第二話
腑腐れは病変したタンパク質の摂取による伝達性の内臓疾患だった。原因となったタンパク質がどこから入ったのか、潜伏期間はどれほどか、などの情報は得られなかった。修道女になる前の女の食事および生活環境は劣悪で、その中から原因を探し出せというのも無理な話だ。無論、そんなことはわからなくても治せるが。
興味本位で治してみたはいいものの、ここからどうするか、何ができるかは特に考えていなかった。この病の原因と治療の手順を共有できればそれは誰かの命を救うだろうが、なにしろ取った手段が良くない。正直に説明して非難されたくはないし、まともに研究している魔導の連中も非難されたくはないだろう。つまり、人体実験無しにこの病が解明された偽のストーリーを誰かがでっち上げなくてはならない。患者本人に同意とをったことにできれば一番楽だが――
ちらと視線をやった先で、思いがけず目が合った。女は半ば反射のような速度で顔を笑みの形にする。
「先生? どうかなさいました?」
「いや、……珍しい症例だったから、報告書を書くのに手間取ってる」
「お茶でも淹れましょうか」
女は腰を上げ、火を焚く。おとなしくしていろと再三言い含めているにも関わらず、落ち着かないからとか簡単な作業だからと言っては掃除だの炊事だのをしている。存外我が強いらしい。最近は諭すことも半ば諦めている。
「どうぞ。熱いのでお気をつけて」
「……ありがとう」
なぜ説明が憚られるのかがよくわからなかった。実際の苦痛を覚えていないのだから、説明したとて反発されるとも思えなかった。第一、この女は他人のためならまだしも、自分のために怒るということをしたことがない。口裏を合わせてほしいと頼めば、軽々に合わせてくれそうな気もする。そのうえ女には病にかかった記憶がない。治療する前に同意を得たのだと言えばそれだけで信用するだろう。
一番簡単な道筋が見えているのに、どうしてかまだ考え続けていた。他に手段がないか、どうにかして説明を避けられないか。何故かはわからないが、よほど気が進まないらしい。
「気が進まない」という不合理のために二の足を踏んでいる自分も、奇妙といえば奇妙だ。多かれ少なかれ後ろめたいのは自覚しているものの、既に過ぎたことを今更話そうが話すまいが事実は変わらない。筆を置いて顔を上げてみると、窓の近くで女が祈りを捧げていた。
女には祈りの習慣があった。陽の方向を向いて膝を付き、指を組み合わせて呪言を唱える。目を覚まして何日かしたころ、おずおずと言いにくそうに許可を求めてきたのがそれだった。掃除や炊事に比べて動き回るわけでもないだろうに、基準がよくわからない。陽に傅く背中を見ていると舌打ちしそうになる。
馬鹿な女だ。
神がいるというのなら、なぜその神はお前を愛さない?
散々裏切られ踏みつけられておきながら、お前はなぜ信仰を手放さない?
お前が縋っているのは激流に翻弄される藁ですらなく、ただ幻に過ぎないのではないか?
