リント・リンツの些細な世直し
ラーメン上のマチク
ナバルギアに吹く旋風
エスト・リンツのこれまで①
ルクレイア大陸に連なる列強の一つ、クレイド王国。
その王都ナバルギアは剣術が異常なほど盛んだとして有名である。剣の腕に覚えのある者が一度は訪れるこの都には、剣術の流派が数多に跳梁跋扈していた。
優れた剣術で名を売り、道場の立ち上げ、門徒の獲得、国の貴族に剣を指南する上級指南役の任を得る、そうした成り上がりを夢見て、ナバルギアの剣士たちは日々競い合っている。
道場や路地裏でちょっとした小競り合いをすることもあれば、時として、人々の行き交う大通りで公然と決闘が行われる。
一見野蛮な無法地帯にも思える街だが、しかして王命の下に厳格に敷かれた法規制と、何よりも尊厳を重んじる彼らの間に固く結ばれた暗黙の了解によって秩序は成り立っていた。
騎士道にも似る堂々とした気構え、異民族の目には異様に映る礼節さ、その奇怪な在り方はいつ頃から根付いたのか。今日もまた新たな流派が生まれては、新旧に関わらず水面に浮かぶ泡のように消えていく。
そんな争いでさえ逞しきナバルギアの人々には身近な娯楽の一つでしかなく、誰もが『斬った張った』を黙認しているこの街では、こと剣に関しては話題に事欠かない。
そんな他国と全く異なる価値観の中で、剣士と剣術という概念だけがあたかも世界の中心であるかのように脈動し続けているのがクレイドという国なのだ。
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エスト・リンツは近頃悩んでいるような素振りを見せている。いつになく口を一文字に結んだままのエストだが、別段寡黙というわけでもなく、むしろ普段は陽気でお喋りな方である。
エストはとても血気盛んな気性で、街のどこかでいざこざが起きればどこから嗅ぎ付けてしまうのか、いの一番に駆け付けては、訳も聞かずに手当たり次第に殴りかかり乱闘に発展させてしまう。
また人一倍酒にだらしがなく、何かと祝祭の日には、祭りだからとその昨晩からコルトエールを浴びるように飲み始め、午前の催しが始まる前から既に出来上がっていた。
来年に成人の儀を控えている年頃の娘とは言い難い粗暴さには両親も閉口するばかりである。
幸いにも家柄と容姿には恵まれていたので、最初はよい家柄との見合いには困らなかった。エストの両親は、この猛犬のような娘も器量のある男に嫁がせれば、少しは淑やかさを持ってくれるだろうと期待していた。
それなのにエストは一人目との見合いはすっぽかし、二人目を口で言い負かし、三人目のさる貴族の四男に至っては剣で勝てば娶られてやると口車に乗せ木剣で叩きのめしてしまった。
すっかり呆れを通り越した両親は彼女には好きなことをやらせるのが最も相応しかろうと逆に踏ん切りがついたものだ。
家柄に見合う淑女としての礼節さえ欠けるこの少女は、親の脛をかじりながら、学校にも通わず、剣が大好きで、大切な思春期に年頃の悩みも持たず、喧嘩と酒に明け暮れながら日々を自堕落に費やしている。
それがエストという少女の日常であり、これまでの人生の全てであった。
しかし、この頃のエストはどうしたことか非常に珍しくも難しい表情をしている。
その日も、エストは遅く起きてきた。その上料理が喉を通らない様子だったのを心配した母のシェスカは、知り合いの気の利いた女性の治療術士に診てもらおうかと提案してみた。
エストは初め口をポカンと開けていたが、やがて意味を理解すると顔を赤らめ「別にそんなんじゃないから」と突っぱねた。
「本当に、違うから! 行ってくるね、お母さん!」ぶっきらぼうに話を切ってエストは立ち上がる。そうして眠気に目をこする様子に母のシェスカは意地悪な笑みでたずねた。
「逢引き?」
「道場!」エストは叫んだ。
「ええ、こんな時間に? もうお昼よ。てっきりふけたのかと」
「別に、ちょっと顔を出してから散歩するだけだし」
「そんな事言って、ちゃんと丁寧に挨拶するのよ。この前だってライルさんが心配して、家まで様子を見に来てくれたの知ってる?あなたはずっと寝ていて気付かなかったかもしれないけれど」
「フン、知らないわよ。いつも礼節がどうとかなんてご高説たれてるくせに、ビビっちゃってアタシの部屋にまで上がってこれない腰抜けのことなんて」
出かける用意をしながら、エストはつんとした態度で言った。母は口を手で覆い「あらまあ、あなたが人に礼節について語れるようになるなんて、エストもちゃんと成長してるのね」とわざとらしく感動する素振りを見せた。
「うるさい!」エストは叫んで思いきり扉を閉めた。
そして、エストはすぐにハッとして、さすがに今のは感じが悪かったと己を省みた。すぐに一言謝りに戻ろうと思ったが、つまらないプライドがそれを邪魔した。
母に謝るのは帰ってから――やはり夜になってから――でも夜中は大事な用が――。
結局、エストは明日に先延ばしにすることにした。
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