牡丹の剣客②

 アルハイド街の目抜き通りに駆け付けたエストを待っていたのは、雲を孕んだかのように濃い霧の街並みと、二つの人影であった。

 いいや、正確には三つだ。

 すぐにはわからなかったが、石畳で舗装された通りの地面、ちょうど人影に挟まれるようにして、人のような黒い輪郭が横たわっている。


「どうした、霧に紛れていないで姿を見せろっ」


 片方の人影が凛々しく堂々たる態度で言った。

 濃霧に姿を隠しているほうとは対照的に、おそらく霧の薄い位置に陣取っていた人影は、霧が風の流れに具合を変えたことで姿を見せた。

 一方の人影に向けて突き出されているのは、身の丈を優に超えるであろう長刀。反りのある刀身だった。その特徴的な得物には覚えがある。それを軽々と扱う剣士の名も。


 天翔五剣グエロ・マグライナイ――〝音越え〟のファイス・ロルルだ。


 ドレスに似た服に甲冑を纏ったような騎士然とした風体、高貴な血筋にのみ現れるとされる金髪、鼻筋の整った顔立ち、そして肩に負うラウナの花はゴウイツ流の紋――間違いない。ファイス本人であった。

 この者の事は、今日の新聞でも見た。巷を騒がせる辻斬りの征伐に自ら名乗りをあげたのが彼女なのだ。

 ということは、状況を読み取るとすれば、ファイスと対面しているこの人影こそが、かの『ナバルギアの旋風』であると見ていいだろう。


「あの、アタシも――」


 緊張に胸を昂らせて駆け寄るエスト。しかし、こちらに一瞥しただけの、ファイスから放たれるただならぬ威圧感に、気勢を殺がれて足を止めた。このまま踏み込むと、見境なく斬られると直感したからだ。


「ふむ。何者かはしらんが、足を止めたのは賢明だぞ」


 剣の腹に指を添えながらファイスは言った。


「そのままもう一歩近寄っていたら、お前は私の剣域に入り込んでいたわけだからな」


 それが冗談ではない事はエストにも理解できた。

 夜の間だけ霧が立ち込めるナバルギアでの外出は、常在戦場の覚悟で臨まねばならない。無遠慮に近づいてくる者が人斬りでない保証など何処にあろうか。それが例え家族が相手だろうと――ファイスにもその心得は備わっているようだ。

 もしも、不用意にその長刀の間合いに足を踏み入れていれば、エストは瞬時に跡形もなく寸断されていただろう。


「……誤解しないで。アタシは悲鳴を聞いたから駆け付けただけ。ファイス・ロルル。アナタがここにいる理由は新聞で知っている。だから加勢したいの」


 エストは最後のところだけ嘘を吐いた。


「ふむ。そうか。助太刀には感謝する。だがそれ以上近寄るな。見たところ、お前も剣士だな。それなら私の異名くらいは知っているだろう。懺悔する間も与えられず死にたくはあるまい」

「……わかったわ」


 すぐに信用されないのも当然といえば当然だ。自分だって、人気のない通りで同じようなことを言って近寄ってくる見知らぬ人物が居れば有無を言わさず殴り倒しているだろう。

 エストは自身の不用心さを恥じた。

 とこうして話している間も、二人は今も霧に隠れる人影から目を離さないでいた。


「さあ、覚悟しろ『ナバルギアの旋風』。このファイス・ロルルを前にした以上、逃れることはできんぞ」


 ファイスの口上に、やはりそうだったのかとエストは納得した。となれば、この場に転がっている死体らしき輪郭もヤツの被害者なのだろう。

 それにしても、この辻斬りは非常に肝が据わっている。

 音を越えると評される彼女を前にし、剣先を向けられれば、普通であれば臆病風にふかれて逃げるか、自棄になって自滅するというものだ。

 なのにこの人影は微動だにしないまま佇むばかりか、ファイスの挙動に対して一切の反応を示していないとさえ思える。


「来ないのならばこちらからいくぞ!」


 業を煮やして叫んだファイスが、あっという間に濃霧の中へ飛び込んだ。

 エストもこの戦いに加勢したかったが、自分の腕ではかえってファイスの邪魔になってしまうと思い飛び込めなかった。一対一でなければ彼女の持つ長刀の利点は発揮できない。

 何より、名にし負う〝音越え〟はハッタリなどでは断じてない。

 自分が加勢しなくとも、すぐに勝負は片が付き、『ナバルギアの旋風』の名は霧と共に消える。エストがそう思っていた時だ。

 程なくして、ファイスが霧の中から戻ってきた。その表情は、落胆の色が隠し切れていなかった。


「あれ、もう終わったの?」エストはたずねた。

「……私の勘違いだったようだ」溜息をついてファイスは言った。「あんな阿呆、斬る価値もない」


「阿呆?」

「お前、名はなんという」

「……エスト」

「そうか……また会おう、エスト」


 それだけ話をしてファイスは立ち去った。

 エストは何がなんだかわからなかった。彼女は霧の中で一体なにを見たのか。

 そして彼女のまたな、という言葉がどういう意味か考えていると、ちょうどその時、目抜き通りを風が吹いた。

 もう終わったのかと思いながら腕で顔をかばい、風が収まって腕をどけた時には、一切の霧がなくなっていた。駆け巡るように吹いた流れが、都を包む濃い霧を払ったのだ。


 そうして今夜の仕事が終わりを告げた事に溜息をつき、エストが振り返ると、そこにリントが立っていた。


「ひええっ!!」エストは驚きのあまり飛び上がった。


 人影の正体は彼女だったのだ。

 彼女は昼間に会った時と変わらず、呆けたように放心しているだけに見えたが、そのぼんやりした瞳は、こちらをジッと見ていた。

 エストの心臓が早鐘のように打ち始める。

 その視線に受ける感覚からおそらく、自分がこの場に駆け付けてから、ファイスと話し、霧が晴れるまでずっと、彼女が自分のほうを見つめ続けていたことに気が付いたからだ。


「…………」リントは、自分に向けて倒れている死体を一瞥してから、またエストのほうを向いて口を開いた。


「……おまえに、あいたかった」


 その一言にエストの心臓が跳ねあがる。


「アタシに、どうして?」


 そう尋ねながら、腰にさげる剣の柄に手をおいた。

 これを運命的ななにかだと思うのは愚か者の考えだ。彼女が何者か、未だ定かでない事に加えて、目の前の血だまりに沈む死体。

 状況を考えれば彼女の仕業であることは極めて濃厚なのだ。

 そして横たわる男の体格、格式高い服装、横に転がっている刀剣の意匠から、決して生半な腕の剣士ではなかったと思われる。

 それを彼女は、己と死闘を演じた敗者に対し、まるでなんでもないかのようにちらりと目を向けて、それだけで興味が失せたかのように、振舞った。

 エストの中で、彼女が歪んだ精神病質者に映り始めていた。


「……そうだ」彼女は言った。

「一応聞いておくけど、なんで?」


 エストは細心の注意を払いながら言った。彼女が少しでも隙を見せれば斬りかかれるように。アタシだって初めてじゃないんだ、アタシならいける。そう意気込んでいた時だ。

 彼女は、唇も動かさずに言った。


「……なんでもする」

「は?」

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