牡丹の剣客①

 霧が深く立ち込める中、ゆっくりと時間をかけてコーテス区画の石敷きの道のりをじっくり噛み締めるように進む。路地からまた路地へ、できる限り暗く狭い道を選んで、あくまで自然に、気配を消して。

 立ち込める霧のせいか、広い通りも人影は疎らで、辻竜車が駆ける音を一度も聞いてない。

 魔術灯の光の及ばない裏路地となると霧も一層濃く少し先の様子も掴めない。通りを歩いてもいいかもしれないが、あえて路地を選んだ。入念に慎重を期すためである。


 こんな危ない真夜中の裏路地をうろつくのは余程の訳アリの人物か、札付きのならず者だけだろう。この頃の夜間の裏路地は怪物ストラテアの蔓延る森に勝る危険地帯であり、自らの意思で入り込む者の安全は保障されかねる。

 しかし、エストにとっては、そのほうが逆にありがたかった。


 エストは、辻斬り――であった。

 真剣を握って真夜中の都を徘徊し、善良な人々を手当たり次第に斬り殺す、人殺しの辻斬りだ。

 法律に反し、掟を蔑ろにし、道徳を踏みにじる、悪行をなす最低の人種だ。ただ一点、他の同業者とは違うところがあるのだが、それについてはあとで語ろう。

 そんなエストだが、幼い頃に初めて剣を握ってからというもの、ずっと心に想い続けていた望みがあった。


 一度、高貴な人物をどうしても斬り殺してみたかったのだ。


 その願いを叶えさせてくれるのは、無防備で、無抵抗で、失ってしまえば世界に対しての損失など計り知れないほどに価値のあるはずの人物だ。

 ……彼女は、そのすべてに合致している。

 少なくとも、エストの認識はそうであった。きっと、さる国の非常に重要な立場の人物だったに違いない。それか、何かの大きな使命に燃える剛毅なる人物だったのかも。

 どちらにせよ、それが本当だとして、どれだけ大きな事柄なのか夢想することはエストの具体性に欠ける想像力では厳しかった。

 きっと彼女は忠を尽くし、身を粉にしてきたのだろう。そうして使命にすり潰され、最後になにか大変なことがあって、疲れきって諦めてしまったのだろう。そうしてあのように何もせず、ただ死ぬのを待っているだけなのだろう。


 それらの根拠のない思考が脳の後ろで繰り返されるたびに、エストの胸に熱いものが沸きあがってくる。もしもこれが剣と関係のない事柄であったのなら――無論エストには縁のない話だが――この気持ちを恋だと確信してしまったかもしれない。

 早く逢いたい、早く斬りたい。

 その想いがエストの足取りを逸らせた。




 ◀




「いないじゃん」


 エストは憎々しげに呟いた。

 コーテス区画の裏路地、あの場所に彼女……リントの姿が無かったのだ。

 もしや勘づかれたか、それとも自分が居ない間に拉致されたのかとも思ったが、思考を結論づける前にエストの関心は、路地の奥の目についたあるものに吸い寄せられた。


 ――誰かが倒れている。男だ。


 エストの記憶が正しければ、昼間に彼女を襲おうとしたごろつきのうちの一人だ。そして、エストが殴り倒した上で見せしめに頭の毛を毟り取った男だ。頭のてっぺんの毛が全部引っこ抜かれているので間違いない。

 路地の暗がりに横たわる男は不気味なほどの静けさを放ち、ぴくりとも動く気配がなかった。


「ちょっと、アンタだいじょぶ?」


 流石に気の毒になって様子を窺った。そして、


「ひっ……」


 男の顔を見た瞬間、エストは思わず小さな悲鳴を漏らした。

 男は死んでいたのだ。それも、ただの遺体にしては奇妙だった。

 その遺体には滴る血や外傷がまったく見当たらず、目の焦点が定まっていない顔は、女をいたぶる悦に浸る数秒前かのような下卑た表情が張り付いたままでいた。一見して死んでいるなどとはとても思えないほど自然な姿だった。

 このやらしく不快な顔のゆがみは、遺体と認識することに違和感を覚えるほど生気に満ちており、まるで今にも起き上がって、何事もなかったかのように表情通りの下劣な振舞いをし出したとしても何ら不思議はないだろう。


 いったい、この男はどうやって死んだのか。

 理知的でないエストには推理しようもない事だが、少なくとも、殺されたとは考えにくい。この一滴たりとも血を流していない様子から、そう考えることはあまりにも荒唐無稽だからだ。

 聞けば、とある地方の国では体に取り入れることで天にも昇る心地になり、至上の幸福感を得られる不思議な葉があるそうだ。

 もしかすると、それそのものか、それに近いものが最下層区画に出回っており、この場所で取り入れたこの男は、そのまま夢うつつの世界から抜け出せなくなったのやもしれない。


「……しょーもな」


 途中でくだらなくなってエストは考えを打ち切る。柄にもない事を考えたものだ。そんな危険な物が出回っているのなら、しょっちゅう最下層区画をうろついている自分が気付けないはずがない。

 むしろ、そういった出来事を探しに出向いているくらいだ。もしも本当にそれが裏で流れていて、その確証が取れたなら、自分が剣一本ですべて片づけてやるものを。

 そう考えて憚らないのがエストなのだ。

 その時、都市中に響き渡らんばかりの、悲鳴にも似た叫び声がエストの耳に届いた。

 アルハイド街の目抜き通りの方向からだ。

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