――結局、それらを問い糾すことはしなかった。裏切られ踏みつけられた認識など当人にはない。
手招きされるがまま、見よう見まねで膝をついた。吐きたいのが感謝か呪詛かもわからないまま、口先ばかりの呪言を紡ぐ。願わくばと口にしてから言葉に詰まり、笑われた。この女はよく笑う。
「馬鹿だと思うか」
「いいえ、欲のない方だと」
女はなおも笑ったまま、そう答えた。それが無性に腹立たしい。
「欲のない生き物などいるはずがないだろう?」
「ええ、もちろん。けれど、それを神に委ねるか否かは別のお話です。魔術師の方は祈らない方も多いと聞きました。それだけご自分のお仕事に誇りをお持ちなのでしょう。素晴らしいことです」
よくもこう、べらべらと口が回る。素でやっているのだとしたら呆れを通り越して尊敬すらしてしまいそうだ。
「信心が足りないと文句でもつけられると思ったんだが」
「いいえ。それこそ罰当たりです」
「まさかこんな山の中で、患者から説法を受けるとはな」言ってしまってから、さすがに口が過ぎたと思い直して「贅沢だ」と言い添えた。「……もっと聞かせてくれるか。まだ勘違いがありそうだ」
女はパッと顔を輝かせ、「もちろん、私にできることならば、いくらでもお話します」と微笑んだ。
それからレイはよく話すようになった。神について、恩寵について、祈りについて、協会について。
レイの話し方は、ある意味では魔術師の話し方に近かった。主観というものがろくろく備わっていないせいだろう。記憶はすべて知識とのみ結びつき、己の感情というものが介在しない。説法として聞いている限りは目立つものでもないが、ときどき薄ら寒くなる。無我は修道女としては好ましい性質だろうが、人格としてはあまりにも歪んでいる。
だから、「いつもどちらにお出かけになっているんですか?」と問われたときには少なからず驚いた。人の顔色を伺う以外のことで何かに興味を持つということが意外だったせいだ。
訊かれたのは仕事のことだ。毎日ひとりでどこかへ出かけていくのを不審がったのだろう。少し考えて、「ついてくるか」と問い返した。
「いいんですか?」
「多少歩くが、見えないところで動き回られるよりマシだ」
言うと、レイは笑顔のまま目線を大きく逸した。日々の説教も効いていないわけではないらしい。
とはいえ、ここが忌みの山だということすらまだ説明していないのだから、棄てられている死体をレイに見られるのはあまり好ましくない。麓の近くまで降りると死体を見つける可能性が上がるから、頂上付近だけをぐるりと一周する。季節柄たいして落ち葉が積もるでもなく、仕事は多くない。ここ十数年でまた数えきれないほどの死体を処分した。以前と違うのは、その死体を読まなくなったことだ。
「こんなに素敵な場所があるんですね」
レイは完全に物見遊山の気分できょろきょろとあたりを見回し、花が咲いているだの小動物がいるだの、何もなくとも雑草の緑が美しいとか木々の葉擦れの音が好ましいとか、そのようなことをずっと喋っていた。外に出られないストレスが溜まっていたのだろう。対策は考えた方がいいのかもしれない。
山の頂上にある大樹を見て、レイはひときわ嬉しそうに歓声を上げた。木を見上げたり、根本の草花を眺めたりと忙しそうに視線を回す。レイをその場に置いて、一人で木の周辺を見て回った。考えたいことがあった。
レイの話す「恩寵」や「祈り」「神」、その他の宗教的な物事は、詳しく聞いてみればほとんどは魔導と大差無かった。要は神秘的に言い換えただけの、ただの現実だ。物は言いようというか、考えてみれば人々の生活から乖離しすぎた宗教に価値はなく、見方を変えればそれで済むような問題もあるということだろう。大なり小なり詐欺らしくも見えるが、ポジティブな結果だけを得られるならば詐欺とまで言わなくてもいいのかもしれない。
恩寵、光、希望。あるいは温度。天から降り注ぐ光に因果はなく、魔術師に言わせれば「前提」、修道士に言わせれば「恩寵」としてそこにある。陽の光は動植物に力を与え、あるいは魔力に変換される。力は誰かのために降り注ぐのではなく、この地に平等に注がれている。理屈を求めるのが魔術師ならば、理由を求めるのが修道士だ。そこに「赦す」だの「与える」だのと擬似的な人格を見出すのは理解しにくいが、アプローチが違うだけで同じものを見ているのかもしれない。光や熱がどうしてそこにあるか――など、そんな非生産的なことは考えたことも無かったが、その非生産的なことが救いになっていた連中もいる。
