Closed Eye
首筋を這うように垂れる汗を、タオルで拭き取った。
窓からは日が強く差していて、セミの声と共に私たちを溶かそうとしてくる。音の立たない程度に下敷きで扇ぎながら、小さく欠伸をした。
教室にはセミの声のほかに、いくつかの音があった。
一つは、居眠りをするクラスメイトの寝息。前の授業が水泳だったせいか、いつにもまして机に伏している子が多い。安らかな寝息を立てている子もいれば、まるで中年のような鼾をかいて寝ている子もいる。お馴染みの面子だった。憤りは覚えるけれど、もう起こそうと努力する気にもならない。
もう一つは、そんな生徒を気にせずに授業を進める矢印先生の中性的な声。生徒は暑さに負けて草臥れているというのに、教科書も持たずに教室を歩き回りながら、白衣を羽織って教科書よりも詳しく歴史について語っている。背中まで伸ばされた灰色の髪は見るからにキューティクルがきしんでいて、横を通る時に煙草の匂いを運んでくる。丸眼鏡を掛けているのも相まって、どことなく老けた雰囲気がある。
「妖、それはかつて、妖怪だとかUMAだとかいう名で呼ばれていた化物の総称だ。吸血鬼や化け狐、鬼など、これまで伝承で語られるのみだった存在が多い。
彼等は現実世界には存在せず、空想の中だけの存在だと思われてきたが、その認識を覆す出来事が今から丁度百年ほど前に起きた。この出来事が何か、分かる者はいるか」
矢印先生が立ち止まり、教室を見回した。クラスメイトのほとんどは、まるで催眠術にでもかかってしまったように撃沈している。起きているのは勉強熱心な子ぐらいだ。矢印先生の歴史の授業は板書が少なく、口頭での説明が多い。黒板に書くことと言ったら重要語句くらいで、基本的には長々と出来事の解説をしている。だから、日頃板書を写すことでなんとか眠気を飛ばしている人は、矢印先生の催眠術にやられて意識を失ってしまう。らしい。
一瞬の沈黙の後に、起きている子たちが手を挙げ始めた。私も少し遅れて倣う。
「ん、じゃあ正義感ヤクザに答えてもらうか」
ぴん、と人差し指が私に向けられた。いち早く手を挙げていた子を差し置いて、私が指名されたのだった。矢印先生はその時々の気分で指名する生徒を変える。おかげで挙手の速さ比べにはならないけれど、そんな姿勢を悪く言う子もいる。
ふと、何かが引っかかった。先生は今、なんと言ったのか。私を指差しはしたけれど、私の名前を呼びはしなかった。
「……私、ですか?」
思わず、自分を指差して問い返してしまう。
「当然だ。世界広し、人妖多しと言えど、正義感ヤクザと呼ばれるのはお前くらいだろう」
当たり前のことを説明するように、先生は言った。まるで私が間違ったことを言ってしまったみたいで、顔が赤らんでいくのを感じる。
「な……誰がヤクザですか! ちゃんと名前で呼んでください!」
「そんなに怒ることか?」
「怒ることです!」
先生は肩を竦め、「はーはー分かった。古屋叶さん、発表をお願いします」とあっけらかんとして言った。今にも口笛でも吹きそうな表情には腹が立つけれど、私と先生の言い争いで授業時間が減ってしまうのは真面目に授業を受けている他の生徒に悪い。不良教師のくせに! という言葉を飲み込んで、息を整えた。
「隕石の衝突によるものです」
はつらつと答えて席に着いた。
ある日飛来した隕石が衝突した際のエネルギーの爆発が原因で、『人の生きる世界』と『妖の生きる世界』が繋がった。というより、歪な形で融合してしまったらしい。
「それから二十年程の戦争を経て、ようやく人と妖は共存関係を築くことに成功した。お前たちにも身近な例が学校だな。クラスには人も妖もいるし、私だって……」
