第16話

「それで、用は済んだだろ。もう寝るからお前も自分の部屋に戻れ」

「いや」

「なんでだよ」

 結局、由美さんとの話を語り終えたにもかかわらず、澄美は俺の部屋から出るつもりは一切なかった。いつまでいるつもりかよ。この女は。

 スマホの時計を見ると、日付はすでに変わっていた。就寝時間は大体午前零時だから、流石に眠気がさしてくる。

 目をこすりながら「さっさと下がれ」と言わんばかりに手で促すも、澄美は離れる様子を見せてくれなかった。

 ――本当はただの言い訳だけど。

 単純に寝たいより、一人でいたいという気持ちが強いと、一番知っているのは俺だから。

「あのね、奏佑。人の価値をすべて使い切って自分の目的を果たしたら捨てる。人はそれを使い捨てって言うんだよ」

「使い所はあってないだろ」

「あたし、奏佑をこういう男に育てた覚えはないわ」

 俺の声を遮りながら、独りよがりに言い続ける澄美。

 こちらこそ育てられた覚えがない。と言い返さなかったのは、彼女のわがままにもうこれ以上に付き合っていられないのだ。今の俺にとっては。

 いっそのこと、力ずくでも追い出したい。

「ちょ、ちょっと。落ちるじゃない!」

 力を込めて澄美を押しのける。

 どちらかというと、俺は一応、積極性に欠けるタイプだけど、なぜか「善は急げ」ということわざが急に頭に浮かべ無意識に行動を促した。

「そっちがやるつもりなら、こうだよ」

 もう少しで澄美をベッドから追い出せるところ、澄美は俺の手を掴んで押し返してきた。

 昔のことを思い出す。

 子供の頃、澄美はよく俺にちょっかいを出してくる。時間や場所を選ばずに、俺をツンツンしたりこちょこちょしたり。思え出せばいつも読書中に邪魔してくる。

 我慢できずに反撃したら、いわば戦いの始まりだ。ルールなき座り相撲。ルールなしだからもちろん手段は選んでいられない。子供にしてはかなり汚い戦いだった。

 結局のところ、年上というメリットを持つ彼女に、ポコポコされていつも俺の負けっぱなしだった。

 けれど、それはあくまで昔の話だ。

 男だけであって、いくら力持ちの澄美にしても、力比べでは俺の圧勝に違いない。

「……ぐっ」

 少しずつ圧倒されつつも、澄美は負けじと粘る。

 正直持久戦は避けたいところだ。

 俺はさらに力を込め、一気に決着をつけようと……。

 その時だった。

 俺に押し倒され、澄美がバランスを崩された瞬間。

「……わぁ」

「……っ!」

 澄美がベッドの端から床に転び始めようとしたところが、視界にとらえた。

 ――このままじゃやばい。

 考えるより先に体が動き出した。

 片手で澄美の手を掴み、もう一つの手を彼女の腰に回す。火事場の馬鹿力のごとく、かろうじて倒れていく澄美の体をすくいあげて抱き寄せた。

 反動力によりぶつかる二人の体が、今度は後ろのベッドに倒れ込んだ。澄美は勢いのまま俺の方に覆いかぶさってくる。

 間一髪だった。

 肉付きのいいお尻ならまだしも、背中や後頭部を強打したらさすがに危ない。

 ほっとしたら、自分の喘ぎ声と心拍が聞こえた。「危ないところだったよな」とつぶやき、俺は深呼吸を繰り返しながら息をほぐす。

 そういえば澄美は大丈夫だっけ。

 俺に体重を預けたあの女の具合を確認すると、

「……一緒に寝たいな」

 そこに彼女は目を潤わせていた。

「やらせてあげるから」

 逃がさないように首に手を回してきて。

「……好きなだけ、抱いて」

 揺れる瞳で俺を見つめながらぽつりと言う。

「……」

 あまり突然のことで、俺は一時返す言葉を失っていた。ただ、驚くのもほんの一瞬だけだった。

 澄美の意図を察したから。

 俺に付きまとうのも納得がいく。

 ――ああもう、この勝負は俺の負けだ。

「……わかったよ」

 伸ばした手を澄美の頬に触れようとして、ふっとあることを思い出したから、俺は手の移動方向を変えた。

 そして思いっきり、澄美の額に強くデコピン。

