07_一喝
頭に水をぶっかけられて、俺は目を覚ました。
暗い場所で、クレシュが仁王立ちで俺を見下ろしている。空になった水桶を投げ捨てて、低い声で言った。
「スコウプよぉ、お前さん……自分が何をしでかしたか、わかってんのか……?」
頭痛がひどくてそれどころじゃない。頬に当たる硬い感触は石畳か。俺はうめき声をあげてクレシュを見上げた。知らねぇよ、どうでもいい、という気持ちを込めて。
クレシュが左手で俺の胸倉を掴みあげた。立て、とつぶやいて片腕で軽々と俺を引き起こす。足に力が入らないから、そのままぶら下げられるしかない。ヤバい、と判断した瞬間、強烈な衝撃が左の頬を襲った。クレシュの右ストレートをまともに喰らって、そのまま壁まで吹っ飛ばされる。ごふ、と喉が鳴って、胃液がせり上がってきた。苦くて酸っぱい黄色の汁を少しだけ口から零し、そのまま俺は床にへたり込んだ。
「足りねぇか?」
クレシュの言葉に、慌てて首を振る。震え上がるしかなかった。昨年の昇格試験で、初めて俺に本物の恐怖を知らしめた人物。
「なぁ、スコウプよぉ。A級ハンターってのがどういう存在か、俺はきっちりお前さんに教えたつもりだったんだがな」
石畳を踏む硬質の足音が近づく。
「俺の買いかぶりだったか? もう少し、芯の強いヤツだと思ったが……」
声は穏やかでも、全身から噴き出すような怒りの波動を感じる。ヤバい。最悪、ここで殺される。
「教えたよなぁ。A級ハンターってのは、必要と判断した人間を殺害しても罪には問われない。斬り捨て御免ってやつだ。国民からは尊敬と畏怖を同時に受ける。帝国がそれだけ、俺らの判断を信頼してるってことでもあるのよ。だからこそ、行動には慎重になれって、俺は言ったよなぁ?」
そう、俺もクレシュも、A級ハンター。まして軍の階級はクレシュの方が上だ。この場で殴り殺されても、俺は一切文句が言えない。
「それを……お前さん……、酒場で代金踏み倒して、一般庶民ぶん殴ってケガさせて、衛兵の厄介になって地下牢に留置されるとは……」
特大のため息をついて、クレシュは俺を睨みつけた。
「俺にも、任命した責任がある。なぁ、どうする。この場で新しいA級ハンターを『なかったこと』にした方がいいかね」
手足が痺れて、すうっと冷たくなる。つまり、俺は失格なのだ。冒険者としても、人間としても、存在すべきでないとクレシュに判断されている。
怖い、と思った。死にたくない、と。だが、何のために? 眠ったままのプライムの横で、残りの人生をどう過ごせと? 今はただ、殴り殺される痛みにビビッているだけじゃないのか。一時の痛みに怯えて、生き恥を晒し続けるほうがどれほど苦しいか。
俺は深く息を吸い込んで、吐き出すと同時に縮こまる身体からなるべく力を抜いた。
「……殺したければ、好きにしてくれ」
怖さが消えたわけではなかった。だが、どうせプライムのために何もできないなら、いっそのこと、あの世で一緒になればいい。この世に俺一人が生きていたって、何ひとついいことなんかない。
クレシュは俺を、じっと見ていた。長すぎるくらいに長く、黙って俺を見下ろしていた。
長い長い沈黙のあと、静かにクレシュは口を開いた。
「……お前さん、そうやって命を投げ出すのが、今一番やっちゃいかんことじゃないのか……?」
殺気が、消えている。
「お前さんが死んだら、嫁さんはどうなる。誰があの子を助けるんだ? スコウプ、苦しいのは分かる。だがなぁ、そうやって後ろ向きになっても、苦しさは変わらんぞ。今は自分の身体を、嫁さんのものだと思え。身動きできない嫁さんの代わりに、その身体で嫁さん助けるのが、お前さんに与えられた仕事だろうが」
息をするのを、思わず忘れそうになった。俺よりクレシュの方が、プライムの生還を信じてくれている。分かって、信じて、助けようとしてくれている。
「クレシュ……」
石畳にへたり込んだまま、俺は震えた。今度は怖いからじゃない。クレシュは、この気持ちを理解してくれている。悲しみとも、切なさとも、安堵とも言い切れない、複雑に入り混じった感情が、圧倒的な強度でせり上がってくる。泣くな。男だろ。恥ずかしい。抑え込んでいた言葉を一つずつ弾き飛ばして、一気に膨れ上がってくる。
顔を伏せると、両目から大粒の涙が溢れて石畳に落ちた。人前だぞ。いい大人が。ガキじゃあるまいし。みっともない。いや、そんな呪文ではもう縛りきれない。必死に抗っても、感情が濁流のように噴き出しはじめる。喉の奥から、出したくもない嗚咽が漏れる。
「クレ、シュ……うう……」
もう、どうにもならなかった。うぐっ、あぐっ、と喉で押し返しても、飲み込みきれる大きさじゃない。石畳が見る間に濡れていく。俺は耐えきれず、両手を床についた。
「うっ、うああああああああああああああああ!!!!!」
声をあげて、俺は号泣した。両親が死んだときでさえ、泣き声をあげなかった俺が。物心ついてから初めてと言ってもいい。腹の底から、全てを吐き出すように、俺は泣いた。
子どものように泣いて、泣きまくった。狭い地下牢に泣き声が響く。どれほど泣いていただろうか。泣き疲れてようやく息をつくと、黙って俺を見守っていたクレシュが、静かに口を開いた。
「全部、出しきれたか?」
まだ嗚咽を残したまま、俺は頷いた。
「なら、いい。今からは、もう泣くな。英雄が泣いたら、国民は不安になっちまう」
クレシュは俺の頭に手を乗せて、くしゃりと髪を撫でた。
「旦那が泣いてたら、嫁さんだって起きづらかろうよ。嫁さんが目覚めるまでは、泣くのはもう、禁止な」
袖口で涙を拭きながらこくりと頷く俺は、英雄とはほど遠い、小さなガキそのものだった。
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