08_信仰

 衛兵にキツめの尋問を受け、クレシュ共々平謝りしたあと、病院に連れ戻された俺は未明に院長の診察を受けた。腫れた頬を湿布で冷やし、ここ2日飲み損ねた消炎剤と、宿酔いに効く薬を混ぜて飲む。それまで付き合ってくれていたクレシュが言った。

「多分、お前さんには時間が余りすぎてる。ちょうどいい、日が上れば日曜だ。大聖堂に行ってみたらどうだ。午前中の礼拝はまあともかく、午後はアメリア主教が悩み相談室をやってくれてるらしいぞ。懺悔だ告解だと堅苦しく考えないで、どんな質問でもいいから気軽に来て欲しいってお考えらしい。お前さんのモヤモヤした気持ちも、きっと整理してくださるだろうよ」

 あまり気は進まなかった。洗礼くらいは産まれたときに受けてはいるが、俺は決して熱心な信者ではない。だが、確かにどうせ暇だ。本当に祈りでプライムを救えるのか、本気で救う気があるのか、アメリアに聞いてみたいという気がしてきた。意地の悪い問いかもしれないが、どんな質問でもいいというなら、女神を疑ってもいきなり叩き出されたりはしないだろう。


 少し休んで朝を迎え、院長がプライムに施術したのを見届けたあと、昼飯を食ってから俺は大聖堂へ向かった。院長の薬が効いたらしく、洗いたてのローブに着替えた身体はだいぶ軽い。ローブのフードを背中に垂らしたまま、大聖堂への道を歩く。

 コアリア大聖堂は、総本山のラテラ大聖堂に次いで大きい聖堂だ。ラテラ大聖堂のあるオルセンキアは遠く東の果て、旅に自信のない巡礼者の多くはここコアリア大聖堂を目指す。

 巨大な尖塔が3つ、山形に並んでいるのが見えてきた。真ん中の一番高い尖塔の下部には巨大な女神石がはめ込まれている。黒曜石に似た透明感のある黒い石の中心に、亀裂のような赤い光。その女神石の下には、女神を象徴する紋章が描かれている。一般的に教会のマークとして親しまれているが、黒い8の字を横倒しにして、左側だけ少し引き延ばしたような、改めて見れば意味ありげなサインだ。引き延ばされた左の外側の線だけが太く描かれ、その中心には滲むように赤い線が浮かび上がっている。この赤い線こそ、女神の恩寵、秘跡の一つなんだそうだ。祈りを込めて描けば、黒いインクだけでこの赤色が浮かび上がってくるのだと、島の司祭は言っていた。

 大理石の外壁は、様々な神話のシーンをかたどったレリーフでびっしりと覆われていた。3つ並んだ扉の中央を開く。通路は細く、明るい戸外から入ると一瞬、戸惑うくらいに暗い。奥に仄暗く甘やかな、赤い光が見えた。女神石を通して注ぐ日光が、赤く差し込んでいるのだ。光を求めるように奥へ進むと、突然、大きく開けた礼拝堂に出る。俺は思わずほっと息をついた。

 思った通り、礼拝堂は人でごったがえしていた。ファンの多いアメリア主教に直接会える日だ、そりゃ混雑もするだろう。人の塊はどうやら長蛇の列を形成しているらしく、その最後尾と思われる場所に、俺は並ぶことにした。


 しばらくそうして並んでいると、人波の向こうから、あら、と女性の声がした。見覚えのある顔だ。プライムの治療のために病室に来る司祭の一人だった。

「スコウプさん! 礼拝に来てくださっていたのですね!」

 午前中の礼拝には出ていないが、嬉しそうな顔を見せられると無下に否定しづらい。あー、と声を漏らしながらあいまいに首を動かしてみせると、司祭は礼拝堂の左奥の部屋へ俺を促した。

「どうぞこちらの部屋で、ごゆっくりお待ちください。今、お茶をお持ちしますね」

 どこへ行っても特別待遇か。悪い気はしなかったが、どうにも落ち着かない。出された薬草茶を一口飲んで、俺は小さく息をついた。

 礼拝堂のような豪華なレリーフはなかったが、この小さな部屋には壁一面を覆うような油絵が掛けてあった。両腕を広げた女神の前に、たくさんの人物が描かれている。恐らく、神話に登場する人々だ。めずらしい絵だな、と思う。

「ご覧になるの、初めてですか」

 司祭に尋ねられるままに、俺は頷いた。女神リージェ。リージェルコア大陸、リージェルク帝国、と大陸や国の名前に使われるほど親しまれているのに、女神そのものの名を呼ぶことは忌避されている。リージェ教と言わず利教とするのも、恐らくそれが所以だろう。象徴としての記号や、化身としての鳥の姿はあっても、女神の姿そのものを描いたものは見たことがなかった。