矢印先生が手の甲をつねるようにして引っ張ると、皮が次第に変化していく。女性らしい細く柔らかい肌がかさつき、薄い紙となって指で摘ままれた。
「身体が紙で出来た妖だ」
つい先程まで自分の肌だった紙にペンで何か殴り書きをして、付箋のように腕に貼り付けた。目を凝らす暇もなく、腕に貼られた紙はみるみるうちに色を変え、やがて肌に同化した。肌に還った、というのが正しいかもしれない。
他の子も矢印先生が妖だということくらいは知っていただろうけど、実際に目の当たりにするのは初めてだろう。
拳を強く握った。どこにでもいる、人間の女の子らしい細く小さい手。妖らしい特徴を持っている先生を羨ましく思う。
皆が驚いて目をぱちくりさせていると、先生はにやついたように僅かに口角を上げながら腕にペンで何かを書き記し、
「次の授業から人と妖の世界が繋がった後の歴史について進めていく。予習と復習は怠らないように。……居眠り組はその調子だと期末に泣くことになるぞ」
授業を終えた。同時にチャイムが鳴って、眠っていた子たちも目を覚まし始めた。先生の腕には、きっと居眠り組の名前がメモされているのだろう。
肩の力を抜いて机に突っ伏そうとすると、背後から軽く肩を叩かれた。振り返ると、
「あは、引っかかったー!」
友人の新谷葵の人差し指が私の頬に押し込まれた。私は傑作だと言わんばかりに笑う葵の指を退けながら、
「さっきまで寝ていた人だとは思えないわね……」
と呆れて言う。歴史の授業が始まって五分後に確認した時には、既に葵の意識は夢の中へと旅立っていた。
「催眠術が解けたんだよ! あたしはね、矢印先生の授業中は眠れる森の美女なの」
目が覚めていることを証明するように目を見開いて、明るい茶色の瞳を輝かせた。六時間目の授業を寝て過ごした葵は朝一番の鶏のように元気で、教室内によく声が通る。眠気も覚めていくようだ。
「こら、いけないわ葵。あんまり大きな声を出すと先生に聞こえるかも」
辺りを憚るように葵に耳打ちした。ハッとした彼女と共に事務机の方へ顔を向ける。肝心の矢印先生は自分の机に座り、涼しい顔をして何やら分厚い本を読んでいた。物凄い速さでページを捲っていて、本当に内容を理解しながら読んでいるのか不安になる。
「助かった……ありがとうカナ。命の恩人だよ」
安心したからか葵が溜め息を吐いた。高校生になって2年が経ったというのに、純真な女子中学生のように彼女は振る舞う。事実、中学で出会った時から新谷葵の在り方は変わっていなかった。
「そんな、大袈裟よ。ほら、HRが始まるわ」
矢印先生が教卓に向かうところが目に入り、葵に席に戻るよう促す。
「はーい。またあとで」
帰りのHRは滞りなく進み、特に目立った連絡事項もないまま終わろうとしていた。そろそろ解散だろうと皆が支度をしていると、矢印先生が何か思い出したように手をぱちん、と合わせた。
「忘れていた。最近は物騒な事件が多い。しかも被害者のほとんどは学生だと聞く。人妖関係なく、帰り道には気を付けるように」
妙に言葉を濁して、歯切れ悪く言った。あの矢印先生にしては珍しいことだった。
「先生、それじゃ何に気を付ければ良いのか分かんないっすよ」
心配したのか興味本位か、クラスメイトの男子が声を上げた。
「いや、全くその通りだ。今の言い方では何も情報が伝わっていない。悪かった」
そうは言ったものの未だ悩んでいる様子で、矢印先生はしばらく目元に手を当てていた。やがて「ショックを受ける奴もいるかもしれないから、どうしても気になる場合は放課後に聞きに来れば良い。とにかく、帰り道には気を付けるように」と早口に言って、逃げるように締めの挨拶をして去って行った。
