マグダラのマリア

青空ぷらす

マグダラのマリア

 正直私は美人ではないと思う。 

 髪はひどい癖毛で目も一重瞼。唇だって厚めだし、鼻の低さは親譲りだ。

 どこをとっても美人と言えるパーツが備わっているとは思えない。

 ただ、自慢じゃないけどスタイルはいいと思う。 数少ない友達も、「まりあはスタイルだけはいい」って言っていた。


 だからかも知れないけど、私は男に言い寄られることが多い。

 もちろん、男たちは私とつき合いたいとは思っていない。

 私とのセックスだけが目当てだってことは、言い寄られてる私が、一番良く解かってる。


 男たちにとって私は「手軽な女」なのだ。 


 それでも私は男達とセックスする。

 もちろんセックスは気持ち良いと思うけど、特別好きって訳じゃない。

 ただ、頼まれると断れないのだ。

 『一発やりたい』一心で、好きでもない女に擦り寄ってくる男達の姿は、どっか間が抜けていて、可愛く思えて、つい、オッケーしてしまう。


 中二の夏の初体験から、高校、短大、そしてOL三年目の今までにセックスした男二十三人、つき合った男ゼロ。


 そして…堕胎した子供は二人。


 こんな私だから当然、昔から女友達はゼロに等しいし、みんな私のことを影で『公衆便所』とか言ってバカにしていることも知っている。

 二人目の子供を堕胎したとき、さすがの私も『こんなバカはもう止めよう』と思ったけど、やっぱり誘われると断れない。

 だって、断った途端に私は、男たちにとってただの『使えない女』になってしまうから…。

 こんな私の名前が、あの『聖母マリア』と一緒なんてギャグにもならない。


 そんなことを考えてる私の上では、二十四人目の男が一心不乱に腰を振っているのだ。


「お前、本当にバカだな」

 友達の森田君が呆れたように言った。

 それは、森田君のいつもの口癖。

 私は、この一言を聞くと、『許されたような』気持ちになって、なんだかホッとする。

 私達の会話はいつも、この一言から始まる。

 森田君は一言で説明すると少女マンガに出てくる男の子みたいな人。

 成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗。

 いつも周りの人達をまとめるリーダー的存在で、明るくて男子にも女子にも人気があって、そのくせ人に媚びてるところもなくて嫌なことは嫌とはっきり口にする。

 成績最低、スポーツオンチ、容姿悪し。

 いつも人の和に溶け込めなくて、そのくせ頼まれれば嫌なことも断れない優柔不断な私とは正反対の彼と私が、何故、接点を持てたかと言えば、それは高校一年の春の出来事までさかのぼる。 


 高校一年の春、初めての子供を堕胎した次の日、やるせない気持ちを誰にも打ち明けられずに、体育館の裏で一人泣いてた私の後ろから、

「どうかしたのか?」

と不意に男の人の声が聞こえ、驚いて振り向くと、心配そうにたたずむ森田君がいた。

 当時、森田君は私にとって決して好きな存在ではなかった。

 私が居たい場所に当たり前のようにいる森田君に、私は嫉妬していたから。

 今にして思えばそれは憧れの裏返しだったんだと思う。

「なんでもない!」

 私は精一杯強がって、その場を離れようと立ち上がったが、涙は自力で止めることが出来

ず、後から後からこぼれ続けた。

「悪い、すぐいなくなるから」

 おそらく、始めてみる女の涙に動揺したのか、あわてて踵を返した森田君の困り果てたような後ろ姿に、私の中の何かがパチンと弾けて、私は大声で泣き崩れてしまった。

 森田君は子供のように泣き続ける私の横にしゃがむと、

「何かあったのか? 俺で良かったら話し聞くから、もう泣くなよ」

と、おろおろと声をかけてくれた。 

 私は生まれて始めて親以外からかけられた優しい言葉に、一人で胸の中に抱えこんでいた想いを、すべて吐き出した。 

「きっと軽蔑される」と思ったが、そんなことはどうでも良かった。

 どうせこれ以上評判は悪くなりようがない。

 それよりも今は、とにかく胸の中に溜まっている物を吐き出してしまいたかった。

 森田君は、何も言わず私の話を聞き、そして、同情するでもなく、軽蔑するでもなく、ただ呆れたように「お前、本当にバカだな」って言ってくれた。

 なんでもないその一言で、私はとってもホッとして、また泣いた。

 その日以来私達は、何かと話す機会が増え、元々ウマが合ったのか、私は森田君の友達の地位を得た。

 でも本当は、あの日からずっと森田君に恋してる。けれど、森田君にその

事は伝えていない。


 その日、私は二年ぶりに風邪を引いて寝込んでいた。 ひどい頭痛と吐き気で、なかなか寝つけなかった私が、薬のお陰でやっとウトウトしかけた時、遠慮がちに鳴るチャイムの音にたたき起こされてしまった。

