エスト・リンツのこれまで②
太陽が真上から傾き始める頃合いだった。
眠たそうな目つきをしたエストはふらふらとした足取りで、アルハイド街の目抜き通りを少し歩き、芳しい香りを醸すベーカリーの角を曲がり、コーテス区画の見慣れた路地を抜けて、やがて流派名の掲げられた大きくも粗末な門戸の前に辿り着いた。
門徒用の脇戸を開けると、古い蝶番が悲鳴のような音をあげて、すぐに胴着姿の男が腕組みをしながら近づいてきた。
腰に真剣を差していて、背が高く、緑の髪を刈り上げていた。師範代のライルだ。
彼はシェスカの遠縁の親戚で、一家とは昔から親交があり、エストとは兄と妹のような――エストにとっては、口うるさくてお節介なヤツだが――親しい存在として扱われていた。
そんな、エストの悪習を知っている生真面目なライルは当然のように怒って叫ぶ。
「コラッ、エスト! また朝の稽古をサボったな。最近のお前の怠け癖は少し度が過ぎるぞ!」
「ごめんなさぁい」煩わしそうに耳を手で覆う素振りをし、練習用の木剣を手に取りながらエストは言った。「アタシ、なんだか静かな夜中に外に出て練習するのが性に合っているみたいで。そっちのほうが集中できるっていうか」
「夜中に外へ? まさか、お前は知らないのか」ライルは目を丸くして言った。
「知らないって、何を?」
「辻斬りだよ!」ライルは叫んだ。「ここ数日、夜中に出てきては偉い貴族や高名な剣士を斬り殺すんで街は大騒ぎだ」
エストは笑った。「アッハ、そんなの、この街じゃいつもの事じゃん。ひと月のうちに剣士が何人死んでると思ってるの?」
「今回のは只事じゃないんだ」
と彼は道場の奥に引っ込んだと思ったらすぐに戻ってきた。手には今朝の民営新聞を持っていて、エストに手渡す。
「断絶地帯からの侵略の深刻化、『新世界』の影響は未だ色褪せず、ヒュルックは最東端の要となるか……ホヘ、向こう側はいっつも大変だねえ。ま、東のことなんて知らないけど」
一面に記された遠く離れた国のニュースに感想を漏らしたエストの頭に拳骨が落ちた。
「そっちじゃない。裏のほうだ」
と指差された新聞の裏面に、エストは頭を撫でさすりながら涙ぐむ目をやる。
「痛いなぁもう……はあ、どれどれ。――ハハア、ギエス流、風に攫われるか、師範はバラバラの状態で道場前に、辻斬り『ナバルギアの旋風』は次は誰を――フウン、かの
一面を飾った事件の内容をつぶさに読み上げるエストは、その間も密かに見出しの隅々まで目線を滑らせ、自らの努力の成果が載っていないかを確かめていた。
やがて、どこにもそれらしき記事が見当たらなかったことに落胆して突っ返した。
「わかったか? 凄腕の辻斬りが出歩いてて夜は危ないんだ。お前も死にたくなかったら、規則正しい生活を心掛けて、ちゃんと明るいうちに修行しろ」
もっともな言い方で叱るライルだが、それに腹が立ってエストは「やーだよ、バーカ」と吐き捨てた。
「他人の練習に付き合ったらへたくそが移っちゃうもん。少しはアタシの言い分も聞いてほしいな。そう言われても、周りがアタシに合わせてくれなきゃ張り合いがないじゃない、って」
と言いながら、道場の門徒を見渡す視線には小馬鹿にするような侮蔑が込められていた。
不人気、これと言って他に形容しようのない道場内は、そこらの取るに足らない流派と見比べても狭くみすぼらしい。朝から練習に打ち込んでいると思われる熱心な門徒も両手で数えられるほどの数しかいない。
喧嘩沙汰を起こしては破門される事六回、様々な流派を渡り歩いてきたエストが最後に辿り着いたのが、このヘルバルク流という三流道場だった。
より正確に言うと、エストが足で通える立地の中に、悪い意味で名を売りすぎた彼女の面倒を見きれる流派が残っておらず、これに呆れ返ったライルのお情けと言える親切で名を置かせて貰っているだけなのだ。
「それに、なんだっけ、ナバルギアの何とかってヤツ。そんなのが出てきたらアタシが斬ってやればいいじゃない! というか、こっちから斬りに行ってやるんだから!」
逆に、エストは自分の話に替えると、先程の発言を聞いていて色めき立ったヘルバルク流の者らなど見えていないかのように、喜々とした表情で語り出した。
「まず、辻斬りだから前提としてアタシの不意をうってくるよね」と脳内に仮想敵を作ったらしいエストは、実際に手に持った木剣で敵との鮮やかな剣戟――周りからは、そのように見えた――を披露し始める。