「さっきの矢印先生、変だったよね」
放課後、早速私の席に来た葵がそんなことを言った。確かに、らしくないとは思う。所謂『物騒な事件』のような話をすること自体は珍しいことでもなんでもない。寧ろ生徒を怖がらせたり驚かせたりするのは矢印先生の趣味と言っても良かった。なのに。
「先生が私たちの身の心配をするなんてね。教師なら当たり前の話ではあるけれど……」
「らしくない」
声が重なる。二人の意見は同じだった。
思い立ったら、後は行動あるのみ。私たちは職員室で仕事をしている矢印先生に声を掛けた。
「古屋と新谷か。言っておくが、そんなに面白い話じゃないぞ」
パソコンと睨み合いをしながら矢印先生はそう言って、「来るのはお前たちだけか?」と聞いた。他の子たちは部活があったり、そもそも関心がなかったりで、わざわざ聞きに来そうになかったことを伝えると、先生はパソコンを乱暴に閉じて立ち上がった。どうやら、職員室で話すのも憚られるような話題らしい。
矢印先生に連れられた先は、誰もいない理科室だった。先生は適当に椅子を3つ並べて、座るよう促した。
「先生、物騒な事件ってなんなんですか?」
抑えられずに葵が先に口を開いた。矢印先生はやはり言いにくそうに目を逸らしながら口をへの字に曲げている。先生は二本指を立てて、そのまま壁掛け時計の方へ向けた。二分待て、ということらしい。私と葵は顔を見合わせて頷き、大人しく待つことにした。
丁度二分経ったところで、矢印先生は約束通り口を開いた。
「お前たち、ニュースは見てるか」
「朝のニュースなら」
「あたしはあんまり」
先生は私たちの回答を聞いて、丸眼鏡を服の裾で拭きながら溜め息を吐いた。
「そうか。では念の為に最初から説明しよう。」
そうして矢印先生は話し始めた。
「六月の中頃、つまり先週からある事件の話題をよく耳にするようになった。
最初はよくある妖による傷害事件で軽く片付けられていたんだが、その次の日に起きた傷害事件をきっかけに注目されるようになった。犯人は同じなんじゃないか、と。警察やマスコミは何故そう思ったのか、分かるか」
「痕跡、ですか。吸血鬼なら血を吸われた痕が残るでしょうし、他には……思い付きませんけど」
答えながら、隣の葵を見る。彼女は顔を顰めて、不快そうに話を聞いていた。葵はただの人間で、妖は危険で怖いものだという認識が昔からあった。当然の反応だった。
「その通り。だがまぁ、その痕が問題なんだが」
そう言うと、
「ここから多少ショッキングな内容になるが、このまま話しても大丈夫か」
葵を気遣ったのか、再び忠告をした。
私は葵が反応するのを待った。葵が帰るのなら私も帰るし、このまま聞くのなら同様に。どのみち、葵を一人にする気はなかった。
「大丈夫です。続きを聞かせてください」
苦い顔をしながら、葵が答えた。無理して聞くような話でもないだろうに、彼女がそう判断した理由は分からなかった。
「そうか。では続きを。二つの事件の犯人が同一だとする根拠が被害者の体にある痕、という話だ。
この被害者はどちらも女で、私たちと同じ市の高校に通っていた。襲われたのは部活が終わった後の帰り道、歩いていたら急に視界が闇に覆われた、つまり目が見えなくなったのだと。駆け付けた警察官が見たのは、目玉を失くした被害者だった」
「目玉がない……ですか?」
意味が理解出来ず、先生に訊ねた。
「今言った通りだ。そして奇妙なことに、被害者は目玉、即ち眼球を失っていたにも関わらず一滴も出血していなかった。恐らく痛みも感じなかっただろう。そりゃ、妖以外にこんな芸当が出来るはずもない」
