1-第3話 猫の目のイロナ

 白の塔は、その外見について語れば単なる石積みの城塔だ。円形をしていて、相応に太い。外周を一回りするのに百歩はかかるだろう。レナの主たる居住空間を擁する建造物キープから最も近い位置にあり、かつてこの城が防衛拠点としての役割を持っていた頃には、白の塔はおそらくその要だったのだろう。

 もっとも、今となってもその重要性は少しも変わっていない。白の塔は捕えた吸血鬼を隔離するための場所だ。ここに張り巡らされた魔術的な結界の数々――例えば、柊縄の縛やにじみ出す聖水の床など――が破られることがあれば、レナはおろか見下ろす市民たちの安否が危機にさらされる。

 結果として今までにそう言った事故は一度も起こったことはないが、この地を治める教会は常に戦々恐々としているはずだ。何かが起こってからでは、遅いのだ。それにつけて、今白の塔の中に収監されているのは、あの東のアルカディアなのだから、教会が何らかの行動を起こしてくるのは明白だった。


 レナの、知ったことではないが。


「ほれ、顔を上げろ吸血鬼」

 吸血鬼を縛り付けていた聖骸布の袋を、レナは剥ぎ取った。すると、当代最強の吸血鬼の威容が――今となってはずたぼろにされ、肌も露わになった哀れな姿が――露わになった。

 白銀の髪に赤光の瞳。それは力の多かれ少なかれ、吸血鬼が持つ外見上の特性であるが、アルカディアの場合にはそれが最も研ぎ澄まされた形で顕現していた。

 髪はまるで流れる水が波打っているかのような透明感と滑らかさ。触れればその手が冷たく濡れそうなほどの質感。腰まで届くような長さを持っている。それが床に巡らされた抗魔の呪印と反発して、まるで海月くらげの触手のよう。美しくも、それに触れようものならただではすまない。


 瞳の方は紅玉も足るやと言わんばかりに、紅い光を放っている。その輝きにまったく曇りのないのは、彼女が”人間性”という世界を歪ます遮光板を望める限り全て取去ったと言うことを意味している。

 吸血鬼は、その大本を辿れば人間だったはずだ。人間から吸血鬼に変容した際、なりたての吸血鬼は曖昧な状態になる。人間と言う性質を残したまま、魔性の力をもその身に宿した状態になる。そこから人間としての性質を可能な限りそぎ落とし、魔性の側に寄り添っていくのが吸血鬼としての力を高めていくことになるのだが、この東のアルカディアという魔性においては、”まるで最初からそうであったかのように”、人間性を捨て去った状態であったのだった。


 そうして全身を見渡してみれば、『東の』という強大な二つ名を持つアルカディアは――その所業に似合わぬ姿をしていた。幼いのである。

 透明な髪に赤光の瞳。それを除けば彼女の顔は小さくて、丸みを帯びていて、端正な美貌でありながらもいまだ育ちきっていないような印象を受ける。年の頃で言えば九つか、十二かの間だろう。

 体の方は、顔の印象の通りにこぢんまりとしていて、未発達の状態だった。身長で言えば1.3ペース(1ペースは約76センチメートル)ほど。体の起伏はないに等しく、むしろあばらが浮いてすらいた。

 体だけ見ればまるで浮浪児のよう、しかしその髪と瞳は毅然として美しい。幼アルカディアの姿は、そうしたちぐはぐなものだった。

 右目を縦断するように走った傷と、左頬を裂くように走った傷は、歴戦の賜だろうか。レナは知っている。そうではないと。


「じろじろ見てんじゃないわよ」

 アルカディアがレナを睨み上げた。その顔面をレナは平然と蹴り飛ばした。「うぐ」と声を上げる暇も無く、蒼血啜りの宣告が響いた。


「誰が、口を開いて良いと言った?」


 アルカディアの口の端が、僅かに切れた。そこから滴るのはタールのようにどす黒い一滴、しかしすぐに、その傷は塞がった。吸血鬼の主要な能力の一つ、『復元』の為せる業だ。

 吸血鬼は、そうなった瞬間の形状を記憶している。そしてそうで無い状態になった場合には、即座に元通りになるようになっている。それが世に知られる吸血鬼の恐怖『復元』だ。