 普段ならドアを開けるときは、その向こうに誰がいるか必ず確認するのに、熱にうかされ冷静な判断力を失っていた私は、確認もせずにドアを開けてしまった。

 扉の外には、見覚えのないオバサンが分厚い本を抱えて立っていた。

 『しまった!』と思ったときには後の祭りで、オバサンは堰を切ったよう

に自分の信仰する神様の素晴らしさを延々と語り続け、私を仲間に引き込もうとする。

 その押しつけがましい態度に、ただでさえ気分の悪い私は、かなり強い口調で「結構です!」と扉を閉めようとした。

 私の態度にオバサンは、一瞬、面食らったようだが、それでもめげずに「では、この本だけでも」と無理矢理、分厚いハードカバーの本を私に押しつけて、何度もお辞儀をしながら去っていった。

 黒っぽいカバーには、金文字で『聖書』と印刷されていた。 脱力感で鉛のように重くなった身体を引きずり一旦は蒲団の中に潜り込んだものの、すっかり目が冴えてしまった。

 仕方なく、読むともなしに一度は枕元に放り投げた聖書を手にとって、パラパラとページをめくっていた私の目に、『マグダラのマリア』という文字が飛び込んできた。

 内容は、マグダラに住むマリアという娼婦が、村の男達から吊るし上げを食らっている所をキリストに救われる。というような話だった。

 むさぼるようにページをめくりながら私はいつしか、マグダラのマリアを自分に置き換え、キリストと森田君を重ね合わせていた。

 クラス中から除け者にされていた自分に、他の娘と変わらず話しかけてくれて、今でも傷ついた私の心を癒してくれる森田君への気持ちは、正に信仰そのものだったから。


 街で偶然、美鈴を見かけたのは、それから三日後のことだった。

 美鈴は森田君の彼女で、背が小さくて、眼のクリッとしたストレートのロングヘアーの女の子で、いつもクラスの男の子たちの話題の中心だった。

 何人もの男の子が、彼女にアタックしては尽く玉砕していった。

 そんな彼女の御眼鏡に叶ったのは森田君で、高校二年の春、彼女のほうから告白したらしい。 

 彼女を狙っていた男の子たちも、相手が森田君では叶わないと思ったのか、嫉妬交じりではあったが、二人の交際を祝福していた。

 ただ、女の子はそうはいかない。 実際、森田君とつきあう前から、美鈴の女の子たちの間での評判は、決していいものとは言えなかった。

 「男と女の前では、態度が違う」という定番のものから、「一歩外に出れば、何でもしてくれるパパが何人もいる」とか、果ては「美鈴は、男のストックが二桁を超えていて、その日の洋服にあう男をコーディネートして出かけている」なんてものまで、無責任な噂話が飛び交っていて、クラスで浮いている私の耳にすら入ってくるほどだ。


 ただ、私は彼女達の噂話をあまり信じてはいなかった。彼女達の標的には私も入っていて、あることないこと言われているのは知っていたから。

 彼女達にとってまったく無害な私ですらそんな調子なのだから、彼女達よりワンランク上の可愛らしさを誇り、憧れの森田君を独り占めする栄光を手に入れた美鈴に対する陰口が日に日にエスカレートするのは、当前だと言える。

 女の子とは、元来そういう生き物なのだ。

 私だって『もしかしたら』という気持ちが、チラリと顔を覗かせることもあったが、森田君が美鈴のことを話す時の幸せそうな顔を見る度、そんな自分を恥ずかしく思った。

 だって美鈴は、あの森田君が選んだ女の子なのだから。

 その後、高校を卒業してからは美鈴に会うことはなかったが、久しぶりに見た美鈴は、少し大人っぽくはなっていたものの、その愛らしい容姿は相変わらず。

  