ふと、矢印先生が立ち上がって、私たちの背後に素早く回り込んだ。先生の不審な動きが気になり、後ろを向こうとすると、視界が何かに覆われた。いや、判断が一瞬だけ鈍ってしまったけれど、明らかに掌だった。典型的なドッキリに、また引っ掛かってしまった。
笑い声がすぐ横から聞こえてくる。先程まで暗い顔をしていた葵が大笑いしているのだから、これはこれで良いと思う。
「実演すると、こうなる。お前が狙われていたら、今頃目玉が丸ごと盗まれていたところだ」
掌が離される。にもかかわらず視界は塞がれたままで、僅かに背筋が冷える。目元に手で触れると、薄い紙のようなものが張り付いていて、指で摘まむとそれはすぐに剥がれた。ノートというよりは、小説に使われるような質感の紙。矢印先生の体の一部だ。
「私が鈍いって言いたいんですか」
「鈍いなんてものじゃない。新谷もそう思うだろう?」
葵は腹を抱えながら頻りに頷いていた。
「人間がどうこう出来る相手じゃないのは分かるだろう」
じぃ、と矢印先生に見つめられる。忠告しているんだ。でも、私は……。
「私は妖です」
「だが、何も持っていない」
放たれた言葉は的確に私の心を捉え、貫いた。
自分の掌を見る。半分とはいえ、妖の、それも鬼の血を引いているとは思えない、小さな、弱々しい手。
身体能力は人間並、額に角は無く、小さな瘤があるだけ。妖らしい特徴が現れにくいのは人と鬼の混血だからだと考えた考えたこともあったけれど、他の混血の子が能力を発揮しているのを見て、その線は消えた。鬼の要素がないのは、私自身に問題があるからだ。
私は、ただの人間だ。
だから、返す言葉が何もなかった。
「正義感を振りかざすのは良い。だが、自分の存在証明のために無謀な行動をするのはやめろ。迷惑だ」
「私はただ、自分に出来ることを探していただけで……」
「その行動が、お前に関わる者を危険に晒すかもしれないと言っているんだ」
言われて、はっとした。横に座る、葵の姿が目に映る。私と同じ、もしかしたら私よりもか弱いかもしれない人間。いつも隣を歩いてついてきてくれる親友。彼女が危険に晒されることを、考えたことがなかった。
私の行動は迷惑なのだろうか。葵に直接聞きたかったけれど、今は目を合わせることすら怖い。
矢印先生は時計に目を向けると、
「……暗くなる。そろそろ帰れ」
背を向けて出て行った。
視界の端には葵が映ったまま。沈黙が気まずい。葵は、どんな表情をしていて、どんなことを考えているのだろう。
そんなことを考えて、何分かが経った。
「……カナ、帰ろうよ」
顔を伏せていた私に、声を掛けてくれる人がいた。普段よりも張りはないけれど、はつらつとした声。海の奥深くに日の光が差すような感覚。引き上げられるようにして、声の主を仰ぎ見る。
「……葵」
「ほら、帰らないと目玉を取られちゃうよ」
葵が目隠しをするような仕草をして揶揄ってくる。気遣いでやっているのは分かっているのに、つい笑みが零れてしまう。
「そうね。目玉泥棒の出ないうちに帰りましょう」
ここで話したことなど忘れてしまったように互いに笑みを浮かべ、鞄を持って理科室を後にした。
校舎を出ると空の赤さは薄れつつあって、夜の暗がりが迫りつつあった。セミはまだ騒がしく音楽を奏でていたけれど、コンサートの終わり際のような寂しげな雰囲気がある。葵の慰めで気楽にはなったけれど、それでもやはり矢印先生の忠告が気掛かりで、急ぎ足気味になっていた。歩幅の小さい葵は一歩後ろを歩いていた。
「さっきの矢印先生の話、葵はどう思ったの?」
葵に聞いてみる。目が合わないよう先を歩いていたし、言い方もぎこちない。
