1947年9月、大満州帝国・新京
今日は、母機である〝剣山〟からの切り離しの最終調整だ。
すでに何度となく切り離し試験を行っているが、音速突破を予定している高度10,000mでの挑戦は初めてだ。
2号機の〝桜花〟が、〝剣山〟の腹の下に備え付けられている。
すでに高々度であるために、母機から〝桜花〟へ移動するには、携帯型の酸素ボンベが必要になる。爆弾倉は与圧されていないためだ。
与圧された
「ありがとうございます!」
葛葉大尉は、酸素マスクを付けたままであったが、目一杯の大声で整備班に挨拶した。
〝剣山〟の三菱ハ214-ル・エンジン音が響き渡るこの爆弾倉で、聞こえているかどうか判らないが、相手は何度となくうなずいて見せた。
整備班は過酷な環境の中、〝桜花〟の整備をしてくれたおかげで、ジェットエンジンは、すでに動いている。
あとは葛葉大尉が、乗り込むだけだ。
彼は乗り込むと、酸素ボンベのケーブルを〝桜花〟のに変える。風防を閉め、母機との無線電話の接続を確認した。
問題は無いようだ。
見上げると、爆弾倉内には機体の切り離しを知らせる、ライトがついていた。
今は、赤色が点灯している。
『
それぞれ日本神話から取った暗号名だ。〝剣山〟は天若日子。〝桜花〟は天羽々矢になる。
「天羽々矢。準備よろし」
『天若日子。了解した』
赤色のライトが、点灯から点滅に変わった。切り離しまで、1分間、点滅する。
そして、青色のライトが点灯すると、切り離される。
『天若日子より、天羽々矢へ。健闘を祈る』
見上げるライトが青色が点灯し、〝桜花〟は切り離された。
一瞬、フワリと身体が浮かぶ感覚があり、〝剣山〟から安全な距離まで離れると、〝桜花〟のエンジン出力を上げた。
すでに、母機の慣性エネルギーも相まって、現在は600キロを記録している。
さらに加速を開始した。
650……700……750……800……850キロ。
そろそろ限界に近づいてきたから、スピードの伸びが悪くなる。
新記録の870キロを超えたところで、葛葉大尉は加速装置のスイッチを入れた。
前回の事があったが、今回はワザと下部の2基だけを動かし、機体を上昇させる。
顔の皮が後ろに引っ張られる感触を味わいながら、速度を上げていった。
900……950……そして、1,000キロの領域まで入った。
(よし、このまま行け!)
操縦桿を握りしめる手に力を込めた。酷い振動を感じ始めたからだ。
下手をすれば振り回される恐れがある。
1,030キロに到達したところで、加速装置の燃焼が終わった。
続けて残りの上部側の2基を点火した。〝桜花〟は、急激に機首を下げた。
飛行開発実験団・新京分隊が展開する新京飛行場の正門の前に、ひとりの小柄な女性が現れた。
「お世話になっております。葛葉でございます」
深々と頭を下げるモノだから、当直の兵士が少し驚いていた。だが、当直兵は彼女が、葛葉大尉の夫人である桜子であることは判らなかったからだ。
実を言うと、パイロットなどには妙にモテる傾向がある。そのために、今で言うストーカーのようなモノがいるので、注意するようにと、達しが出されているぐらいだ。
下手に、夫人だといって通してみれば、ストーカーだった……何てことでは、警備の意味がない。
しかも〝桜花組〟の、名前の由来にもなった葛葉大尉の夫人だ。
逆に、さぞ変わっている、と思われていた。目の前にいる物腰の柔らな女性が、そうだとは、思われなかったのだろう。
「生憎と、持ち合わせておりませんので……」
そこで、身分証の提示を求めた。だが、彼女は持ち合わせていないという。
だとすると、通すわけにはますます行かない。しかし、ここで帰してしまって本当に夫人本人だったとしたら、葛葉大尉に申し訳が立たなくなる。
当直兵が困り果てて、上官に電話で連絡した。
『判った』
経緯を上官に報告すると、短くそう答えられた。
そして……。
気がつけば、導入されたばかりのアメリカ製の
見れば、車体側面には〝桜花組〟と達筆な文字で書かれていた。
「お世話になっております!」
