第7話

「佐藤さん、ありがとうございます」

 改めて軽いお辞儀をして、俺は澄美と共に和音の病室に向かう。先にエレベーターの乗り場に着き、俺が上向きのボタンを押したらちょうど扉が開いた。

 降りる人がいないエレベーターに乗り、俺は最上階のボタンを押す。すると扉が閉まり上昇じょうしょうし始めた。

 エレベーターが加速していく。俺は表示灯ひょうじとうを見上げ、到着音が鳴くのを待とうとしていたが、隣から変な音がした。

 ――プル。

 横目で見てみると、澄美はプルプルと震えていた。

「なに? その視線」

「風邪?」

 澄美の格好は十月にしてはかなり薄着だと思う。特に下半身はスカート一枚で色白な太ももは丸出し状態。見るだけでこちらまで寒くなる。

「違うよ、ただもう限界かもだけ」

「何が限界かよ」

「トイレ。ここは女子に言わせちゃダメなんだから今度注意しなさい」

「……は」

「女子との接しかたを教えてあげてるっつの。覚えておけば損はしない」

 いきなり説教モードになった澄美が言った途端に、エレベーターは最上階に着き扉が開いた。

「奏佑は先に部屋に行って」

 それだけを言い残して、澄美はそそくさと走り出す。そんな彼女を見送り、俺はやれやれとため息をついてしまった。

 仕方ないと思いながら、俺は先に病室に足を向けた。

 



 和音の病室は一番奥にある個室だ。

 ドアの前で深呼吸をした後、俺はドアをノック。

 予想通りに返事がない。むしろ返事された方がやばいと思う。このままドアを開けて俺は個室に入る。

 もちろん、ノックせずに中に入ってもいいはずだが、マナーはマナー。ノックをしなければなんだかむず痒い気分になる。

「失礼します」

 挨拶も忘れずに小声で済ませた。

 快適な空間を作るために室内は主に木の色を使っている。テーブルや椅子など、基本的な設備が備えてあり、とてもシンプルなデザインで心地がよい。

 その真ん中に置かれた病床の上で、和音は静かに眠っている。

 音がほとんどしない。

 空気の流れすら感じられない。

 そんな静寂せいじゃくに包まれた空間で、俺はいつも通りに椅子に腰かけた。ベッドの横で和音の寝顔を見ていた。

「あれからもう八年か」

 心の底からいろいろな感情が湧き上がってくる。

 初めて和音の存在を知ったのは十歳の頃。つまり八年前のことだ。

 八年。長くはないが決して短い時間ではない。

 あれから、俺は毎週土曜日に必ずここに来る。椅子に座って好きな小説を読んだり、絵本を読み聞かせたり、たまに何もせずにただその小さな体を見たりしていた。

 ここにいると時間が流れないように感じる。心が不思議に落ち着く。気がつくともう夜になったのはよくあることだ。

 誰にも話せない本音まで、ここだとたまに漏れてしまう。

 ここは癒しの場所。ちっぽけな幸せをくれる場所。すべての悩みを吹っ飛ばしてくれる場所。俺はそう信じていた。

 だがなぜか、俺は今イラついている。ざわついている。心が波立っている。

 いつもとは全く違うのだ。

 自分の心に手を当てる。

 いや、理由なんてとっくに知っていた。和音を失うかもしれないと初めて知ったから。

 ――やっぱり情けないのだ。

 自分のメンタルの弱さにびっくりした。澄美に何度も助けられておいて、結局彼女が傍にいないと平常心を保てなかった。

 もう座ってはいられない。

 俺は立ち上がり、和音の手を握っていた。

 そして小声で囁く。

「お前は生きてるんだよ」

 だって、手から温もりを感じるもの。

「成長してるんだよ」

 八年前はまだ幼児のような体型だった。なのに今は小学生のような体型になっている。看護師たちの話によれば、思春期少女にしかない変化まで、和音の体に起きているそうだ。

「どんどん元気になってるんだよ」

 最初は繋がれている医療機器いりょうききばかりだった。呼吸もできず人工呼吸器じんこうこきゅうきに頼っていた。そんな絶望的な状況を乗り越えて、今は自発呼吸できるようになっている。この病室に設置された医療機器は一台も使用されていない。

「だから、死なないで」

 願いはこれだけだ。

「俺を一人にしないで」

 彼女の頬に触れて、願いをそのまま和音の耳元で囁いた。いつの間にか俺は床に膝をついた。

 当然のことだか、和音は返事も反応もしなかった。彼女はただ相変わらず、静かに眠っていた。

 その寝顔は無垢むくであどけない。そしてきわめて幼い。

 まるでおとぎ話に出る姫様のような寝顔。

 誰もが知る童話――眠り姫。

 その姫は生まれたばかりの時に、悪い魔女に呪いをかけられずっと眠っていた。その呪いを解いたのは王子のキス。キスされて眠り姫はようやく目を覚めた。

「……だとしたら」

 和音の寝顔に俺は少しずつ近づいていく。

 いつか和音が目を覚めるなんて俺は期待していなかった。それは期待をしなければ失望もしないためだ。

 だけど、本当は少し想像していた。特に子供の頃に、和音が普通の子であれば、彼女はどんな人生を送っているかなとか、彼女とは仲良しになれるかなとか、そんな空想をたまに頭の中に思い書いていた。

「お前が無事でいいから」

 贅沢は言わない。そもそも俺は王子ではない。キスをしても姫様を起こせるわけがない。

 だから俺から離れないでくれれば十分なのだ。これでいいと俺は思う。

 寝息が聞こえてきた。もう少し近づくと、和音のおでこに当てるのだ。しかし、このあと一歩でキスできそうな距離で体が固まってしまった。

 病室の雰囲気が一気に変わったからだ。

 なんだか騒がしい音がする。 

 空気が流れ始めたように、前髪が風になびいている。

 目は前髪に覆われた。

 乱れた前髪を押さえて一度遮られた視線が戻ってきた。

 そして、俺の視界に入ったのは――

「……」

「…………?」

 ――両目をぱっちりと開けた眠り姫だった。

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