 故にアルカディアは恐れない。およそヒトがその身一つで為せる暴力など、彼女を傷つけることはないのだから。


「はっ、粋がるわねヴァンパイアハンター、人間風情が。運良くわたしに勝てたからって」 


 再びの一撃。


「か、……勝てたからって、奢るんじゃないわ。わたしは必ずここをでるわ。そして」


 再度。


「そ、そし…………何で。なんでわたしの虜にならないの。さっきから私の目をじっと見ているのに!」

 勝ち気な様子だったアルカディアが、突如折れた。それは蹴りの痛みのせいだろうか? そうでは無い。

 彼女の切り札が、通用しなかったせいだ。

「あいにくだが……あたしに魅了の邪視は効かんよ」

「そんなバカな! そんな人間が、いるわけが無い!」

 後ろ手に縛られたアルカディアは、背を逸らして叫んだ。

 吸血鬼が恐れられる二つ目の性質。それが『魅了の邪眼』と呼ばれる催眠術だった。吸血鬼の透明な瞳を見つめる物は、その美しさに魅入られて骨抜きになってしまう。まるで蝶が花の蜜に惹かれるように、魚が釣り餌に惹かれるように、人間は吸血鬼に惹かれる物なのだ。

 それなのに、レナは平然と立っている。

「戦いの最中にも、なんどか掛けてみたけれど……その時のあんたは魔砕防護の内側だったわ。でも今は、なぜ」

 さらに蹴られるのを承知で、アルカディアは問いかけた。するとレナは事も無げに言った。


「何せあたしの方も、邪眼持ちなもんでね」

「なるほど、道理だわ」


 言いかけて、アルカディアは噴き出す。

「なにが道理よ、バカ言わないで。人間が……邪視? もう一度言うわ、バカ言わないで。どんな魔力の蓄えを持っていて、どれだけ一点を見据え続けて、どれだけの執念を蓄えたって言うのよ。ナニモノ、あんた」

「どうもこうも、これが現実だ。この館にいる者に邪視は効かん。お前の枷は月桂樹の蔦で念入りに編んである。コウモリに変じることも、動くことも満足に叶うまいよ」

 レナはそう言い残すと、扉へ向き直った。向き直りざまに、特別鋭い爪先をアルカディアにたたき込んだ。

「ぐっ……」

「そしてあたしは蒼血啜りのレナ・ブラッドペリだ。それがお前を捕えたんだ。どういう意味か分かるな」

 苦しみ悶えるアルカディアの代わりに、レナは低い声で言った。


「…………その姿のまま、ここから出られると思うなよ」


 門扉が閉じ、レナの姿が消え、アルカディアは真っ暗闇の中に取り残される。

 それは、彼女が胸中で覚えた怯えや恐れや、そういった様々をまとめて言うならば、絶望の深さをまるで表しているかのようだった。


   †


 震える暗獄に、程なくして光が再び差した。

 アルカディアがまぶしさに目を背け、しばたたかせていると、まずは声が降ってきた。

「よく眠れましたか、アルカディアお嬢様」

「……はぁ?」

 レナの放つ氷柱のような声とは違っていた。その言葉面とは対照的に、眠たそうで、無気力な声だった。その捨て鉢な様子がアルカディアの憤りを余計に煽った。

「そもそもわたしたちは眠らないんですけど。よしんば眠れたとして、敵地で安穏と眠っていられるほど、間抜けでもないんですけど!」

「それでは、眠れなかったのですね。承知致しました。ブラッドペリ公にはそのように報告させていただきます」

 声は、あくびを交じえて淡々と言った。

 差し込んだ光に、アルカディアはようやく目が慣れてきた。どうやら目の前には背の高い女が一人立っているようだった。給仕風の衣装だ。全身は黒っぽく、真っ白なエプロンが目障りだ。

 

 ――利用しない手はない。


 蒼血啜りは嘯いた。この館に邪視の効く人間などいない、と。

 そんなことがあってたまるか。ようやく開いた狂気の瞳で、アルカディアは目の前の娘を思いきりにらみ据えた。わたしをここから逃がせ、と。

 しかし、その答えはあっけらかんとした物だった。

「お嬢様。そのように愚策を弄されては……報告をしなければならない事柄が一つ増えてしまいます」

 溜息交じりの呼びかけに、邪眼が効いた様子はない。


『どうもこうも、これが現実だ。この館にいる者に邪視は効かん』


 レナの噛んで含めるような口調が脳裏に蘇る。

「……何なのよ、もう! あのクソ女のことはもう良いわ。でも、なんで。なんでたかだか給仕のあんたまで、邪視持ちなワケ。わたしの魅了が効かないわけ!」

「お嬢様、確かに、お美しい瞳です。その眼で幾人、幾千人もの魂を吸い取ってこられたのでしょうね……嘆かわしいことです。質問にお答えしますと、私には吸い取られる魂が無いと申しますか」

