第三話

 その日は何の前触れもなく訪れた。


「私は、いつ、帰れるのでしょうか」

 氷を飲まされたような気分とはこのことを言うのだろう。腹の奥が冷たくなって、喉元に何かが込み上げてくる。直前まで何の話をしていたのだったか――確か、花の話をしていたはずだ。五日と経たず萎れ枯れていく花を、いかしにて美しく保つか――押し花であるとかドライフラワーであるとか、そういう話をしていたはずだ。どこからどういう連想が働いたのか、傍目にはさっぱりわからない。

「ごめんなさい、良くして頂いてるのはわかっているんです。ここでの暮らしが不満なわけではありません。ただ、……体調を崩していたおばあちゃんがいて、一時的にでも良いんです、顔を見に行けたらって」

 窓から差し込む強い光を背にして、レイの表情はよく見えない。声から察することはできるが、見えないということが不快を掻き立てた。

「それに、もしよければ、先生に診ていただけないかって」

「手遅れだ」

「え? 先生、ご存知なんですか?」

「知らない。お前が誰のことを言っているのかも、そいつの病状も知らない。だが手遅れだということは確かだ」

「じゃあ、どうして」

 陽の光が自白を迫る。積み重ねた欺瞞に意味はなく、すべては白日のもとに晒される。喉の奥がひどく痛んで、笑みが漏れた。

「お前がここに来て十年が経つ」

「……え?」

「治療に十年かかった」

「……じゅう、ねん?」

 レイの表情は相変わらず見えない。それでも正視に耐えかねて目を逸らす。

「治療が長引いてひどく苦しませた。命だけは助けたが、その他のすべてを奪い取る結果になった。――恨んでいい。憎んでもいい。謝って許されることだとも思っていない。返してやれるものも、感謝される謂れも無い」


 とはいえ、室内には十年の歳月を示すようなものはない。だから信じられなかったのだろう。この翌日、事もあろうにこの女は一人で山を降りる。あれだけ不安定になったレイを残していつも通りに仕事をしていた俺も俺だ。


 衝撃が山を揺すって、驚いた動物たちが一斉に動き始める。

「レイ?」

 何故そう思ったのかはわからない。慌てて駆け戻った小屋は蛻の殻だった。皮膚が泡立つ焦燥と危惧、それから嘔吐しそうなほどの強烈な後悔が身を焼く。村を見に戻ったのだろうというもとは想像に難くなかった。――なのに想定していなかった。

 かつてレイが住んでいたその村の場所は知らない。だが、明らかに空気の流れがおかしい。悲嘆、憎悪、恐怖、禍々しいものが一箇所に流れ込んでいる。魔物は引き寄せられるようにその中心へ、その他の動物は逃げるように真逆へと駆けている。あの中心に、何かがいる。

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