「もし後ろから斬りかかられたら、振り向きざまに、こう! んで、こうでしょ! そうしたら懐に飛び込んで、こうして、バッカーンッ!」
ゴウゴウ、と空を切る音が響く。エストが木剣を振る様子に周りの男たちは、うわっ、と声をあげ、露骨に距離をあけた。
ほとんど感性に頼った彼女の説明は擬態語まみれで要領を得ないが、その実直な太刀筋を見れば彼女がなにをしていて、どうしたいのかが理解できる。
そしてエストが翻す撃剣の鮮烈さは、手に握るものが木剣であるに関わらず、見た者の脳裏に己が斬り倒される姿を容易く連想させた。
その威力に、エストにバカにされて腹を立てていた者も思わず感嘆の息を漏らす。師範代のライルでさえ口をつぐみ、話を一旦置いて眺めるに徹した。
エスト・リンツは類稀なる剣術の才能を持っていた。
まだ未成年のうら若き彼女の、その太刀筋の鮮やかさ、優れた運動神経による身のこなし、既に身に付きつつある闘気が生み出す爆発的な豪剣にかけては、ずっと年上の乱暴者でさえ怖がってエストとの面倒ごとを避けるほどだ。
エストの一太刀はまともに喰らえば骨が折れる上、たとえ模擬試合でも一切容赦をしないからだ。エストの攻撃を易々といなせる程の腕前を持っている者は、この道場にはライルと師範をおいて他にいなかった。
やがて脳内の辻斬りを叩きのめしたらしいエストは自慢げに鼻を鳴らしながら師範代に向き直った。
「そしたら最後に生き晒しにしてやる! これでナバルギアの何とかの尊厳は完全に砕け散ったはず。アタシの計算通りなら、今後百年くらいは剣なんて言葉について考えられなくなるね!」
と謎の計算式を独自に持つらしいエストは自信満々に言った。
しかしながら、彼女は剣の才であれば少なくともヘルバルク流の門徒の中で右に並ぶ者は居ないが、その一方で学問における努力はからっきしである。
ナバルギアの剣術道場の殆どが実力制なのに対して、ヘルバルクを含めて、エストが未だにどこでも皆伝を得られていなかったのがその証左だ。もっとも、彼女の問題の本質は別にあるのだが。
「お前が凄いのはみんな知っている」
ライルは毅然とした態度を崩さずに言った。
「でも、ダメだ。エスト、もう少ししたら成人すると言ってもお前はまだまだ人としては未熟な子供だ。どれだけ剣術に優れていても、それに強い心が伴なっていなければ、人を殺めることの重みを知っている剣客にはとても敵わない」
「じゃあアタシも人を斬ればいいじゃない! そうすれば殺せる!」エストが名案が浮かんだように言った。
「それはダメだ」ライルはまたしても首を振った。
「なーんでよー!」エストは駄々をこねるように木剣を振り回して叫んだ。
「いくら世事に疎いお前でも規則くらいは知っているだろう。未成年の子供に人斬りを教えるのは重罪で、誰もが知っている常識だ」エストがわざと狙った剣を、上体を反らして躱しながらライルは言った。
「むー、じゃあ許可貰ってくるから」
「それも引き受け人である師範の許可無しじゃダメだ。お前も成人すれば、そのうち試し斬りの一つもさせてくれるだろう。それまで我慢しなさい」
エストには彼の言い分がまったく理解できなかった。
来年には十五歳の成人の儀を終え、クレイドの法律に則りまともな大人の扱いを受けられるというのに、このライルという生真面目な青年は、いずれ自分が結婚して子供を作ったとしても決して自分に対しての子供扱いをやめないとさえ思える。
たとえ、隣の亜人国家であるマルミアでは十二で成人し結婚しているという話をしたとしても、それはその国での法律なのであり、クレイド国民であるお前には関係がないのだと、至極真っ当な正論で叱ってくるだろう。
「あれもダメ! これもダメ! ダメばっかりじゃない、このダメダメ男!」
大人の正論に言い返せず、剣もすべて躱され、堪らず木剣を床に叩きつけたエストは意味のわからない言葉を叫びながら道場から飛び出した。
「あ、待て! それだと意味が全然違う! 俺がだらしない男に聞こえるからダメだ!」
ライルの慌てて呼び止める声が聞こえたが、エストは聞こえないふりをしてどこへともなく走り去っていった。
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