 アルカディアは、回廊の窓から差し込む陽光の中に佇む彼女を、改めてまじまじと見た。そして舌打ちをした。

「……そういうことね。透けてるじゃない、あなた」

「ええ、透けております。屋敷幽霊ですので」

 そう言って彼女――屋敷幽霊は、黒に背景の石塔が透けたワンピースの峰を両側ちょいと摘まみ、貞淑な礼をして見せた。

「本日よりあなたのお世話をさせていただきます。私『猫の目のイロナ』と申します。以後、お見知りおきを」

 イロナが顔を上げた。活力を感じさせない声音から想像されたのは、氷のような冷たい無表情だったが、以外にもイロナは微笑んでいた。

 しかしその微笑みの中に、喜びは何処にもなかった。目がそれを語っている。柔らかな頬の動き、唇のたわみ、それらに対して、彼女の瞳は微動だにせず、少しも笑っていないのだった。

「あんた、そういうのを慇懃無礼って言うのよ」

「その見た目でよく言葉をご存じでいらっしゃる……失礼、あなた様は大吸血鬼でしたものね。そうそう、それだから、私の表情はこんなにも硬いのですよ。許して下さいまし。これから先、ちょっとしたあなたとプラッドペリ公の気まぐれで、いくつ私が消し飛ぶか分かったものではないものですから、つい」

「否定はしないのね」

「事実ですもの。私はヒトではありませんが、人心の本質を一目で見抜いて見せるあなた様の慧眼は、素晴らしい物ですわ。吸血鬼になどなっていなければ、今頃領主やお大臣さまなんかになれていたかも知れないのに」

「残念です、って? 冗談じゃないわ。私は今や王よ。東の地を統べる王」

「しかし、今はブラッドペリ公に囚われの身。もう二度と、御身がそこから出ることは叶いません」

「存外よく喋るわね、給仕の分際で。不愉快だわ。用件を済ませて、早く帰って」

「はい。ではそのように」

 イロナは扉をくぐるとき、もう一度恭しく一礼した。アルカディアが一度瞬きをすると、そのときすでに、イロナがアルカディアの目の前にいた。


 ――厄介ね。

 足音がまったくしないのであった。それも屋敷幽霊であればこそ。


 ――いつ見張られているのか、分からないじゃないの……。


 吸血鬼に見張り番を立てるのに、幽霊ほど効果的な存在はない。彼らは生命ではないので、獲物として探知することが出来ず、足音が立たないのでどんなに耳を澄ましても所在を知ることが出来ない。