「なっ、なんで!」

 悲鳴を上げながら、澄美は手で額をもみほぐす。

「いやらしい言葉遣いはやめろ」

「エッチなことを連想した奏佑が悪い!」

「そう連想させたのはお前だろ!」

「うむっ」

 と、顔を膨らませた澄美。

 しばらく見つめ合うごっこをしていると、澄美はいきなりぷっと噴き出した。

 何かを思いついただろうか。俺には嫌な予感しかない。

「奏佑の……」

 そこで言葉が途切れて、澄美は唇を俺の耳元に近づけた。

 わざと一拍置くのは、俺を緊張させるだめだろう。

 続きの言葉を待ちながら、俺は心の準備をしておく。

 そして耳元で囁かれたのは……。

「ツンテレ」

「もう一発やろうか」

「や、やめてぇぇ!」

 デコピンの構えを取ると、澄美はすでに額を両手で覆っていた。威嚇のつもりで指を少しずつ彼女に近づけ、さらに中指に力を込めると、澄美はぎゅっと目を閉じてしまった。

 デコピンはいつ来るのがやっぱり気になるようで、澄美は緊張気味に目を半開きにしてはまた閉じる。その繰り返し。

 そんなに怖がるのに、よくも今日だけで俺に二回もしやがったな。

 澄美の涙目を見て心の中でため息をついた。

 病院で一回、膝枕を堪能するうちにもう一回。リベンジするのに本当はもう二回打ってやる必要があるが、しかたなく俺は手を引くことにした。

 彼女の気持ちがちゃんと伝わったからだ。

 澄美が俺の部屋にやってきたのは、まだ三つ目の理由があるらしい。

 俺のことが心配で様子を見にきてくれた。病院の時も肩を貸してくれて俺を慰めた。

 無駄話するのも、ちょっかいを出すのも、これはきっと、澄美なりの優しさだと思う。少し回りくどいけれど。

 頭の中で子供の頃の記憶が過る。

 悲しい時も辛い時も、俺の傍に澄美がいつもいてくれた。眠れない夜は添い寝してくれて、俺の抱き枕になって抱きしめさせてくれていた。

 このような記憶を、忘れるわけがない。

 澄美もきっと、憶えているはずだ。

 だから、一晩だけ子供に戻っても……別にいいだろうか。

 今こそが、辛い時だもの。

「一緒に寝たいなら、好きにしろよ」

 手を澄美の腰に回し、隣に移動させた。

 嬉しくはにかむ澄美を見て、額に小さな腫れができたのに気が付いた。

「痛かった?」

 今思い返せば、さっきのはかなりひどい一撃だった。次は控えめにやろう。

「痛かったよ。でも……」

 言葉が途切れて今にも痛そうに額をもみほぐす澄美。

「あたしの挙動に、奏佑が全然ドキドキしてくれなかった方がずっと傷つくわ。女としての自信を無くしちゃう」

「するはずねぇだろ。ほら、俺たちきょうだいだしな」

「血は繋がってないし。奏佑のこと大好きだし」

 相変わらず表情豊かに抗議の声を上げる澄美に、俺はもう一つの手を回した。

 まるで本物の抱き枕のように、さらに自分の方に抱き寄せる。

「……ありがとうな」

「ん?」

「そういうつもりだっただろ」

「気づかなかったと思ったよ」

 にんまりと澄美は俺の頬を軽く突いた。

「おやすみ、奏佑」

「ん、おやすみ」

 リモコンで消灯して、部屋は静まり返る。

 澄美は俺を抱き返して、目を閉じた。

 遅れて俺も目を閉じる。

 ……やっぱり最高の抱き心地だ。

 目には見えないけど、想像はできる。

 本当に子供に戻れたような気がした。

 ――今だけでいい。

 ――今だけは、甘えさせてくれ。

 澄美が、俺のお姉ちゃんが、もう当たり前のように俺の傍にいてくれることができないから。

 彼女に甘えられるのも、今のが最後なんだから。

 澄美のおかけで、少し不眠気味の俺でも、間もなく眠れそうになった。

 眠りかけた時に、ほんのわずかに澄美の声が聞こえたが。

「……ごめんね」

 ……結局のところ、彼女の言葉を聞き取れずに、俺は眠りに落ちていった。

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