エスト・リンツのこれまで③
「どいつもこいつも、腰抜けで、弱っちくて、意地っ張りだ!」
来てすぐに道場を飛び出したエストは、また来た道をまっすぐに戻っていた。その口から漏れ出るのは、自分を取り巻く環境や、世の中の理不尽に対する抗議の声ばかりだ。
もしも、誰かが彼女の行いと環境に対して意見するなら、誰もがエストではなく、ライルの言葉が正しいと述べるだろう。しかし、エストは生粋の分からず屋で、自惚れ屋だった。
つまるところ、彼女の悩みとはこれのことだったのだ。
エストは自分がいずれ世界に名を馳せるほどの剣豪となる才能の持ち主であると、そう確信しているのだ。
自分は剣の天才だ、なのに周りのみんなは才能を妬んで邪魔をしてくる、年若い今が最も伸び代があるというのに、周りのせいでアタシという天賦の才が時と共にどんどんと摘まれていく、これには我慢ならない。というのが、エストの言い分であった。
とにかく、誰でもいいから、たくさん人を斬りたい。いや、それよりかもっと――。
そう、思っていた時だった。
エストが戻ってきていた路地の隅に、先ほどは居なかったはずの、見知らぬ人物が壁にもたれるように座っていた。
「あっ……」エストは思わず声を漏らしていた。
牡丹の剣客。
脳裏を過ぎった言葉の、どことなく趣きがある響きに我ながら馬鹿らしくなる。
単にそんな髪色をしていたからそう思っただけに過ぎないと、エストは必死に首を振り、自分が一瞬でも見惚れてしまっていたことを忘れようとした。
まるで牡丹の花のような紅紫色の髪、纏うのはクレイドの貴族の間で密かに流行っていると噂の羽織とかいうらしい暗い色ながら華やかな装い。
そして何より、腕の中に抱かれる、古びて擦り切れたかのような一振りの真剣。
アルハイド街の目抜き通りから離れた、住居密集地であるここコーテス区画は魅力のある場所ではない。
子供は汚いし、頭上に色褪せた下着を干した紐が点々とかかっている路地は狭くむさくるしい。とてもではないが、このような気品があって身なりのよい人物がうろついていていい場所などではなかった。
「あ、あの。ごめんください」
エストは恐る恐る話しかける。単なる水商売をする女なのではないかとも思ったが、どうも違うような気がしたのだ。なぜだか、胸が何かに期待していて顔のほてりが止まない。
声にやや遅れて反応したその人物が、ゆっくりとこちらを向いて、牡丹の髪に隠れたその顔を見せた。
その瞬間エストは、足先の血の気が引くほどに激しく高揚した。
この人物は、息を飲むような美しい女だった。
いいや、別にそれはよかった。
そのような偏った自然でない性愛が世に存在している事はそれなりに認識しているし、だからといってエストにその気はない。
それなのに何故高揚したのかと言うと、彼女の顔を一目見て、彼女が心身ともに擦り切れ、疲れ果てて、全てを諦めきった人間だと直感したからだ。
彼女の表情からは精気が抜け切っており、口は呆けたように半開きで、目は夢でも見ているように虚ろだった。
コーテス区画の更に向こうの最下層区画にはこのような人間が沢山いる。
しかし、それらの――言ってみれば――とりたてて平凡な挫折した者や
物心ついた頃に少しだけ貴族の社交界に触れた事もある。剣を覚えてからは最下層区画の貧民を相手に威張り散らすなどしょっちゅうだった。
そんなエストにしてなお、この小汚い路地に座っているだけの女性をおいて、その人生の激しく絡み合ったかのごとき濃密さを、ただの一目で窺い知れるような人物は他に見たことがなかった。ひょっとすれば彼女以上の人物はこの国には居ないのかもしれないとさえ思えた。
「……なにか」
彼女が――おそらくだが――そう喋った事はすぐには分からなかった。
「……私に、用か」
次に言った言葉は、あまりにか細かったが、さっきより大きかったのでなんとか聞き取れた。
「い、え! あの」
話しかけられた事に気付いたエストは、慌てて口を動かし、適当な音を出しながら何を言うか考えた。そうして最初に浮かんだことを口走った。
「お、お名前は」
「……リン……」
二文字だけ呟いた彼女は、微動だにしないまま、なにかを考えているかのような間を置いて、半開きの口は動かさず、喉から声を絞り出した。
「……リント」
「リント? 家名の無い、ただのリント?」
「……そうだ」