運転していた中尉が、整備兵をかき分けるようにして、降りて見事な敬礼をしてみせる。それを見て他の整備兵も慌てて整列すると、敬礼した。
「これはこれは、呉島様」
と、夫人は深々と頭を下げた。
「頭をお上げください」
実を言えば彼、呉島中尉はかの葛葉夫妻に仲人を頼んだ人であった。彼の婚礼式はめでたく先日、終わっている。
彼女の身分証明には、一番の人物だろう。まあ整備兵達は、夫人がどんな顔か興味本位で付いて来ただけだ。
「では、夫人。こちらへ……」
と、ジープの助手席を案内する。
そして、一緒に付いて来た整備兵達には「走れ!」とだけ命令して、二人で行ってしまった。
「葛葉大尉殿は、現在上空にて試験飛行中であります」
「そうなのですね」
呉島中尉は滑走路に沿って、ジープを走らせた。
この時、夫人は自分の夫が、どのような仕事をしているのか知らなかった。
パイロットをしている事はさすがに知っていたが、葛葉大尉は機密についてはしっかりしている人だ。テストパイロットという過酷な任務に就いているとは、つゆとも思っていなかった。
この新京の飛行場は、元々、民間の満州飛行機が整備したモノであるが、実質軍用であり人目につかないよう、市内からは丘を越えた場所にある。しかも、日本、満州の両帝国空軍の実験に使われているところだ。
本当は、民間人である夫人が、近づくのもはばかれる。しかし、戦時中でもない事だし、そこまでキリキリした様子はなく、彼女が見た限り、基地はのどかに見えた。
しかし、ある兵舎に近づいた時だった。
ウー! ウー! ウー!
と、数年前に聞いた空襲警報が、鳴り始めたのではないか。
「どうしたんですか? 戦争が終わったんじゃないんですか!?」
突然、夫人が慌てふためき始め、呉島中尉の腕を必死に掴んだ。
「大丈夫です。戦争は終わっています」
夫人の変わりように彼は驚いたが、あとで思えば、いわゆる空襲恐怖症なのだろう。
空襲の恐怖が、警報音によみがえり、落ち着かなくなったのだろうと……。
「大丈夫です。ここは満州です。もうあんなことはありません!」
力を込めて、彼はそう応えた。できるだけ、彼女を安心させねばならないと。
飛行開発実験団・新京分隊の兵舎に着くと、警報の原因を近くにいた隊員に問いただす。
「一体何が起きている?」
「葛葉大尉殿の機体が、飛行中、損傷したそうです」
と、切り出された途端、夫人の顔が青ざめ、座り込んでしまった。
「現在、大尉殿はこちらに向かっていることです。操作に問題なく、着陸に入るそうですが、万が一のこともあります」
その間にも彼等の後ろで、消防車まで出動していく。
「夫人。こちらへ……」
呉島中尉に言われるまま、兵舎に入っていった。
そこにはいろいろな機材が置かれ、兵士が操作していたが、一番の目的は無線員のところだ。
「葛葉大尉殿は、ご無事か?」
無線員に問いかけると、「はい」と短く答えた。
「機体を急降下させたところで、機首の左
操縦には問題ないそうですので、まもなく目視で確認できるかと、思われます」
そう言われ、呉島中尉は夫人を連れて再び、外に出て行った。
「あれのようです。ご無事ですね」
外に出ると、彼は滑走路の先を指さした。
しかし、夫人には雲しか見えない。が、ごま粒のようなモノが見え始め、どんどんそれが近づいてくるのが判った。
葛葉大尉の〝桜花〟試作2号機が、損傷している様子も全く見せずに、滑るように着陸した。
よく見ると、たしかに、機首左側のカナードが無くなっている。
待機していた消防車は、とりあえず機体に水を掛けたが、大丈夫そうだ。
「やったぞ諸君ッ! 時速1,100キロだ!」
風防が開けられたかと思うと、葛葉大尉は両手を振り上げ、大声で叫んでいる。
彼が言うことが正しければ、マッハに直すと約0.9。
彼が読んだ新聞のアメリカ記録を、塗り替えたことになるが……。
「旦那様ッ!」
葛葉夫人が、涙目で声を上げているのに気がつくのは、それほど時間がかからなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます