06_逃避
アメリアの祈祷が終わって、まだ香炉のにおいが残る病室。俺はぼんやりと、プライムの枕元に佇んでいた。
毎日、毎日、こうしてプライムの顔を眺めている。悪くもならず、良くもならず、ただ眠っているだけの静かな顔を。一刻も早く、目覚めさせてやりたい。だが今、俺に何ができるのか。
「なぁ、プライム」
声をかけてみたが、自分でしたその行為に、自分でいらだちを覚える。聞こえていないのがわかってるくせに、これじゃまるで、死人に泣きつく遺族じゃねぇか。
綺麗な顔で、綺麗な髪で。いつまで寝てんだよ、起きろ。そんな言葉をかけることさえためらわれる。俺は完全に、ここにいる意味を見失っていた。胸が押しつぶされるような息苦しさ。何の役にも立てない。何の足しにもなれない。
女の子ひとり助けられないで、何がA級ハンターだ。大切なひとを守れもしないで、何の強さだ。貴族みたいな部屋で、貴族みたいなメシ食って、ゴロゴロと柔らかい寝床で暮らして。最低だ。情けない。馬鹿馬鹿しい。消えてしまいたい。何のために。俺は何のために。
窓のないこの部屋がきっと、息苦しさを加速させている。どうせなんにもできない俺だ。いてもいなくてもおんなじだ。
俺は病院を抜け出した。別に外出を禁じられているわけでもないから、悪びれる必要もない。でも、逃げているという自覚はあった。目の前の事実から。目を逸らしたい現実から。俺はローブのフードを目深に被った。
外はまだ明るかったが、帝都にはこんな時間から店を開けている酒場があることを俺は知っていた。去年までは、ガキに出す酒はない、などと追い返す店もあったが今は違う。昇格したばかりの最年少A級ハンターは、帝都でも噂になっていた。
「あんた、スコウプ・ネレイドだろ? なあ、刺青見せてくれよ!」
カウンターの端で火酒を一気に呷ったところで、見知らぬ男が声をかけてきた。追い払うのも面倒で左手を差し出して見せると、おお、と感嘆の声を上げる。
「これが本物のA級ハンター証か! 初めて見たぞ!」
討伐した龍を踏みつける騎士の姿。これが完成形の意匠、全ての冒険者が憧れる最終形の刺青だ。
龍の頭に突き立てられた剣は、女神の従者ロイバルゲンが化身したものとされている。この剣は、D級ハンターの証として最初に入れられるものだ。冒険者の8割を占めるD級ハンターは、左手の甲にぽつんと剣だけの刺青を持つ。俺の場合は、初めて試験を受けた15歳で手に入れた。C級に昇格すればその剣を携える騎士ターナムが描かれ、B級になると光背と呼ばれる背中の光と黄色い鳥が描き足される。この鳥は祝福の鳥と言われ、女神の化身ということらしい。A級に昇格すると、左手の甲の下半分を塗り潰すように大きな暗緑色の悪龍、イーレヴォン・メディウスが描かれる。神話を題材としたデザインだ。最後の龍はそれまでの刺青を上書きする部分もあって、刺すのにコツがあるらしい。これを刺せるのは帝国内でもたった一人、一子相伝の技と聞いた。
男の大声で、店内がざわついた。俺にも見せろ、俺も、俺もだ、と人だかりができる。面倒だったが、今引っ込めればもっと面倒なことになる。カウンターテーブルに放り出すように左手を置くと、どよめく男たちの視線がそこに集中した。
最初の男が、一杯おごらせてくれ、という。断る理由もない。同じ火酒をもうひとつ、それも一気に飲み干した。流石の飲みっぷり、などと声がかかる。腹の中が熱くなって、いろんなことがどうでもよくなってきた。誰からともなく、もう一杯の火酒が運ばれてくる。
一杯飲むごとに歓声が上がった。俺が何かを話す必要はない。どこから聞いたのか、俺の武勇伝を誰かが勝手に披露しはじめている。最年少の昇格者。武神エルブンの生まれ変わり。一昨年の野盗狩りで100人斬った、ってのは流石に尾ひれがつきすぎているが、否定する気にもなれない。代わりに酒を呷れば、わあっと声が上がって話はうやむやになる。
何杯飲んだのか、もう覚えていない。身体が熱くて、少し吐き気がする。外の空気を、と言い置いて、俺はふらふらと店を出た。
