1-第2話 東のアルカディア


 東のアルカディアといえば、蒼血啜りというよりもはるかに通りの良い悪名だった。

 百三十年ほど前に突如現れた、新生の吸血鬼だった。それが悪逆の限りを尽した。人間どもはもちろん、魔性の者までが彼女の鋭い牙にかかり、亡者として服従を余儀なくされた。文字通りの鏖殺である。大陸を東西南の三つに割る連峰キール・アーチェの東側は、そうやって彼女の築き上げた理想郷となり、故に付いた名が東のアルカディアだった。吸血鬼にとっての理想郷。刃向かう者は誰一人としていない、孤高の女王による広大な庭園。

 それら魔性と対峙する教会においては、これまで何度もアルカディアを討伐しようと試みてきた。もっとも、結果は惨憺たるものだったが。百人の討伐体を組めば、三十人は霊峰を越える登山道にて矮小十把の従僕達に食い散らかされ、次の三十人は山の麓から最初の村落に至るまでに首を落とされていた。惨状を見て這々の体で逃げ帰るのが二十名。向こうの様子が知れたのは、この勇気ある臆病者達のおかげだった。それでもなお先に進んだ勇猛な十名の教戒師の運命は、もはや語るまでもない。

 星を数えるような軍勢、それを従えるのはアルカディア自身の持つ強大な力。彼女が東の地から進出しようとしないのが唯一の救いだった。皆が戦々恐々としていたのだ。ヤツが動き出してしまったら、この大陸全土が……あの吸血鬼の”理想郷”になってしまう、と。


 もっとも、それは今や蒼血啜りの手の内にある。哀れにもずだ袋の中に押し込められ、鋭い蹴りを受けて蒼血を吐いている。そして怯えているのだった。


 ――なににつきあわされんのよ、もう……!


 東から出たことのないアルカディアでも分かる。吸血鬼を生け捕りにするなんて、正気で為せる所業ではない。捕縛した後に、獲物が用意した枷を解いてしまったら? 狩る者と狩られるものの関係はその瞬間に逆転する。

 そしてそれは、狩人自らが命を落とすだけではすまされない。何せこの蒼血啜り、”東のアルカディア”を”南”へ引きずってきたのだ。アルカディアは地脈から感じる魔力の繊細な変化から、それを感じ取っていた。


 ――意味不明だわ。わざわざ吸血鬼の版図を広げようだなんて……?。


 それは狂気による向こう見ずな行いか、それとも確かな自信に裏付けられた理知的な計算か。レナの胸中ではきっと後者のつもりなのだろうが、アルカディアの目から見たレナの行動は、多くの村人達が感じたのと同じく狂人のそれだった。

 レナがアルカディアを打ち倒したのは、事実だ。しかしお互いに総力戦だった。戦いが佳境に至るまで触れようともしなかったあの鎌は、恐らく切り札中の切り札だったのだろう。それを出してようやく、と言ったところ。要するにギリギリの勝負だったと言うことだ。それは肉弾戦においても、魔術戦においてもそうだった。吸血鬼の膂力に張り合う恐るべき身体能力はひとまず置いておいて、内に秘めた魔力の質、量は共に同程度ではないかとアルカディアは当たりをつけていた。