「そりゃ、妖は怖いよ。だけど、カナは怖くない。妖っぽくないから、って言うとカナは怒るかもしれないけど、そのおかげであたしはカナと仲良く出来るわけだし……」
慎重に言葉を選んでいるのが伝わってくる。でも、嘘や気遣いのためではない。私を傷付けない言葉を考えて声に乗せている。
「妖だから怖いんじゃなくて、危険だから怖いのかも。妖には特別な力があって、人を傷付けることがあるでしょ? 常にナイフとか銃を持ってるんだと思うと、どうしても怖いよ」
確かに、葵の言う通りだと思う。ほとんどの妖は人間よりも基礎体力が優れていて、加えて葵の言う『特別な力』がある。鬼には怪力があり、例の目玉泥棒には眼球だけを抜き取ることに特化した能力がある。それゆえにナイフや銃などを持っていなくても、妖は徒手であっても犯行に及ぶことが出来る。でも、その便利な能力を持っていることが犯行の証明となり得る。その点において、妖の持つ能力は人間の使う凶器と同じに思える。
「私は凶器を持ってないから怖くないってことね」
「カナには申し訳ないけど、そういうことになっちゃうね」
「いいのよ。私はこの身体が好きじゃないけれど、葵が友達になってくれたもの」
葵が徐々に変わりつつあるのを感じていた。ひたすらに妖を恐れて、関心を持つことも億劫だと言っていた彼女が、妖の起こした事件の話を熱心に聞き、恐怖を抱く理由を自己分析している。普段は無邪気なのに、知らぬ間に大人へと近付いていた。
目を背けている私の方が余程子供らしい。そう思って後ろを歩く葵の方へ振り返ろうと足を止めた時、強烈な悪寒が背中を走った。嫌な予感だとかそういうものではなく、振り返れば命を取られることを確信させられるような、冷たく鋭い空気が背後にあった。息が詰まり、僅かに首を動かして後ろへ振り返ることさえ出来ない。危険が迫っているのは確かなはずなのに、それを葵に伝えることも出来ない。私は体を震わせながら、足元のタイルを見詰めていた。
冷たい汗が顎の先から垂れ落ちて、地面に黒い染みを作った。辺りはすっかり暗くなっていて、妙に人の気配がない。私と、葵と……もう一つ。誰か、何かがいる。
か弱い悲鳴が短く響いて、直後にばたり、と誰かが音を立てて倒れた。ほんの数秒の間の出来事ではあったけれど、取り返しのつかないことが起こったことを察するには十分だった。
悲鳴が耳に入ると、氷が溶けたように体の自由が戻った。首筋に纏わりつく恐怖を乱暴に振り切って後ろを、葵のいた場所を向いた。
そこには、蹲るようにして葵が倒れていた。身を守るように丸まって、顔を手で覆って呻いている。そして、すぐ側に、あいつがいた。
正体を隠すような真っ黒い格好。フードを被り、マスクをしていて表情が伺えない男。そのような謎の多い風貌の中で、掌だけが色を持っていた。
見知った瞳と目が合った。特別でも何でもないブラウンの瞳。笑った時の三日月の形まで思い出せる。
掌に開いた、目蓋のような穴。その中に親友の瞳は収まっていた。あいつ――目玉泥棒は見せつけるように掌をこちらに向け、怪鳥のような引き笑いをした。
心臓が跳ね、体中に血液が行き渡っていくのを感じる。HRが終わってすぐに帰っていれば、無理を言って矢印先生に家まで送ってもらっていれば、気まずいからと言って先を歩かなければ……。後悔ばかりが頭に浮かび、嘲笑うように目玉泥棒は掌を見せびらかす。
私に力があれば、妖らしい力があれば、葵を守れたかもしれない。小さな手を強く握りしめ、唇を噛む。次はお前だと言うように、目玉泥棒が一歩踏み出した。矢印先生の言う通り、私は自分の行動が他人に与える影響を欠片程も考えていない愚か者なのだろう。葵に対するせめてもの償いに、あいつにこの瞳を捧げよう。