それで修道士に何の得があるかはわからないが、魔導の連中も似たようなものだ。魔導の求めるものが知識ならば、それに並ぶような何かを修道士も得ているのだろう。それが何なのかは、おそらくレイを介しては理解できないだろうが。
忌みの山は基本的に、草木が生い茂っていて光があまり届かない。だが、この大樹の根本だけは別だ。この木の周囲に別の木は生えない。周囲の殆どの養分をこの木が吸ってしまうせいだ。それで、この木の根元には光が溜まる。木の枝から落ちた白い花びらがそれを反射して、暗がりから出たときには目が痛いほどだった。
そのひだまりの中にレイがいた。白くまばゆい光の中で微笑んでいる姿を見て、しばし立ち竦む。
「どうかされましたか?」
「……そんなに摘んでどうするつもりなんだ?」
レイが腕に抱えているのは、自身の呼び名の元になった花だった。レイは「なんだか愛着が湧いてしまって」と悪びれずに笑う。
「帰ったらこの花でお茶でも淹れましょうか」
「花でか?」
「ええ、とてもいい香りがするんですよ」
その後レイが入れた茶は、率直に雑草を煎じた味がした。「いかがです?」と得意げに訊かれて、そのまま「雑草を煎じた味がする」と答えてやる。
「だがまあ、香りは悪くない。作り方くらいは書き留めよう」
「水で洗って軽く揉んで、お湯で蒸らすんです。今日歩いた道にも、同じようにお茶にできる花がたくさんありましたよ」
「花には疎くてな……見た目のいい雑草としか思ってなかったんだが」
「ふふ」
その時、なぜだかレイは笑った。何故笑ったのかは、訊いても答えてはくれなかった。
それから時々、散歩と称してレイと一緒に山中を歩き回るようになった。もちろん、本当の仕事のことは話していない。おそらくは山の環境を守る仕事とでも思われていることだろう。
何故そんなことをしたかといえば、おそらくはただこの山の美しさを誰かに知っていてほしかったのだろうと思う。いちいち想像と寸分違わぬ反応を返すレイと一緒に歩くのは、存外、楽しかった。レイは出かける度に花を摘んでは茶を淹れ、栞を作り、あるいは香り袋にしてみせた。
殺風景だった小屋の中は、少しずつ花に侵食されて森の一部のようになっていた。以前はどうだったのかすら思い出せないほど、今は花の香りに満ちている。以前ならば栞も香り袋も貰い手がいたのだろうが、今はただこの部屋に溜まっていくだけだ。それを哀れと思わないわけでもない。
一方、病についての連絡は難航していた。当然だ、魔導を学んでいたのは遠い昔のことで、元々無いに等しかった伝手がほとんど完全に消え去っていた。この山に住むようになってから時間の感覚はほぼ不要だった上、レイを治すために十年かそこらを費やしている。当時の知人がどれだけ生き残っているかも知りようがない。まして、その記憶に残っているかどうかなど。
首都に出向けば宮廷魔術師は確実にいるが、そちらはそちらでリスクが高い。魔導の研究に没頭する連中は人倫を欠いたようなのも多いし、そちらに知らせれば受け取ってもらえる目がないでもないが、宮廷魔術師なんかに今回のことを暴露すれば、最悪の場合で幽閉もありうる。
知らせる必要もないと言ってしまえばそれまでだ。それでも手を考え続けるのは、半ば復讐心に近いのだろう。もっと早く解明されていれば死なずに済んだ、あるいは苦しまずに済んだ人々の復讐。
――いや、本当はそれですら、説明しきれない。自分でもこの執着の原因はわからないというのが正直なところだ。
「先生はお優しい方ですから」
レイが微笑む。ここまで来ると馬鹿の一つ覚えだ。何を聞いていたのかとすら思う。
「『面倒でやりたくない』という話をしていたはずだが」
「それでも腐心していらっしゃるのでしょう?」
「そもそも人に優しくした覚えなんて無い」
「誰かを救おうとなさっているんですもの、優しくないはずがありません」
「なるほど体のいい自画自賛か」
「え?」
「修道士だって『誰かを救おうとする』ものだろう。違うか?」
「……それは、……そう、ですが……?」
そこまでを言って、レイは首を傾げたまま固まってしまった。無理からぬことだ、何しろレイは想像力ではなく理屈と反射で動いている。入力と出力は同じでも、そこに至るまでのロジックがまるで空なのだ。「優しい」のではなく「優しさの形式を丸暗記している」だけの状態。それは確かに優しさからは程遠い。言い包めるつもりなど毛頭なかったが、つい口を滑らせてしまった。