リントと名乗る女性はピクリともせず答えた。
彼女の名前の響きが、自分の名前と家名、どちらともに似ていることに面白くなったエストは、思い切ってたずねた。
「貴女はここに座ってなにをしてるの?」
「……なにもしてない」
「なんでここに座ってるの?」
「……わからない」
「わからないって、なんで?」
「……それも……わからない」
「ひょっとして、なにもわからないの?」
「……そうだ」
「貴女は、昨日なにをしていたの?」
「……おぼえてない」
「その前は?」
「……ずっと……おぼえてない」
「これから何をするの?」
「……なにもしない」
エストが畳み掛けるように質問するように、彼女は疑いというものを知らないかのように簡素な言葉で答え続ける。
中身などあってないような会話に、まるで粗末な自動人形を相手にしているような気分になった。
しかし、エストは彼女と言葉を交わすほど、彼女の在り方が自分が想い描く理想の形に当て嵌まっていく感覚に言いようのない強い興奮を覚えた。彼女がどんな人生を送ってきたのか、彼女がどんな人間であるのかも、エストは全く知らない。
しかし、この女性があまりにも憐れに擦り切れている様子を強く認識するほど、エストはその印象とは裏腹に、全く別方向からの好意を向け始めていた。
「じゃあ」エストは最後に一つたずねた。
「貴女は、なんで生きてるの?」
すると、彼女の半開きだった口が動きだし、比較的ハッキリとした口調で言った。
「……さて……な。ただ……今までに、やるべき事は、全てやった、と、思う。……もう、疲れた……。悪いが……これ以上、私に、構わないで、くれ」
彼女はその言葉を最後に、長く息を吐き、虚ろな目を空に向けるように仰いで、なんの反応も示さなくなった。
それからエストは、夜が訪れるまでの暇を潰している間、たびたび彼女の様子を窺いに行った。
初めは何の問題もなかったが、日が暮れるにつれて彼女はごろつきに絡まれ出した。人気の薄い路地で座り呆ける身なりもよく無抵抗な美しい彼女に対し、荒くれた男たちが乱暴を働こうとするのは自明の理であった。
その度にエストが道場からくすねてきた木剣でごろつきを追い払った。
しかし、次第にその頻度は高まり、しまいには甲斐甲斐しく彼女の横に立って睨みを利かせるようになっていた。顔の知らぬ者にすら狂犬と呼ばれるほど短気で手が早いと知られるエストは、手元に剣がある限り、素人のごろつき相手ならたとえ数人がかりでも打ち負かしてみせた。
その間も、彼女はずっと虚ろな目とよだれの垂れる口を天に向けていた。
やがてエストの噛みつかんばかりの勢いに、なぜかこちらに硬貨を放って駆け抜けていった男を最後に、一切の人通りが無くなった。
すっかりボロくなってしまった木剣を放り捨て、エストがようやく路地を去る際、彼女に後ろからジッと見られているような気がした。
◀︎
とうに夜の帳も下りていた頃だった。一旦家に戻ったエストは、親に悟られないよう外壁からよじ登り、窓から自分の部屋に帰宅する。
そして、窓のすぐ脇にある机の上に立ち、天井の一部を取り外して、天井裏に隠していた真剣を持ち出した。
この国では未成年の帯刀など許されない。
正規の手段が使えず、親に大反対されることがわかっていたエストは、おそらく剣よりもこれを頑張った。
庶民に比べると少しばかり多かった小遣いの中から、酒や食べ歩きなどの誘惑から必死に我慢した分を貯めて、最下層区画にある非合法の店で相場以上を支払ってやっと手に入れたのだ。
鞘に収まれたそれは、一般的な直剣とは異なり、片刃で反りのある刀身をしていた。そして、奇しくも先ほどまで甲斐甲斐しく守っていた彼女が後生大事に抱えていたものと、同種であった。
エストは口元が自然とにやついているのを感じて、つられて笑い声を漏らした。ワクワクが止まらない。これから自分が行うことに比べたら、今までの人生などチリ屑にも等しいと、そう思って憚らないものだ。
「どうせ野垂れ死ぬなら、アタシがその命を貰ってやるんだから」エストは独り言ちた。
そして、また一つ大人の階段を駆け上がることに胸躍らせながら、自分の部屋の窓から飛び出していった。
リント・リンツの些細な世直し――牡丹の剣客――へ続く
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