花の名
豆崎豆太
第一話
忌みの山というのはその名の通り、忌まれる山だ。
「神の御下へ還る」という美辞麗句の元、死はここに遺棄される。
おそらく、元々は感染症の拡大を防ぐための風習だったのだろう。医療技術もろくろく確立されていない、太古の昔の習慣が、今になっても残っている。
感染症に罹った人間を隔離する。それはわかる。死体が腐れば別の感染症の原因にもなる。だからこの山に捨てる。それもわかる。だが、数百年前に正しかったことが今まだ正しいかと言えば別の話だ。精々まで好意的に言ったとして「時代錯誤」、思考停止した馬鹿につける薬は無い。
しかしこの山は美しくなくてはならない。なにしろ表向きは神聖な山で、神の領域の一部だ。正確には神と人の領域が重なる部分になるのだが、まあ細かいことはいい。だから美しくなくてはならない。もちろん、死体などあってはならない。
だからここには小屋があり、人がいる。死体を片付けるのが山守の役割だ。あるいは捨てられたものが生きているのなら死体にして、片付ける。「助けて」と訴えられることも無いではないが、助ける手段はない。よしんば命が助かったとして、忌み返りは禁忌だ。どのみち生きていくすべはない。
それでも一度、気まぐれにその「死体未満」を治したことがある。別の死体を材料に損傷した箇所を修復し、回復魔法をかけた。死体未満だった子供は大喜びで山を駆け下り、元の村へと戻っていった。それが正真正銘の死体になってこの山に戻ってくるまで半日。忌み返りが禁忌だというのは知っていたが、焼き殺されるというのはその時初めて知った。
山を見て回り、死体があれば穴を掘って埋め、積もり過ぎた落ち葉や木の枝もまとめて片付ける。道を均し、芝を刈って過ごす。神聖であることと忌み嫌われることは対極ではなく、ほとんど同じことだ。人々はこの山を遠ざけ、崇めて暮らす。ここにある生命は誰にも見えない。虫や小動物が無数にいるにもかかわらず、だ。
ちょっとした魔物なんかもいるにはいるが、この辺りにいるのは草木や死体を食って暮らす、小動物と大差ないものだ。刺激しない限りは攻撃もしてこない。――ときどき、奴らを刺激したらしい死体未満が生きながら食われていることはあるが。どちらにせよ、人間よりは愛嬌がある。
ここはただの山だ。草木があり、花が咲き、虫や小動物が這い回る、ごく普通の。
人の世から隔絶された山には、情報を得る手段は無い。しかしかつては魔術の学徒だったこともあり、個人としては特に困っていなかった。人間の体に手をやれば――それがたとえ死体であっても――そいつが持っていた情報を読むことができる。それがどこの街の誰で、どういう経緯でここにいるのか、この山の外で何が起きたのか、国や世の趨勢――もちろん本人の解釈が含まれるので正確ではないが――まで。興味があるわけでもなかったが、脳が情報と刺激を欲していた。死体を読むことは、あの山で唯一の娯楽だった。そしてそれ以外に娯楽のないことをこそ良しとしていた。
とある頃、とある街に女が現れた。女は教会に暮らす修道女だった。女は微笑み、祈りを捧げ、教えを与える。修道服の影に修道女ならざる色香を持つ女は、男がどれだけ褒めそやしても誰にもなびかない。それまであまり良い印象を持たれていなかった教会は、女が現れるようになって以降、急速に求心力を高めた。足繁く通い、教えに耳を傾ける者も増えた。そうして実際に救われたと涙する者もいた。そんなものが街にあるのが可笑しかった。死にかけた家族を平気で捨てる奴らにそんな殊勝な信仰心があることも面白かった。
物事には因果がある、というのは魔導の教えだ。一方、神はその因果を「赦す」という形で断ち切る。まったく相容れる存在ではない。双方から都合のいい部分だけを享受して平気で胡座をかく連中だ、まず自分の脳を疑った方がいい。祈れば赦されるなんていう傲慢を反省した方がいい。
同じ街から来る死体未満たちは、みな一様に修道女についての記憶を持っていた。女は彼らに笑みかけ、彼らの手を取り、諭し、諌め、祈る。「神の御下で家族に再会し、永遠の安寧を得る」と吹聴しているのを聞いたときは呆れた。棄てておいて再開を願うとはずいぶん都合のいい頭だ。
耳触りの良いことを言ってくれる存在というのは、確かに救いなんだろう。あまりにも浅ましい、愚かな救い。そしてそれを吹聴する連中は聖職者などではなく、馬鹿か詐欺師だ。
女がこの山に捨てられたのは、それから一年か二年が経った頃だった。
理論上治せないものではないといつか聞いた覚えがあるが、それを裏付けるには至っていなかったはずだ。裏付けを取るには時間が無さすぎる。例えば陣を敷き、その中で時間を止めて作業できれば、そうして病の原因を特定できれば、命を救える可能性がある。腑腐れが治る病になる。その手法が良しとされなかったのは、倫理に悖るからだ。命より大事な――正確に言えば他人の命より大事な――倫理が誰かにはあり、その誰かのためにこのような病で人が死ぬ。魔導を学んで最も厭だったのがそれだ。技術や知識、手を尽くすことを許さない誰かが常に喚き立てていること。