「利教を信じる我々には、女神の御姿を描くことは長らく禁じられてきました。これは、利教徒ではなかったある人物が、女神の教えを学び信じていく過程で描いたものです」

 国教であるはずの利教を知らなかった者、というのはどんな人物だろう。そして、そんな人物の描いた絵を飾っておくというのも、随分と懐が深い。

「今でもみだりに描くことは禁じられていますが、この絵をきっかけに、心に思い描く女神の姿を表現することが認められたのです。この絵を描いた人物、アメリア主教のお導きで」

「えっ」

 思わず声が出た。あのアメリアが、生まれながらの利教徒ではなかった、とは。

「ご存知なかったのですね。アメリア主教は、北方のご出身。教会すらない小さな寒村にお生まれになったそうです。魔術を志してオルセンキアへ上り、勉学の一環として学んだ利教に感銘を受けたそうです」

 俺は改めて、アメリアが描いたという絵を眺めた。芸術を嗜む審美眼は持ち合わせていないが、この絵が決して下手ではないことくらいはわかる。

「洗礼を受ける前に、これほどまでに女神の御意思を会得されていたとは、私も目にするたびに、心が引き締まる思いです」

 そう言って司祭は目を細めるが、この絵のどの辺りが御意思とやらなのか。俺の疑問符に気付くこともなく、司祭はうっとりと続ける。

「真実と錯覚の女神。リージェルコア大陸の造物主。女神の両の腕から数多の生命と物語が生まれ、私たちに連なっている。全ての出来事は、女神の御意思なのです。そう、こうして私とスコウプさんが美しい絵画の前に魅せられていることも」

 いや、よく描けてるとは思ったが、魅せられてるってほどでもない。が、この中途半端な気持ちも状況も、彼女に言わせれば女神の御意思ということなんだろう。

 全てを信じ、全てを受け入れて為すべきことをせよ、という教会の教えは一見、高潔なようにも見える。信じていれば、悩むこともないだろう。だが俺は好きになれなかった。全てが女神の意思なら、俺の意思はどうなる。五感で感じ、考え、判断して行動する個人の意思を丸ごと無視して、全部諦めて受け入れろだなんて、いくら神でも横暴すぎるんじゃないのか。

 女神はむしろ、自ら作った人々を奔放に手放している。俺には目の前の絵が、そんな風に見えた。


 不意に扉が開いた。忙しいはずのアメリアだった。司祭は慌てたように席を立った。

「アメリア様! よろしいのですか?」

「スコウプさんがいらっしゃっていると聞いてしまいましたからね。あなた、相談室の続きをお願いできるかしら?」

 はい、とうやうやしく頭を下げて、司祭は部屋を出て行った。見送っていたアメリアが、向き直って俺に微笑みかける。

「お待たせするわけにもいきません。よろしければ、この場でお話を伺いましょう」

 急だ。まだ心の準備ができていなかった。薬草茶を飲み干して息をつきながら、なんと切り出すべきかを整理する。

「ああ、いや、その……」

 祈祷なんかで本当にプライムは治るのか。全てが女神の御意思というなら、プライムは女神のせいでこんな目に遭っているということなのか。そもそもプライムは今どういう状態なのか。聞きたいことはいろいろあるが、切り出し方がわからない。いきなり宣戦布告をするような真似も、できれば避けたいところだ。

 俺の心を見透かしたかのように、アメリアはゆっくりとうなずいた。

「プライムさんのこと、ですよね」

 ああ、と俺が答えると、アメリアは目を伏せて小さく息をついた。

「お詫びしなければなりませんね。私の祈祷ですぐにプライムさんを呼び戻せないのは、ひとえに私の力不足です」

 へえ、これも女神の御意思とかなんとか言って逃げるかと思ったが、そうでもないんだな。

「ご不安な気持ちはよくわかります。こんなときには、女神の慈愛を見失ってしまうということも」

 見失うというより、最初からあまり慈愛とやらを実感したことはないんだが。

「ご自分を責める必要はありません。ときには女神を憎んだり、否定したりしてもよいのです。他ならぬ女神自身が、そのことを肯定しておられます」


 意外だった。憎んでもいい、か。しかも、自身で肯定しているとは。

「女神が?」

「はい。真実と錯覚の女神、と呼ばれるのは、そのためでもあります。この世の真実の姿を作り給うたのは女神ですが、そこに様々な錯覚を施したのも女神様ご自身。この世の何が真実で、何が錯覚なのか、ご存知なのは女神だけなのです」

 例えば、と言って一旦言葉を切ると、アメリアはそっと手のひらを俺に差し出して見せた。

「この手の上に、何か乗っているように見えますか?」

 見たところ、何もない。俺が首を振ると、アメリアは微笑んで頷いた。

「そう、何もないように見えます。それが錯覚です。ですが、ここには空気があります。窓からの日の光があります。どちらも、失ってしまえば我々はひとときすら生きられぬ大切なもの。それほど大切なものを『ない』と思い込んでしまうことこそ、女神の施した錯覚のひとつなのです」

