1-第5話 抜歯

「いらしていたのですか、ブラッドペリ公。いつおいでになるのかと、心待ちにしておりましたよ」

 イロナが芝居がかった口調で言った。

 レナは答えの代わりに、イロナへ外に出るよう手で促した。彼女の両手には聖織布で誂えられた手袋が被さっている。そこに握られているのは――――無骨なやっとこだった。

 アルカディアは疲弊と拘束具が胸を締め付ける痛みのあまり、声を出すのもやっとの状態だった。

「……今度はなに」

 そう問いかけるのがやっとだ。

「訊いてどうする。苦痛はどうあれ一緒なんだぞ」

 レナは短く答え、アルカディアへ大股で歩み寄る。手にした巨大なやっとこが揺れる。それは普通の家屋に常備されている物よりも遙かに太く強靱そうに見え、やはり純銀製であった。

 戦慄がアルカディアの胸をよぎった。不可解な怯えであった。あの無骨な工具を人間に対して用いる状況など、アルカディアは知らない。知らないはずの状況に対して、封魔に封魔を重ねられ朦朧とした意識が高らかに警鐘を鳴らすのは、それを実行しようという相手がアルカディアだからだろうか。

 ろくな目に遭うはずがない。

「ち…………近寄らないで」

「そうはいかんさ。このためにお前さんがたを引っ捕らえて、ここまで連れてきたんだから」

 蒼血啜りは鉄で出来ているかのような仏頂面をしていた。それがアルカディアの目の前にある。

「口を開けろ」

 拒むアルカディア。しかし再びレナが命じる。頬を掴み上げ、目と目を合わせて再び。

 蒼血啜りの目に、危うい煌めきが灯る。

「口を……開けろ」

 すると、アルカディアの意思とは裏腹に、彼女の口はゆっくりと開いていく。

「あ…………? あ……………………!?」

 東の女王は戦慄していた。これまで、彼女の周りには自らの意に沿わぬ物などなかった。それは人であれ、物の流れであれ。ましてや自分自身の体など、そうあって当然だと信じて疑わなかったのだが。

 彼女が――換言すれば、吸血鬼たちが、その理を曲げる術を持っていることも、あまりに自然なことでありすぎて意識の埒外だったのだ。

 魅了の邪眼。その権能。

 自らの体が勝手に動くこの状況に理由をつけるとしたら、それしかない。

 大吸血鬼であるこの自分が、たかだか人間が持つ”邪眼”を受けたのだ。

 あまりに激しい屈辱でアルカディアは涙をこぼしそうになった。

 しかし――そこで堪えた涙など、これから流す物に比べたら微々たる物だった。

 やっとこが重い音を立てて開いた。体の自由を奪われたアルカディアは、それが何処へ向かうのか質すことすら出来ない。

 ただ、覚悟を決めるのだとしたら。これが苦痛を伴わないはずがないという事だった。

「さぁ……始めるかね。

 蒼血啜りはそう言って、手にした器具でそれを挟んだ。

 金物の冷たさ、銀の退魔の力、そして怖気が、一度にレナの背筋を走った。

 それが挟んだのは、彼女の口から鋭く映える牙。即ち吸血牙だったのだ。

「あ……!? やへ…………やへへ…………!!」

 懇願と恐怖は言葉にならない。しかしどうあっても、その後の定めは変わらない。

 蒼血啜りが、工具に力を込める。前後へ、左右へ、力の限り。

 不敗を誇ってきたアルカディアには経験したこともない猛烈な激痛が、彼女に僅かに残っていた意思を火力の限り焼き尽くした。

「あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 アルカディアは声の限り悲鳴を上げた。それは屋内で反響し、うねりと言う質量を持った怪物となった。しかし、蒼血啜りが抜歯に込める力を緩めることはない。うねりが大きくなれば大きくなるほど、力を込めれば込めるほど、相乗してお互いがお互いの大きさを競い合うようにして、狂乱は加速していく。

 もはやアルカディアの意識は痛みのあまりに白熱して、なにも見えてはいない。こうしていなければ正気を保てないと、絶叫へ僅かに痛みを逃がしているだけだ。

  

 めき、めき、


 と歯根の折れる音がする。その度にアルカディアの体はびくん、びくん、と大きくけいれんする。拘束具”銀の肺”が無ければ、天井まで飛び上がっていてもおかしくはない。

 もはやそこに、東の女王の威厳は何処にもなかった。開いた口唇からは、はしたなくもよだれをだらだらと垂れ流し、涙と鼻汁で端正な顔がまるで出来損ないの水彩画のようだ。もういい、早く終わって。そう嘆願するかのように、後ろ手に縛られた手は、吸血鬼にあるまじき祈りの形で組まれていた。

 だから、アルカディアは気付かなかった。銀の抜歯具を握るレナの方にも、変化があったことを。

 もう一息で歯を抜き取ることが出来る、という詰めの段階で、レナは手を止めたのだった。

 イロナはその様子を見ている。

 涙している、レナの姿を。だらりと腕をたらし、膝立ちになって涙するレナの姿を。

 それは僅かな時間だった。レナがコートの袖で涙を拭うと、睨む者全てを射殺すような鋭い眼光が戻っていた。

 その目で、レナはイロナを見た。イロナは頷いた。このことは誰にも喋りません、と。

 レナは頷き返して、抜歯具を大きく開いた。

 その刃が、薄い肉一枚で辛うじて繋がった右の吸血牙を挟み込み、捉える。

 そして。


 この日もっとも甲高い絶叫が、石造りの尖塔すら貫いて、広く響き渡ったのだった。

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