第5話

 病院に着いたのは十五分後のことだ。

 先に駐輪した後、俺はすぐ正門を抜け、待合室で澄美という女の姿を探す。きょろきょろと見回して、さっそく受付に一番近い席で彼女を見つけた。

「どうっ、どういう状況だ?」

「ああ、奏佑か。急に話しかけてきてびっくりだよ」

 澄美は今更のようにスマホをいじっていた手を止め見上げた。

「知ってることを、全部話してくれ」

 そんな彼女に、俺は前かがみ姿勢のまま、また問いかける。

 勢いに圧倒されたのか、見開いた目をパチパチさせて彼女は一時黙っていた。

「とりあえず、息を整えたらどう? 話はそれから」

 そして、ほんのりと俺に微笑みを見せて、澄美は隣の席を手で叩く。

 俺は手を胸に当てる。

 確かに彼女の言う通りに、この乱れた呼吸を何とかしないと、まともに話せるわけがない。

 隣の席に腰掛けて呼吸を整える。思考が少しずつ落ち着いていくにつれ、何とか冷静さを取り戻した。

 ただ、思考が落ち着いてきたからこそ、俺は気付いてしまった。

 今の乱された呼吸は激しい運動による息切れじゃない。それは全く別の物、心のどこかから湧き上がってくる不安や恐怖心きょうふしんによる、抑えようのない動悸どうきだ。

 

 ――俺は怖いんだ。


 一度気持ちの正体を知っていると、あえて意識しないのも無理になる。一時収まった息切れが再び激しくなり始めた。

 胸が疼く。

 顔が火照る。

 手足が震える。

 気がつくとめまいが襲ってきた。

 俯いた顔を左手で支える。気分をよくするために手首てくびでおでこを軽く叩く。

 しかし効果は全くない。視界がぼやけ始めてますます暗くなっていく。耳も詰まったように心臓の鼓動しか聞こえない。

「……すけ、奏佑!」

 意識が薄れていく中で、呼ばれたのを僅かに聞こえた。そのおかげで聴覚は少しずつ戻ってくる。

 鼓動のドクンドクンとした音は小さくなる一方、かわりに足音やしゃべり声は聞こえ始めた。

「……お姉ちゃん」

 声の元に向かうと、澄美は俺のベンチに置いた右手を握っていた。

「顔をお姉ちゃんに見せなさい」

 そして、もう一つの手が俺の頬に優しく触れてきた。

「自分の名前を憶えてる?」

「ああ」

「あたしの名前は?」

「ああ」

 意識はぼんやりしていたが、名前くらいは憶えている。それに、聴覚の次に視覚も次第に回復してきた。

 けれど、澄美の問いかけに返事する力がないので、適当に流すよりほかなかった。

「指、何本立ってるの?」

 ああ、もう、なんかめんどくせー。

 それ以上問い詰められたら切りがない。

「バカにすんなよ、三本だろ?」

 だから、今度は最後の力を振り絞ってちゃんと返事をした。

「よかった」

「おかげで助かった」

 優しい微笑みを見せた彼女に俺は素直に礼を言った。

「お姉ちゃんの顔をよく見て」

 彼女の言いなりに俺は目を細めた。

 名前は松倉まつくら澄美すみ。苗字が違うのは血が繋がっていないからだ。

 身長は百七十センチに近く、日本女性にしては背が高い。スタイルは全体的にむっちりとしているが、肉はつくべき場所についていて余計な贅肉ぜいにくはほとんどない。

 メイクで作られたみずみずしいツヤ肌に同じくメイクで伸ばされた長いまつ毛。色付きリップクリームでピンク色にした唇は柔らかそうに見える。

 茶色のロングヘアはおしゃれにするように工夫くふうされており、今日は一部の後ろ髪をアップして、一つのお団子にまとめた。

 もともと同じ屋根の下で暮らしていたが、大学に通い始めたことがきっかけで、一人暮らしを始めた。

 今は月に二、三回実家に戻ってくる。


「お姉ちゃん、優しいでしょ」

「うん」

「かっこういいでしょ」

「うん」

「かわいいでしょ」

「別に」

「美人でしょ」

「……」


 たわいもない会話を交わしているうちに、俺は澄美の肩にもたれかかってしまった。

「ごめん、今は相手したくない」

 ぼつりと、言葉が口から漏れた。

 すると、澄美も寄りかかってきた。

 言われなくても知っている。彼女が無駄話をしたのは、もちろん褒められたいだけではない。それは俺の不安を和らげるために、できるだけいつもの調子で話しかけてくるだけだ。冗談交じりに俺に気を遣ってくれている。


「大丈夫よ、きっと大丈夫」

「その自信はどこから?」

「なんとなく」

「お前の言葉、やっぱり世界で一番信用できない」

「ええ~?」

「……嘘ばっか」

「……あはは」

 ついずっと隠していた本音までを口にした。


「でも信じることは大事だと思うよ」

 澄美は言いながら遠い目になった。俺もその目につき視線を何もない遠くに置いた。

 正直、彼女の考え方は理解できない。

 和音の病気は、世界中の誰かが精一杯頑張ってくれても、解決できるものではない。いつか必ず目を覚めるなんて、そんな根拠のない話を俺はこれっぽっちも期待していない。生き続けられるだけで充分だと思っている。

 なのに、澄美は信じている。いつか和音が目を覚めると信じている。今回だって、異常あるって言われても無事だと信じている。


「だから、お姉ちゃんのことを信じて、和音のことも信じてあげて」

 彼女と目が合った。

 しばらく間が続き、それが彼女の本意であるかどうかを見極めるために、その澄んだ目を覗き込む。

 その目はきれいでみずみずしい。そして、吸い込まれそうなほど底がない。俺はやっぱりこの女の考えを読めなかった。

「本当に死んだりはしないの?」

「うん、あたしが信じてるから」

 もう一度聞いても返事は同じだ。

「信じていいよな?」

「もちろんよ」

「今回は、嘘つかないよな?」

「うん、約束は約束!」

 はっきりと、澄美は頷いて小指までを立てた。

「今回だけは、信じてみよっか」

 迷うに迷って、最後はその小指に小指を絡めた。

 それだけで和音が救われたら、俺は信じてみたい。

 贅沢は言わない。今回のピンチを乗り越えられれば充分だ。

 照れ隠しをするように、俺は顔を彼女に埋めた。すると頭に軽い感触を感じた。

 お姉ちゃんのなでなでは、やっぱり心地いい。

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