 錯覚、か。たばかられたような気分であまり納得したくもないが、空気や温度のような、目に見えないけれど存在するものは確かにある。それを錯覚と呼ぶのなら、そうなんだろう。だが、女神はなんでまたそんな錯覚を世界に施す必要があったのか。悪意すら感じる、そんな錯覚を。

 俺が言葉を発する前に、アメリアは頷いてみせた。

「では、考えてみてください。もしも空気が目に見えるものであったなら。深い空気に沈み込んで、辺りはなにも見えなくなってしまいますね。空気が目に見えないからこそ、私たちはたくさんのものを見、世界を知ることができるのです」

 つまり。

「錯覚もまた、慈悲のひとつ、ってやつか……?」

 おっしゃる通りですよ、とアメリアは嬉しそうに頷いた。

「全ての真実を、我々人間は理解できません。それを分かりやすく、我々に見せてくれるのが錯覚なのです」

「えっ……」

 全てを理解することはできない、と簡単に諦めたのには少し驚いた。

「わからないものを、わからないまま飲み込むのか……?」

 俺の表情が曇ったのに気づいたらしく、アメリアは目を細めた。

「飲み込む、というのとは少し違います。信じる、とはそういうことです。床の存在を知っていて、そこにあると信じていれば、目を瞑っていても歩み出ることができます。同様に、女神を信じる心があれば、目に見えない恩寵を感じることができるのです」

 結局、信じる者は救われるって話か。黙って信じて善行を積めば、そのうちいいことあるだろう。平凡な人生を平凡に過ごすには、それで充分だ。だが今の俺には、そんな悠長なこと、やってる暇はない。


 俺が小さくため息をつくと、アメリアは言葉を続けた。

「少しお話が逸れましたね。世界を分かりやすく知るために施された錯覚ですが、そのために慈愛や恩寵を見失ってしまっても、女神は受け入れてくださる、ということは、神話にも表れているのですよ」

 神話か。一通りは知っているつもりだが、子どものころ、最後に配られる菓子目当てで通った礼拝で聞きかじった程度の知識だ。

「例えば、スコウプさんの左手の紋章ですが」

 急に刺青の話になった。俺は自分の左手の甲に目を落とした。

「聖騎士ターナムと悪龍のお話は、どのくらいご存知ですか?」

「ターナムが女神の加護を受けて龍を倒した……って話だろ」

「ええ。悪龍イーレヴォンを討つため、龍の住処に向かった騎士ターナムに、女神は従者のロイバルゲンを遣わせました。しかし、ロイバルゲンを物乞いと思ったターナムは、一刀のもとに彼を切り殺してしまいます。女神はロイバルゲンの背骨を一振りの剣に変えました。その剣を携えて、騎士ターナムはイーレヴォンと対峙します」

 神話というやつは、急に血なまぐさくなるから驚く。

「イーレヴォンは炎と雷の息を吐いて、ターナムを近づけません。女神はターナムに光の加護を授けました。『汝はもはや何者にも焼かれぬ身』と女神はターナムにささやきます。しかし、ここでもターナムは女神を信じませんでした。ターナムが『姿なきものの言葉は信じぬ』と叫ぶと、女神は黄色の小鳥に化身し、ターナムの肩に止まりました。するとターナムは小鳥をつかみ、イーレヴォンの口の中に投げ入れたのです」

 思っていたより乱暴な聖騎士様だ。

「小鳥が喉に詰まり、龍は息を吐くことができなくなりました。その頭に、ターナムはロイバルゲンの剣を突き立てます。切り口から飛び出した小鳥はターナムのまわりを飛び回り『強き意志に祝福あれ』と3回歌って飛び去った、と聖典には書かれていますね」

 確かに刺青をよく見れば、鳥の羽に赤いものが少しだけ描かれている。影の表現にしては上手くないと思っていたが、龍の血だったのか。

「女神のお導きを信じなかったターナムですが、女神はそれを許し、祝福さえ与えています。為すべきことさえ見誤らなければ、たとえ女神を否定しようとも、非道に扱おうとも、必ずお導きがある、ということの表れなのですよ」

 少し飛躍しているような気もするが、聖典の解釈というのはこういうものかもしれない。

「ですから、今はスコウプさんも、女神を無理に信じようとする必要はありません。プライムさんを救いたいという強い思いは、必ず女神に届きます。スコウプさんはスコウプさんのままで大丈夫。スコウプさんにしかできない祈りを捧げているのと同じです」

 アメリアは慈愛に満ちた日光のような笑顔で頷いた。

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