「指針のない評価軸を濫用するからそういうことになるんだ。ただ『嬉しい』だの『気が楽になった』だの言っていればいいものを、他人の性質に託けるのが悪い」
「それでも、私は、先生を優しい方だと感じます」
「それは単なる期待だな。好ましい行動の原因を好ましい感情に求めるのは自然なことだが、現実的ではない」
レイは不満げに眉をしかめ、しばらく口元をもごもごと動かしていたと思ったら、「……外に連れて行っていただいて、とても嬉しかった、です」とつぶやいた。必死で言語化したのだろう、まるで言葉を覚えたての幼児だ。
「そうか。俺も、この山を美しいと褒めてもらうのは嬉しかった」
「……やっぱり優しいじゃないですか」
「心外だ」
「先生は頑固が過ぎます!」
珍しく声を荒げたレイに、つい失笑を漏らす。
「生憎そういう性質でな。俺に善意を期待するな」
そう、まったくもって善意などではない。強いて言えば興味だ。面白そうなものが落ちていたから拾った、ただそれだけのこと。とはいえ、光や熱にまで擬似的な人格を見出して感謝しているような連中だから、解釈としては無理もない。あまり否定してやるのも酷かもしれないが、一方、感謝などされても困る。なにしろこちらには人格があり、本来の理由というものがある。それなりの罪悪感も、無いではない。
だからせめて、レイに生きる場所を用意したかった。忌み返りだということを知られず、ただ一人の女として、当たり前の幸福を享受できる場所を探してやりたかった。しかし、それももちろん難航していた。いよいよ本人にすべて話すしか無いのは薄々わかっていたが、どうにも気乗りしなかった。いっそのこと、今からでも生い立ちを含めすべての記憶を消した方が扱いは楽かもしれない。それでいいのかどうかは、わからないが。
腑腐れの記憶は当人には既に無い。あの時、同じようにすべての記憶を消してしまうべきだったのではないかと時々考える。
とある夜中、揺り起こされて目を覚ます。体を起こすと、暗がりにレイの顔が見えた。
「ごめんなさい、魘されていたので」
「……いや、ありがとう」
額に手をやると、べっとりと汗をかいていた。そのせいか、体中に寒気がする。指がひどく冷えて震えていた。
「何か、悪い夢でも見たんですか?」
「昔の患者の夢だ」真実をそのままに答えたのは、単に魔が差したのだろう。あるいは懺悔というものをしてみたくなったのかもしれない。「治療が長引いて、ひどく苦しませた。悲鳴が耳に残ってる」
「その方は、助かったんですか」
「……命だけは」
「ならばきっと、感謝なさっていますよ。治療が長引くということは重篤な病だったのでしょう? ならばなおのこと、ご自身を責める必要はありません」
レイは淀みなく慰めを述べる。その表情や声音に嘘はなく、触れた掌からも欺瞞の匂いはしない。レイの両手に包み込まれた左手が、その指先から温まっていく。
「大丈夫。あなたは素晴らしいことをなさったのです」
「……少し、散歩をしてくる」
「お一人でですか」
「ああ。起こしてすまなかった。すぐに戻る」
なにか言いたげなレイを残して小屋を出る。涼やかな風が汗を乾かし、気を落ち着けてくれた。
病に苦しみ悲鳴を上げていたのが自分だと、レイは知らない。皮膚に爪を立てれば腐った皮膚かあるいは爪の方がずるりと剥がれて落ちた。胸の奥が焼かれるように痛み、呼吸すらできない。恨んでも呪っても悔いても謝っても終わらない地獄の苦しみ。治療のために触れる度に読んでは嘔吐した。治療に失敗して中途半端に回復させる度に湧き上がるかすかな希望と果てしない絶望。
あんなものを十年負わせた。許されようとも思わない。
読んだからといってレイの苦痛が目減りするわけでもなかったが、それでも読まずにいられなかった。
明るい夜だった。夜の帳にぽっかりと穴が空き、そこから光がこぼれ落ちてきている。かつての修道女が「神は私たちを見守ってくださる」と言ったのを思い出す。天蓋の覗き穴だ。
自分ではもうどうにもできない。奪い取った時間も、負わせた苦しみも、いまさら撤回は効かない。
気がつけば蹲っていた。見よう見まねで指を組み合わせ、目を閉じる。
「……願わくば」
口にしてから自嘲が漏れた。
虫のいい話だ。許されるわけがない。
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