目玉泥棒が歩みを進めながら、こちらへ手を伸ばす。
「カナ、逃げて……」
葵が、か細い声で言った。瞳を奪われ、暗闇の世界で恐怖に蹲っていた彼女が、私に逃げろと言った。
これまでに感じたことのない怒りと共に力が湧いてきた。葵の見る世界を奪ったのは目の前で下品に笑う男だ。私の瞳が失われたとしても、葵は喜びはしない。奪い返さなくては。
気付けば、体が動いていた。
眼前に迫る目玉泥棒の手首を掴み、へし折るつもりで思い切り捻ってやる。握った腕が不思議な程に軽く、抵抗なく捻り上げられた。苦しげに呻いて膝を突いた男の顔面を殴打する。骨が砕ける鈍い音と共に、男は吹っ飛んだ。
力が全身を巡っている。私は確信した。これは妖の、鬼の力だ。私の中にある鬼の血が、親友を傷付けられたことへの怒りで目覚め、このか弱い体に怪力を与えてくれている。
目玉泥棒を殴り飛ばした拳を見る。筋肉が盛り上がり、血管が浮き上がっている。か弱い乙女のそれとは違う、力強い拳。大切な人を守る力が、今の私にはある。
遠くで倒れている男を睨み付けた。鼻が折れたのか、マスクの下から血が垂れている。目の奥が怯えているのが分かる。良い気味だと思ったが、まだ足りない。もっと恐怖と痛みを与えて償わせ、そして葵の瞳を取り返すのだ。
地面を蹴り、距離を詰める。勢いそのままに顔を殴り、地面に叩き付けた。こちらに手を伸ばして抵抗する動きは鈍重で、容易く躱して馬乗りになった。
「葵から奪ったものを返しなさい。さもないと……」
「痛い目に遭うってか、さっきまでビクビクしてたガキが」
減らず口を叩く男の顔面に、再度拳を見舞った。既に鼻は潰れ、目も腫れ上がっていた。細くなった目からは、未だ反省の色が伺えない。視界を完全に潰すべく拳に力を込め、振り上げる。
降り下ろそうとした腕が止まる。誰かが、私の腕を掴んで止めていた。振り向くと、見知った顔と目が合った。矢印先生が肩で息をしながら、憐れむように私を見詰めている。
「もういい」
諭すように小さく呟いた。先生の声に、熱くなった体が冷えていき、力が抜ける。拳を向けられていた男は、既に白目を剥いて気を失っていた。
「先生、私……」
「何も言わなくていい。お前は新谷の所へ行ってやれ」
ようやく、全てが終わったことに気付いた。倒れる男を矢印先生に任せ、葵の元へと向かった。初めて妖の力を行使した反動か、体中が重い。重い足を引き摺るようにして辿り着き、蹲っている葵の肩に触れようとした。
「いや! 来ないで!」
葵に、触れようとした手を払われた。突然暗闇の世界に投げ出されたのだ、近付く全てが敵に思えるのも当然だ。
「私よ、葵。もう大丈夫だから」
落ち着かせようと、声を掛ける。
「違う!」
肩を震わせ、嗚咽交じりに葵が叫んだ。戸惑いながらも手を差し伸べようとすると、彼女は悲鳴をあげて体を丸めた。
「来ないで! バケモノ!」
文字通り、まるで化物に出くわしたように、葵は叫んだ。
彼女を救ったはずの掌を見た。血に塗れ、汚れた手。矢印先生の憐れむような視線の意味を、ようやく理解した。
私は、体に凶器を宿す危険な妖になってしまっていた。危険な妖は親友になどなれない。なってはいけない。私の存在そのものが葵を傷付けてしまう。
あぁ、と力ない声が漏れる。私は犯した罪を償う機会どころか、唯一の親友すら失ってしまった。
嗚咽を飲み込んで、その場から立ち去ることにした。そして、二度と葵の前に姿を見せないことを心に誓い、静かに涙を流した。
古屋叶のお話 詩希 彩 @arms_daydream
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