 さらに、猫の目のイロナは自らのことを『私たち』と呼んだ。それが何人いるのか定かでないところも、アルカディアにとっては悩みの種だった。


「なにかお考えですか、東の王」


 アルカディアはのぞき込まれていた。決して笑わぬ目、そのくせ不安げな表情で。正直に言って、イロナの顔は不気味だった。

 東の王は首を振った。

「何でも無いわ。用事はなに」

「二点ございます。まず、の用意がございます。お召し上がり下さい」

「……なんですって?」

 耳を疑うアルカディア。

「食事……? 吸血鬼の、わたしに?」

「左様でございます。こちらをどうぞ」

 そう言い残して、イロナは廊下に出て行った。首を傾げるのはアルカディアである。

 吸血鬼に供する食事とは、なにを意味するのか。即ち搾りたての生き血をなみなみと湛えた杯に他ならない。

 同時にアルカディアは知っている。この館で、あの蒼血啜りが、そのような用意をするはずがないと言うことを。

 疑念が悪寒に変わり、恐怖へと変じ始めたその瞬間だった。イロナがを銀盆に乗せて運んできたのは。

「さぁ、お召し上がり下さい」

 何の変哲も無い、柔らかさのないパンと紅い葡萄酒である。

「ひっ…………」

 信仰を持つ物にとっては。それに真っ向から反する吸血鬼にとっては。それは特別な意味を持つ。

 即ち、

 聖餐、最も清らかな食物。余人においては感謝とともに口にされるものであるが、アルカディアは後ろ手に縛られた体を捩ってそれを拒んだ。

「こんなもの、わたしが…………! そうそうに死ねというの!」

「いえ、滅相もない。ブラッドペリ公のお考えでは、お嬢様はこの程度では殺せないとのことです」

「なお悪いわ。祈りの形をわたしの体に? 冗談じゃない。たとえこの身が灰になろうとも、絶対食べないんだから」


 その瞬間、イロナの声から眠気が消し飛んだ。

「しょうが無いワガママお姫様だ」


レナのそれを思わせる冷酷な声音、それが幽谷という虚ろに反響して二重も三重にも折り重なって聞こえる。

「私はブラッドペリ公の従僕でありますから。ご下命は何としても果たさせていただきます。

 その一言と共に、アルカディアは動けなくなった。床に押し倒され、平たい胸と体を押さえつけられて身動きを取ることすら出来ない。首も何者かに押さえつけられ、周囲を見る自由すらきかない。

 それでもアルカディアは紅色をした眼を動かして、自らを縛るものがいったい何なのかを探った。


 そして見た。総計五人の、まったく同じ形をした、イロナの姿を。

「お客人に対してこのような狼藉、どうかご容赦下さいませ。ですがこれも主命を果たす為。ひいてはお嬢様のためにもなるのです。ブラッドペリ公はそのようにお考えです」

 そうイロナが陳謝する間に、もう一人のイロナがふわりとやってきて、アルカディアの頬を、ぎゅう、と絞り上げて口を開けさせた。吸血鬼に特有の鋭い二本の牙、吸血牙が露わになる。

 言葉にならなくなる、アルカディアの抗議。振りほどこうにもイロナは、屋敷幽霊という幽けき存在であるにもかかわらず非常に力強い。これが外であったなら、爪の一閃の下切り裂いてやれたのだが……この屋敷に張り巡らされた術式の周到さたるや。


 ――やめて。


 銀盆に乗った聖餐が、近づいてくる。焼き上げられたパンが、近づいてくる。

 

 ――やめて。やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて!


 言葉にならない拒絶が喉のうねりとして音を出す。しかしイロナの手は止まらない。真綿のような、喉を詰まらす真綿のような聖体が、容赦なくアルカディアの口にねじ込まれた。

 途端、アルカディアを襲ったのはこの世の物とも思えぬ激痛だった。口の中に灼けた鉄でも押し込まれたかのような、熱さと痛みが間断なくやってくる。

 当然吐き出そうとするアルカディアだが、七番目のイロナがそれを許さなかった。大きく開き、あまりの痛みによだれを垂れ流すアルカディアの口を、両手でがっしりと覆い離さないのである。

 

 ――なんで? 何で何で何で何で何で何で何で!


 殺すなら一息に殺せば良い。蒼血啜りのレナ・ブラッドペリの噂は東にのさばっていたアルカディアの耳にも入っていた。吸血鬼をいたぶりながら殺すのだと。この苦痛がその序の口なのだとしたら、今死んだ方がよほどましだ。

 流すつもりはなかったのに、早々に涙が目の端に滲んだ。すると最初のイロナがめざとくそれを認めた。


「流石に、発酵していないパンを口の中に含んだら、パサパサで呑み込むもなにもないですね。失礼致しました。今、を差し上げますので、どうか吐き出されないよう」

 即ち聖杯に注がれた葡萄酒のことだ。アルカディアは縛られた体を捩りに捩って足掻いて見せたが、イロナたちの表情は変わらない。

 口が自由になった。次の瞬間には、紅く残酷な液体が、アルカディアの口の中を満たしていた。

 その瞬間、アルカディアは初めて地獄を意識した。吸血鬼として存在するにあたって自らの存在がそれだ決め込んだ、残虐な苦痛だけが支配する世界。それが、今ここだ。ここに顕現している。葡萄酒はパンに染み渡り、喉へといたり、そして口の中全てを溶鉄が流れていくように焼き尽くしていく。

 噎せ返り吐き出そうとするアルカディアを、イロナが許さない。

「早く呑み込まなければ、永久に痛いだけですよ。なに、喉元過ぎれば熱さを忘れると申します。ささ、どうぞぐいっと」

 アルカディアは効かぬと分かっていながら、邪視を最大に開いた上でイロナを睨み付けた。イロナは意に介した様子もない。

「自分で呑めないとおっしゃるなら、押し込んで差し上げましょうか?」

 アルカディアが答えらる状態にないと知っていながら、平然と問うのがイロナだった。

 首を縦に振ることも、横に振ることも叶わないアルカディアは――――イロナのなすがままにされるほか無かったのだった。

 くぐもったうめき声が響く。それを聞いているのは、イロナと、いつの間にか戸口に立っていたレナだけだ。

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