ市民は、こうして想像を巡らすことでしか気を紛らわすことが出来ないのだった。

 それでも気が晴れない――それは、幼子が虐げられているという心痛と、吸血鬼が側にいるという不安の両方

だ――信心深い市民は、村に一つは立っている教会に駆け込む。神父に直談判をするためだ。

「神父様。主の御名において、あのような悪逆を許しておいて良いのでしょうか。どうか神父様のお力で、あの公を止めてやって下さいませんか」

 何度も繰り返された請願。神父が及び腰なのもいつものことだ。

「落ち着きなさい。あれは吸血鬼という悪を滅ぼすための儀を執り行っているにすぎない。いずれ止むだろう。彼女には私の方からよく言っておくよ。もっと厚い壁を用意しろ、とね」

「それは何度も聞きました、神父様! 今すぐ、なんとか言ってやって下さい。今度のヤツの獲物は……少女なのですよ。痛いいけな少女の悲鳴を聞き続けるのは、私にはとても耐えられません」

「少女とは言え魔性は魔性。裁くのは彼女に任せよう……」

 のらりくらりと躱そうとする神父。しかしその時だった。

「なにを、呑気なことをおっしゃっておられるのか神父殿!」

 修道院から歩いてきた一人の若者が、神父の言葉を遮って喝破した。

「……トマソン。なにが言いたい」

 若い修道士、トマソンと呼ばれたその男は、この痩せた村落においてはほとんど目にすることの無い、筋骨隆々とした偉丈夫だった。計ってみれば三ペース(1ペースは約75センチメートル)はありそうな背丈だ。暖炉の火のような赤毛は整えられた芝生のように短く切りそろえられ、決して眉にかからないような長さ。

 使命に燃える瞳は、緑色の炎を発していた。とりわけ大きく目を見開いていた。鼻息も荒い。

 そんな大男に詰め寄られて、神父は形無しだ。

「修道士の身分で、よくもそんなに大きく出られたものだな、トマソン?」

「神父様こそ、そのご身分を持ちながら民を守ろうとなさらないのでしょう。お互い様だ」

「守る。吸血鬼はレナの手によって安全に隔離されている。これ以上なにを」

「それが間違いだ。こうして上申を受けて、それでも無視を決め込もうって言う態度が……どうして誠実なんです?」

「それは……」

 無数の嘆願の数々。その真ん前で神父は、怠惰を指摘され、そして反論を用意できなかった。

 蒼血啜りが恐ろしいから。吸血鬼が恐ろしいから。それ以外に理由などあるだろうか。そんなことを、口に出来るだろうか。

「……それでも、あの城は実質治外法権のような物だ。教会が手を出すわけには」

 神父がひねり出した言い訳は、風を切る音と、木の裂ける音によって遮られた。見ればトマソンの拳が、教会の分厚い木板の壁を叩き割っている。その膂力に、神父は震え上がり、民衆は色めき立った。

「まさか筋力だけでこいつを叩き割った、なんて思っちゃいないでしょうね。当然、使ってますよ。教会の秘儀を。全て修めました」

「その、若さでか」

「その通り。腰抜けの教会がなに考えてるか知らないが、俺なら何者にでも対処できる」

 不遜な笑み。しかしそれは、絶対の自信から来るものだ。

 トマソンは神父に歩み寄ると、その心臓の位置に指を突き立てて宣告した。


にできないなら俺がやる、って言ってんですよ。どうです。文句はないでしょう」


 神父は、知らずのうちに冷や汗が流れているのに気付いた。

 どこからともなく起こった拍手が、それを一層加速させた。

 

 その予感じみた不安を抱きながらも、もはやうねりだした群衆を止める術はなかった。

 ――トマソン、トマソン!


 トマソン!  トマソン!  トマソン!  トマソン! 


 トマソン!  トマソン!  トマソン!  トマソン! 


 ………………………………………………………………………………

 …………………………………………

 ………………………


 アルカディアは痛みのあまり喉が潰れるまで絶叫を挙げ続けた。それも今は止んだ。

 目尻に残る涙。荒い呼吸。時折咳き込みながら、東の女王にはもはや威厳もなにもなく、ただ拘束具に背中を反らされた中で精一杯下を向いて、懇願の姿勢を取る他ない。

 吸血鬼の牙の中で最も重要な一本。その抜け落ちた孔から、吸血鬼の黒血がしたたり落ちる。石床にたまるそれは彼女の穢れた涙とよだれと、痛みに耐えかねて飛び出した吐瀉物と混ざり合って、混沌とした色を呈している。

 蒼血啜りは、今まさに抜き取った鋭い牙をイロナに渡した。すぐにもう一人のイロナが現れて、それを階下へと運ぶ。

「丁重に扱うようにね。あのアルカディアの牙だ」

「心得ております。ブラッドペリ公」

 短くやりとりをすると、レナはもう一人のイロナへ、抜歯具を手渡した。

 それを見てアルカディアは、心底安心したものだった。それも下げるのだと。この苦痛を味わうことは、二度と無いのだと。

 ――それは、多分に希望を含んだ、予断だった。


「左も抜け」


 レナが短くそう言った。

「は……? はえ……!?」

「吸血鬼の牙はおおよそ五分で生え替わる。全部抜いておくれ、イロナ」

「心得ました。ブラッドペリ公、後は私どもに任せて、お休み下さい」

 戦慄するアルカディアをおいて、イロナはレナの耳元に口を寄せた。

「ひどい顔色でございます。耳栓を用意させましょう」

 レナは小さく頷いた。

「そうしてくれ。後は頼んだよ」

「委細承知しました。おやすみなさい、ブラッドペリ公」

 レナは出て行った。

 しかしイロナと、銀の抜歯具はこの部屋の中だ。

「や……やら…………。やめへ…………」

「私としても胸が痛いのですよ。アルカディアお嬢様の泣き顔を見たくてこんな所業を引き受けたのではありません」

「じゃあ…………なんれ」

「お答えしかねます」

 身動きの取れないアルカディアの左の牙に、ガチン、と容赦なく苦痛のはさみが添えられる。

「ただ」

 しかしそれが動き出す前、イロナの口から、悔悛にも似た言葉が漏れた。


「公はおっしゃいます。これはアルカディアお嬢様の、笑顔の為なのだと」


「…………あ? っ! あああああああああああああああああああ!!」

 問返す間もなかった。イロナがうっすらとした微笑を湛えたまま、下命のまま動き出した。

 再びあの苦痛が。再びあの屈辱が襲ってくる。

 みし、みし、と音とを立てて抜き取られようとしている左の牙。それと同時に、いなくなってくれたはずの右の牙がめきめきと生えてくるのを感じ――――アルカディアは涙した。もう堪えようともしなかった。

 堪えろ、などと。どだい無理な話だ。

 痛みと、痛みの予兆のあまり、気が狂ってしまいそうだった。狂ってしまった方がどれだけ楽か。

 しかし、そもそもが人の形を捨て去った、狂気の集合体である吸血鬼には、もはや逃げ込める狂気など存在しないのだった。


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