牡丹の剣客③

 次の日のことだ。エストは普段よりずっと早く日が昇り始めたころに目覚めた。

 使用人のリザはエストが朝寝坊だということを知っていたので、エストの席に食器は並べられておらず、紅茶の準備もできていなかった。

 仕える御息女の予定外の行動に、これから大目玉を喰らうことを覚悟して、リザが慌てて用意を始めようとしたのを、エストはにこやかな笑顔で止めさせた。


「いいのよ、リザ。これから出かけるから気にしないで」

「……かしこまりました」リザは若干ぎこちない調子で言った。

「全部外で済ませちゃうから、夕食の準備もいらないわ」

「承知しております。エスト様は夜遊びがお達者でございますので」

「ずいぶん言ってくれるじゃないの」エストは微笑んで言った。「夜食はいつもの時間でお願いするわ」

「かしこまりました。いってらっしゃいませ、エストお嬢様」


 恭しく頭をさげながらリザは困惑していた。

 いつも無愛想で、癇癪もちで少しの我慢も利かないエストに対しては、いつも腫れ物を扱うように慎重だった。エストの暴力に耐えられず辞めていったギルドの者も何人かいた。

 ギルドに属さない人間で、負い目があってリンツ家に仕えていたリザは、この乱暴な御息女の癇癪にうまく付き合うことで何とか続けられていた。

 それがどうだろう、この異常とも取れるほど温厚な様子に、リザはなにか裏があるのではないかと勘繰った。

 家柄に則した教養をもたぬ娘のことだ、これに適当な理由を付加させては後でなにかとんでもないことを命令してくるか、実は根に持っていて陰湿な悪戯を仕掛けてくるのではないか、といった所である。

 しかし、使用人のそんな勘繰りはよそに、エストは終始ニコニコとした笑みを崩さないまま、寝巻き同然の動きやすい服装で出かけていった。




 ◀




 エストが喧噪の蘇ったいつもの通りを少し歩くと、ベーカリーの角を曲がるところでちょうど人だかりが目についた。

 昨夜、事件があった場所だった。

 すぐ近くで朝刊紙を売り歩いている少年から一部を買って読むと、早くも昨夜のことが書いてあった。あの時死んでいた者は、また名のある流派の師範だったらしく、この一連の騒動にかけての話題性に拍車をかけているようだった。

 その場に居合わせていたことを思い出したエストは、努めて知らないふりをしながら、狭い路地に入り込んだ。


 喧噪も聞こえなくなってしばらくした頃、コーテス区画の石敷きの中庭へ出た。

 日々の家事に勤しむ婦人や汚い子供、仕事を怠ける男などが居たが、現れたエストを見て、何も言わず道をあけた。

 中庭の隅っこにたどり着いたエストは、そこに座っている女に近付いて、たずねた。


「とりあえず、なんか食べる?」


 すると、うなだれていた女が顔を上げてエストを見た。女はリントだった。

 彼女はほとんど浮浪者同然の生活を送っているらしく、昨日と比べると、いくらかやつれて、みすぼらしく見えた。


「……わたしは、いい」


 リントは言った。喉から絞り出すような声には力が入っておらず、滑舌が悪いように聞こえる。


「強がったって良い事ないよ? 貴女、どうせあれからずっと何も入れてないでしょ」

「……わたしは、たべなくても、いきられる」

「アンタはよくてもアタシはダメなの!」エストは叫んだ。「アタシも朝ごはん食べてないんだから。ホラ、奢ってあげるからいくわよ!」

「……べつに、へいきだ」


 彼女は思っていたより頑なだった。

 今まで人を信用できなかったのか、はたまた自分にひどく厳しいのかは不明だが、このままでは梃子でも動かない事は明白だった。

 しかし、とにもかくにも彼女はこの場から動かす必要がある。ここに彼女といれば嫌でも周りからの不快な視線に晒されるし、このような場所には特に理由もなく留まり続けたくはないからだ。

 そして、今のエストには彼女に対する切り札を持っていた。


「なんでも言う事きくんでしょ?」ニヤリとしてエストは言った。


 すると、彼女は少し眉をひそめながらも、仕方なくといった風に立ち上がった。

 そこらの男子と同じ背を持つエストが、ほんの少し首を持ち上げないといけないほどに彼女は背が高く、向かい合って立つだけで威圧感を覚えた。が、口から垂れるよだれが非常に目につくせいか、そんな気配など微塵に消えてしまった。

 エストが懐から、さっそく出番のやってきたハンカチを取り出し、赤ん坊にするように口元を拭ってやると、彼女はハッキリと口を動かして言った。


「ありがとう」


 しっかりと人に礼を言えることに驚いたが、気にしないふりをする為に背を向けておもむろに歩き始めたエストは、彼女がちゃんとついて来ている事を確認しつつ、またアルハイド街へ戻るようにして進んだ。

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