女は苦しみに悶え、己の皮膚に爪を立てては泥を吐いた。泥に気道を塞がれ、既に命乞いすらできないような状態だった。痙攣と嘔吐、それから苦痛を紛らわすための自傷行為。地面に何度も打ち付けた額は、皮膚が裂けて血みどろになっていた。かつての面影はもうどこにもなかった。
訊いてみたいことがあった。たとえば、神は赦してくれなかったのかと。
何しろ女には人に大切にされた記憶がまったくなかった。尤も、当人はそう思っていなかったようだが。聖職者連中は馬鹿か詐欺師だと思っていたが、この女に関してはどうやら見下げ果てた馬鹿だ。侮蔑を通り越して哀れみすら覚える。なにしろこんな風になって、この山に捨てられてなお、一欠片の恨みすら読み取れない。あるいは、神の赦しがどうとか恨みや憎しみに思考を回すほどの余裕も無いのだろうが。なにしろ読んだだけでも嘔吐するほどの苦痛だ。たとえばこの女がこの病を克服したとき、胸中に芽生えるのは喜びか憎悪か、あるいは絶望か。
それで結局、殺しもせず小屋に持ち帰った。
そういう場所だから神聖視されたのか、あるいは忌みの山として使われるうちにそう変質したのかは知らないが、この山には魔力が潤沢に蓄えられていた。山頂の巨大な樹を中心に、根のように魔脈が広がっている。その魔力を吸い上げて利用するための陣さえ書いてしまえば、魔力量の心配をする必要はなかった。小屋の中だけでも十分そうだったが、念の為、外にもいくらか陣を書いた。広範囲から拾い集められればその分だけ魔力量にも余裕が出る。陣を敷いて時間を止め、情報を集めて治療を行い、それから記憶を消した。女がこの山に捨てられてから、十年が経っていた。本来十日程度で済むはずだった死の苦痛を十年まで引き伸ばしたことに対する罪悪感くらいは、まだ持ち合わせていた。
女が目を開いたときの高揚を、言葉なんかでどう表せば良いのだろう。それよりも前、悲鳴を上げず暴れず泥も吐かず、ただ寝息を立てるだけになったときの気分も同じだった。あの暗い歓喜を正しく指し示す言葉は存在しないのかもしれない。
女は身を起こし、辺りをきょろきょろと見回す。自分のいる場所がどこだかわからずに混乱しているようだ。こちらの姿を認めると少し驚いて、警戒とも怯えともつかない表情を示した。
「目が覚めたか」
声を掛けると、女は少し咳払いをした。喉に違和感が残っていたようだ。
「……あの、ここは?」
当然の疑問だった。当然の疑問だったにも関わらず、その回答を準備していなかった。内心の焦燥を気取られないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「病院だと言うのが一番近い」少なくとも女にとっては。
「では、あなたはお医者様なんですね」
「似たようなものだ」同じく、女にとっては。
「私はどうしてここに?」
「ひどい病にかかって、運び込まれてきたんだ」
「病……そのような覚えは、無いのですが」
「治療のためにしばらく眠らせた。そのせいで記憶が混乱しているんだろう。そのうち戻る」
「そうなのですね。ありがとうございます」
礼を言われる筋合いは無い。後半は明確に嘘だ。女はここに運び込まれてなどいないし、記憶が戻ることも無い。
「名前は」
「……名前、ですか?」
「誰も知らないようで少し困っていたんだ。カルテのこともある」
問うと、女は「名前……」とつぶやいたきり、呆けたように動かなくなった。こちらはある程度想定していた事態だ。何しろ女に名前はない。誰一人、女に名をつけて呼んだ人間はいなかった。女を指していたのはいつも指示語、あるいは番号、代名詞だ。無いとわかっていてわざわざ訊ねたのは、単に訊かねば整合性が取れないと思ったためだった。
少し前に小屋の近くで毟ってきた花を示し、「これの名前がわかるか」と問うと、女はぱっと顔を上げて花を注視した。
「その花なら――確か、レイという花です」
「じゃあそれでいい。レイ」
「え?」
「暫定的にそう呼ぶ」
「でも、……こんな綺麗な花と同じ名前だなんて」
「名前なんて対象がわかれば十分だ」
もちろん、カルテなどというものは無い。患者を示す語として名前が必要になることは無いではないだろうが、それだって本当の名前である必要はない。なにしろ施術者すら正規の医者ではないのだから。
「痛みもしくは違和感のある箇所はあるか」
「いえ、特に。いつもより体調がよいくらいで」
「何よりだ。しかし一応は病み上がりだ、あまり動き回らず養生していろ」
「はい」
女は四角四面の面持ちを作ってそう答えた。
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