 だから、これはチャンスだと思っていた。命脈をつなげたまま屈辱的な狼藉を働いたツケを、あるいはお礼を、存分にたたき込んでやらなければならない。

 聖織布で編まれたこの忌々しい袋から出されたとき。その瞬間に死力を尽して戦えば……脱出できるのではないか。

「いつか逃げられる。なんて、考えてるんだろうから言っておくが」

 突如降ってきたレナの言葉は、アルカディアの抱いた淡い希望を踏み潰すかのようだった。

「今のうちに捨てておきな。お前は一生を、あたしと心中するんだから」

「……ハッ。笑わせるわ。こんなババァと心中? 冗談じゃ無い。死ぬのはあんただけよ」

「威勢のいいこった。さすがは東側の悪事という悪事の元締めだぁ……だがね!」

 再び、アルカディアの背中に鋭い蹴りが食い込んだ。痛みと、収縮を強いられた肺は、望まぬ恭順を吐き出させた。

「お前さんは万に一つも逃げられやしないよ」

「やってみなきゃ分かんないじゃない……!」

「そうかね。じゃあ存分に足掻いてみせるこった。その方がこっちとしても準備した甲斐があるってもんだ。なんせあたしの城は、あんたを閉じ込めるために作ったんだからね」

 含み笑いを交えながらレナが言ったのに、アルカディアは絶句した。

「は?」

「言葉通りさ。さて、着いた着いた。庭で刻印を施すためとはいえ、少し広くしすぎたかねぇ」

 袋の中にいるアルカディアには、一体何処にたどり着いたのか知るよしもない。しかし確かに感じるのは、ひどい倦怠感だった。東にいた頃の、向かうところ敵無しという全能の魔力が、今となってはどこかに霧散してしまっていた。

 ここにいるのは齢十二を数えようかというただの娘。そう打ちひしがれるのがやむを得ないほどに、アルカディアの力は削がれていた。

「一体何をしたの。蹴飛ばされたくらいじゃこうはならないわ」

「さっきも言ったろ……庭をねぇ、工夫してあるんだ」

 袋の隣に、蒼血啜りが腰掛ける気配がした。

「薔薇を植えてある。館を中心に、魔除けの文様を描くようにね」

「魔方陣ってこと? 異端の技じゃない。良く教会が許したわね」

 アルカディアは尋ねたが、まともに答えが返ってくるなどと、期待もしていない。

 それに万に一つ、望む答えが返ってきたとして…………それが何の役に立つだろう。

 もう手足を動かすこともままならないような弛緩と脱力の中で、もはやもがくことも叶わないのだとしたら。

 この女の弑逆から、逃れる術が無いのだとしたら…………。


「それじゃああんたは、わたしをなぶり殺しにするためだけに、ここを用意したってワケ」


 蒼血啜りは答えなかった。その沈黙こそが、お前の運命だとでも言いたげに。

 この瞬間――胃の奥がきゅうと引き絞られ、吐き気を覚えるような感情にアルカディアは襲われた。

 恐怖である。

 東のアルカディアと呼ばれるようになってから、あるいはそのずっと前から、自らの力に酔っていたアルカディアにそんなものを感じる余地は無かった。初めて覚えるこの感情に対して、アルカディアはどうして良いのか分からない。ただ吐き気を堪えるために体を丸めて、両膝を手で抱えてまるで胎児のように――――


(……あれ)


 しかし、気付いたことがあった。

 朧気ではあるが、覚えがある。この姿勢を取るのは、初めてではない。

 その時もこのように、強大な何者かに怯えていたのだろうか。それとも他の理由? 定かではないし、どうでもいい。

 アルカディアの関心事は一つだった。一体いつのことだ。

 私は東のアルカディア。決して膝を折ることのない、魔王と呼ばれた存在。その記憶に滑り込んだ、こんな屈辱的な思い出は一体いつのものだ。

 混迷を極めるアルカディアには、外の様子を探る余裕などない。

 故に気付かなかった。アルカディアは気づき損なった。


 彼女を見下ろす蒼血啜り、レナ・ブラッドペリの瞳から。

 血色ではなく、純水に透明な、大粒の涙が流れ落ちていることに。


 レナは再び歩き出す。その瞳に、彼女の二つ名には似つかわしくない純粋な涙を湛えながら。

 お互いに無言だった。

 一人は、疑念に囚われたせいで。

 そしてもう一人は……感極まってしまったせいだった。

 彼女の目的はただ一つ。他ならぬ東のアルカディアを捕獲することだったのだから。

 入り口を通り、長い城壁の間を通り抜け、レナたちは『白の塔』の前にたどり着く。吸血鬼を縛り付けるための砦だ。

 すると門が、手も触れていないのに、音も無く開くのだった。

 それは吸血鬼にとっては、まるで新たな獲物を歓迎して口を開く、冷たい獣のようだった。

 しかし、レナは。

 天国への門が開かれたかのような、そんな光明を塔のうちにある暗闇に見ていたのだった。


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