外はすっかり暗くなっていた。足元がおぼつかない。水が欲しかったが、さっきの店に戻るわけにもいかなかった。きっとまた囲まれて、火酒を出される。建物沿いに裏道に入って、人気のない路地の壁に手を突いて俺は吐いた。口からあふれ出たのはほとんど火酒そのもので、ニオイと酒気でさらに酔いが回っていくようだった。
ずるずるとその場に座り込む。壁を背にして、真っ暗な空を見上げた。いや、病院には戻れない。こんな状態で、病気の女房の横には帰れない。瞼が重くなって、なにもかも手放したくなる。目を瞑ると、自分も世界も、全てがなかったことになった気がした。このまま、全部消え失せればいい。
頭の芯が鈍く痛む。目を開けると、裏路地にも朝が来ていた。胃袋にはまだ酒の残る感覚がある。喉が渇いた。立ち上がろうとすると、軋むように四肢が痛い。肉離れの後遺症なのか、変な姿勢で道端に眠ったせいなのか、よくわからない。
酒場の空いている時間ではない。宿屋なら、朝食が始まっているだろうか。だが、パンや麦粥を食う気にはなれなかった。のろのろと通りを歩いていると、果物屋の店先が毒々しいまでに赤い。恐らく摘みたての、真っ赤なイチゴが陳列されている。買おうとして、財布すら持っていないことに気づいた。俺が名を名乗ると、果物屋の店主は驚いた顔でお代はいらないと言う。そのままイチゴを籠ごと貰ってしまった。さらに店主は、店の奥から大きな瓶を抱えて出てきた。自家製の葡萄酒だという。受け取っておくことにする。
眩しい朝日が不快だった。鈍い頭痛が不快感を助長する。果物籠と酒瓶をぶら下げて、俺は薄暗い路地裏を探して歩き回った。誰もいない場所がいい。暗くて、静かで、人のいないところ。なんなら、土の下でも構わない。
裏路地のさらに裏、ゴミ捨て場のような場所に、俺は座り込んだ。籠のイチゴを口に含む。見た目の毒々しさに反して、大して甘くも酸っぱくもない。期待外れだな、と思う。イチゴも、俺も、何もかも。
俺は葡萄酒の封を切った。瓶の口から直接喉に流し込む。渋くて酸っぱくて水っぽい。それでも、少しは喉の渇きが癒える気がした。迎え酒が、この忌々しい頭痛も消し飛ばしてくれるはずだ。
何も考えず、ぼんやりとただ座る。何にもない空の、青いだけの空間を見上げて、ときおり葡萄酒を流し込むだけ。嫌なことも楽しいことも、全部忘れてしまえばいい。
平衡感覚がなくなっていく。それでいい、とさえ思う。右肩が圧迫されているから、倒れているのかもしれない。また吐き気がした。姿勢も変えずにそのまま吐くと、気味の悪い赤い汁が口からたっぷりと流れ出してきた。右肩あたりに、赤いしみが広がっていく。イチゴか、葡萄酒か、それとも血か。どれもあり得るな、と俺は思った。そのまま目を閉じると、頭の痛みごと意識が薄れた。
たいして眠ったわけでもない。昼下がりの路地裏で上体を起こして、俺はまた葡萄酒を呷った。そろそろ、早い酒場なら開店準備を始めるころか。ローブの袖で口を拭って、残りの葡萄酒を飲み干す。喉が渇いていた。
このあたりから、記憶が定かではない。おそらく周辺を歩き回って、見つけた酒場に入ったんだろう。酒場なら前日飲んだ店が一番近かったはずだが、そこへ行かなかったのは、英雄と讃えられた場所に戻りたくない気持ちがあったのかもしれない。
おとなしく水でも飲めばいいのに、また火酒を飲っていたらしい。赤く汚れたローブをからかわれたのか、俺がふらついてぶつかったのが先だったのか。ともかく、俺よりでかい男に胸倉を掴まれた。俺の、目深に被ったフードから見えた口がニヤリと笑っていたという証言があるそうだ。
右の肘打ちを相手のこめかみに1発、うずくまりかけた頭部を両手で掴んで顔面に膝蹴りを3発、倒れた腹にとどめの蹴り。何をしたのかだけはなぜかはっきりと覚えている。泥酔していたにもかかわらず、いや、泥酔していたからこそ、手加減のない正確無比な暴力。
複数の男に取り押さえられて、大騒ぎになったところまでは、おぼろげに覚えている。何かを喚き散らしていた気もするが、何と言ったのか、自分でも全く覚えていない。そうして俺は、衛兵に引き渡されたのだそうだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます