第17話

「ふああー」

 朝。

 愛おしい土日は過ぎ、鬱陶しい月曜日はまたやってきた。

 歯磨きをする中で、ついあくびを漏らした。そのせいで、歯磨き粉の泡が口からこぼれそうになる。

 すぐうがいして鏡を見る。映ったのはやつれた顔。血色が悪くて口角に泡か唾かの液体が溜まっていた。

「……ふああ~~」

 さっきより口が大きく開いて、その分出した声もさっきより大きかった。

 はしたないかぎりだが、誰にも見られないのでセーブ。

 昨日は不眠だった。

 原因はとてもシンプル。今日は二日ぶりに未羽に会うからだ。

 未羽との接し方を一晩中考えていた。脳内で何度もシムレイションして出した答えは、いつも通りの態度で接する。あの日のことをなかったことにするように。

 そして、将来のことと和音のことも少し考えていた。

 澄美は俺の考え方を否定したけれど、俺は間違っていない。答えはいつか出るに違いない。そのいつかが来るまで、俺がせいぜいもがけばいいって話だ。

「お前にできるよな」

 鏡に映った自分につぶやく。

 意を新たにして蛇口から出る水を顔にかけると、なんとなくすっきりした。

 常に清潔感を保つように、化粧水を使う習慣は身につけている。顔に隈なく化粧水をなじませてから包むようにハンドプレスをして、肌に水分が浸透していくのを感じた。

 もう一度鏡を見る。

 首を右に回しては左に回す。それから首を傾げて顔を隅から隅までをチャックした。

 映ったのはいつもの秋林奏佑だった。

「これでいいかな」

 クマなし。寝ぐせなし。剃り残しなし。

 制服をキチンと着こなしていて間抜けなところがない。

 秋林奏佑、今日も優等生のふりをして学校へと向かっていく。



「おはよう」

「おはよう~」

「ハロ~」

 教室に入ったら、廊下側で会話していた女子グループに挨拶され、俺はすぐ「おはよう」と返事した。

「よっ、奏佑。今日は早いな」

 今度は教壇の近くに立つ男子に声をかけられた。

 自分の席に着くまでの間に、クラスメート何人とも挨拶を交わしていた。クラスは今日も親しい雰囲気があふれている。

 恐らくこれはクラス替えのない高校ならではの雰囲気だと思う。

 三年間一緒に授業を受けている仲間だし、お互いの個性を把握しているし。今の俺たちなら、揉め事があったとしてもすぐ解決できるだろう。

 俺と未羽も、きっと仲直りできると思う。

 クラスを見渡して、クラスメートは八割くらい登校している。ゲームやドラマの話題で盛り上がったり、クラスの隅でじゃれ合ったり、宿題を写ったり、どれもいつもの光景。

 そんな中で、明らかに違うところが一つあった。

 後ろの席に、未羽は机にうつ伏せしていた。呼吸に背を軽く起伏させながら、無防備にすやすやと寝息を立てている。

 あまり見られない小動物みたいな一面に、心が波立ち始めた。

 女の子の寝顔ってあんなにかわいいものだっけ。

「……かわいい」

 つい声に出たのが分かってすぐ手を覆う。

 未羽はいつも俺より早く登校している。時間を惜しんで予鈴が鳴る前に予習をする優等生。そして俺が登校したことに気づけば、彼女は必ずはにかみながら挨拶してくる。

「……あっ、んんっ」

 前髪が目に入ったのか、未羽は苦しそうに呻き出した。

 手が勝手に伸ばした。未羽を苦しむ前髪をすくいあげると、不意打ちを食らった。シャンプーの匂いが鼻をくすぐるから。

 幸いその匂いも一瞬淡くなった。

 未羽を起こさないように慎重に前髪を耳にかけると、一度乱れた寝息が落ち着きを取り戻した。

「ふふふ、いいもの見かけた」

 後ろから心地悪い笑え声を聞こえたので、俺はふっと振り向いた。そこにさっき挨拶をしあった女子グループが立っていた。

「頑張ってね、秋林くん」

 呆れた目で「さっさと離れ」と促すと、三人とも他の場所に離れていった。

 気の利かない三人がおしゃべりに夢中になったのを確認してから、俺は再び未羽に目を向けた。

 自分の腕を下敷きにして背もたれに頭を置くと、未羽の手に何かを握っているのに気付いた。

「前髪が目に入った原因はこれか……」

 それは羽根のヘアピン。ずっと昔に俺が送ったプレゼント。

 無神経というべきか、他に好きな人ができたから、俺みたいな異性からのプレゼントは使わないほうがいい。

 今度彼女に注意しようか。

 と、思うと、いろいろな感情が心のどこかからこみあげてくる。

 後悔か。悔しいか。俺にはこの感情をどうのように形容すればいいか分からない。

 分かるのは、未羽に好きな人がいるだけ。

 そしてその相手は俺じゃなかった。

 本当は思いもしなかった。

 彼女に好きな人ができたなんて。

 あくまで知る限りの話だが、俺を抜きにして未羽に告白した男子はせいぜい一人くらい。それは確かに一年生の時だった。

 未羽は「勉強に集中したい」という理由で断り、あれ以来彼女に挑もうとする男子は一人もいなかった。

 原因は二つある。

 一つ目は、未羽は恋愛に興味がない優等生に見えるから。

 二つ目は、俺の存在を知ってあきらめてしまう男子が結構いるから。

 そのせいで、俺は油断していた。

 ネタされるとすぐ否定の態度を示すけれど、本当は嬉しかった。「お似合いですよ」と言われて宙に浮いていた。

 未羽も曖昧な返事しかしない。困りそうな顔で俺に助けの視線を送ったり、はにかみながらごまかしたりして、はっきりと否定したことがなかった。

 だから脈ありだと思っていた。

 この曖昧な関係をはっきりとさせなかった結果、俺は知らないうちに手遅れだった。

「……ソウ……スケっ」

 声が小さいながらも、ちゃんと聞こえた。

 未羽の口から、俺の名前が零れたのを。

 もしかして、未羽の夢に俺が出た?

 心臓がドクンと鼓動を速めた。

「……ソウ……スケっ」

 聞き間違いかと思ったら、未羽は繰り返した。

 鼓動がさらに早まる。

 けれど、俺は一つの異様に気付いた。

 もう目を苦しめる前髪が耳にかけられたというのに、未羽はまた苦しく顔を歪ませている。

「み、みはね?」

 俺が不安げになると、

「……わたし、つらい」

 次に零れた言葉はこれだった。

 言葉と共に、未羽の目じりから一筋の涙が流れ落ちた。

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