 ただ、美鈴の肩に手を回し、親しげに話しているのは森田君ではなく、茶髪の、いかにも頭の軽そうな男だった。

 森田君は今でも、幸せそうな顔で美鈴の話を聞かせてくれる。

 私の頭の中で、高校時代の噂話が、グルグルと猛スピードで回った。


 朝から降り続く冷たい小雨に、重たい気分で会社を出た私は、思わず目を疑った。 社員用の出入り口の前のガードレールに、傘もささずにびしょ濡れの森田君が、うつむいたまま腰掛けていたのだ。

「森田君?」

 思わず声を上げた私に目を向けた森田君は寂しげに微笑むと、ゆっくり立ち上がり、何も言わずに濡れた身体のまま私を抱きしめた。

 抱きしめると言うより、縋りつくという感じ。

「森田君?」

 もう一度声をかける私の肩口に回された森田君の腕に力がこもり、森田君と私の隙間が無くなる。

 森田君の肩は小刻みに震えていた。

 私が初めて出会ったもう一人の森田君。

 身体の自由を失った私は通り過ぎる同僚達の冷たい視線を背中に感じながら、そっと森田君の濡れた髪の毛を撫で続けた。 『神様、もう少しだけこのままで…』と願いながら…。


 森田君が少し落ち着くのを待って、私は自分のアパートに森田君を連れ帰り、シャワーを浴びさせ、濡れた服は乾燥機にぶち込んで、自分用のバスローブを用意した。

 その間、森田君は一言も喋らずに、私の指示に従った。 森田君がバスルームから出てきたのを確認した私は、冷蔵庫からキリンビールの五百ミリリットル缶二本を取り出しテーブルに置いた。

 森田君は、「ごめん…」と言ったきりまた口を閉ざしてしまった。 私達が無言のまま、ビールを三分の二程胃の中に入れたところで、やっと森田君が口を開いた。

「…美鈴に男がいたんだ…」

「え?」

 思わず、聞き返してしまう私。

「今日あいつの部屋に行ったら、知らない男とベットで……。驚いてる俺の顔見て、普通の調子で『私の今カレ』って紹介しやがって……。挙げ句に、『今取り込み中だからまた来て』だって」

 森田君の話を聞きながら私は、この間、街で見た美鈴のことを思い出していた。 あの後、何度か森田君と会ったが、その事を森田君には伝えなかった。

 美鈴が浮気をしているという確かな証拠があるわけじゃないし、そういうことを告げ口するような女だと、森田君に思われ、軽蔑されることが恐かったから。

 結果的に自分が森田君を傷つけてしまった様な罪悪感に、私は顔を上げることが出来なかった。


「それで…気がついたらお前の会社の前にいたんだ」

「え?」

 思わず顔を上げた私と森田君の視線がバッチリと合ってしまった。 首から上に身体中の血液が集まるのを感じながら、『勘違いしちゃ駄目』と何度も自分に言い聞かせる。

「ビ、ビールまだ飲むでしょ」

頭がパニックになった私は、訳の解からないことを口走りながら、その場から離れようと立ち上がる。 その私の腕を掴むと、森田君は力任せに私を引っ張った。

 その勢いでバランスを崩した私は、森田君の膝の上に倒れ込んでしまった。 目の前五十センチで森田君の瞳が、私を見つめている。

 私は森田君の瞳から目が離せない。

「…イヤか?」

 縋るような瞳で問いかけてくる森田君。

「イヤ…じゃない」

 初恋の人とのセックスは、今まで経験したどんなセックスより気持ちよくて、私は我を忘れて森田君にしがみついた。

 『この幸せがいつまでも続きますように』心の中で、神様に不謹慎なお願いしながら、その日、私は何度も、てっぺんまで上り詰めた。


「ヤバ…」

 陽性の模様が浮き出した妊娠判定薬を見ながら、私は思わず呟いた。 あの日から四カ月、森田君との関係はあまり変化を見せていない。

 二人で会って食事をしたり、たわいもないお喋りをしたり。

 今までと違うのは、私が他の男とのセックスを一切止めたこと、それと、たまに森田君とセックスすること。

 森田君はゴムを着けない。いわいる『外出し派』だ。

 ヤバいなあと思いながら、それでも森田君が喜んでくれるならと、私は何も言わなかった。

 そして私は妊娠したらしい。

 今まで私に子種を植えつけた男は、二人とも「堕胎してくれ」の一点張りだった。

 二番目の男に至っては、その場で土下座までしてみせたのだ。

 二人目の子供を堕胎したとき、お医者さんは「次、堕胎したら二度と妊娠できなくなるから」と吐き捨てるように言った。

 その過去が私を不安にさせる。

 でも、森田君なら…私が好きになった森田君なら、きっと産めって言ってくれる。

 そして、この子のお父さんになってくれる。

 何度も何度も、そう自分に言い聞かせながら、私は森田君の携帯の番号を押した。


「私、妊娠したみたい」

 近くの喫茶店のボックス席で、ウエイトレスが運んできたアイスコーヒーに浮かぶ氷を見つめたまま、私は、そう切り出した。

 何も知らず上機嫌に話していた森田君の表情が一気に氷ついたのが、空気で解かった。

 しばしの沈黙の後、森田君が口を開いた。


「それ、本当に俺の子?」


 次の瞬間、私の右の拳はフルスイングで森田君の左の頬にヒット。

 その、あまりの威力に森田君は椅子から転げ落ち、目を白黒させる。

 私はそのまま踵を返し、呆然とする森田君と店員を後に店を出た。

 感覚を取り戻した拳はまるで、心臓が入っているみたいにズキンズキンと痛みを訴えて続けた。


 それから一週間後、私は三人目の子供を堕胎した。

 『もしかしたら…』と淡い期待を胸に、森田君からの連絡を待ってみたが、彼からは結局、電話の一本さえ入ることはなかった。

 私は簡単な荷物と、なぜか宗教のオバサンのくれた聖書を小さなリュックに詰めて、一人病院に向かった。

 お医者さんからは、「本当にいいんですね」と三回も念を押されたが、私は三回と

も「はい」と答えた。

 お医者さんは、大きな溜め息を一つ吐くと看護婦に、「すぐに準備して」と告げた。


 その日、一応様子見で入院した私は、夜中に急に目が覚めた。

 喉がカラカラに乾いている。

 乾いた喉を潤す為、小銭と聖書を手に、麻酔の抜け切っていない重い身体を引きずりながら自販機に向かって、暗く長い廊下を歩く。

 冷たい缶コーヒーを買って、自販機横に設置されたロビーの長椅子にどっかりと座ると、プルトップを開けて喉を鳴らして缶の半分ぐらいのコーヒーを一気に飲み下した。

 消灯時間を過ぎた病院のロビーは、ヒッソリとしていて物音一つ聞こえない。

 その静けさが、まるで世界中に私一人しかいないような錯覚を起こさせる。

 静寂の中、非常灯の薄明りを頼りに聖書をめくり、『マグダラのマリア』のところを、もう一度開いてみた。

イエス・キリストはマリアを責めたてる村の男達に向かって、「お前達の中で、今まで一度も罪を犯した事のない者のみ、この女を棒で打ち据えるがいい」

と言い放ち、男たちは皆黙ってしまう。

 でも、それはキリストが罪を犯した事がないから言えた台詞だ。

 もしもキリストがマリアとセックスしていたら? もしもマリアがキリストの子を身籠もっていたら?

 キリストは同じ言葉を言えただろうか。

 少なくとも、私のキリストだと勝手に思っていた男は、神の子でもなんでもないただの男で、自分の子の誕生を喜ぶことはなかった。

 でもそれは森田君だけのせいじゃない。

 バカな私は自分の中で勝手に作り上げた森田君の着ぐるみを着せてその中にいる本当の森田君を見ようとはしなかったんだから。


 私は聖書をごみ箱に投げ捨てると、ククッと喉の奥で笑った。

 その笑いはキリストでも、村の男でも、森田君に向けたものでもない。

 ただ、自分の愚かしさが可笑しかった。そして今、神様から罰を受けて初めて、愚かしさに気づいた自分が可笑しかった。

 不意に、廊下の向こうが慌ただしくなった。

 どうやらお産真近の妊婦が運び込まれてきたらしい。

 ガラガラと慌ただしく運ばれるストレッチャーの車輪の音と一緒に、妊婦の苦しげな声と、彼女を励ます家族や看護婦の声が聞こえ、それが次第に小さくなり、やがて静寂が戻ってきた。


 ポトリと私の手の甲に一滴の水が落ちる。

 二滴、三滴

 やがて、私の涙は止め処もなく流れ落ち、目の前のコーヒーの缶が揺らいで見えなくなる。

「うわあああああん!」

 私は久しぶりに、声をあげて泣いた。誰もいない病院のロビーで、子供みたいに大声を上げて泣いた。


おわり


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