1947年5月、大満州帝国・新京
「旦那様。先方に申し訳ありませんので、お約束には遅れないでくださいまし」
大日本帝国空軍・葛葉大尉は、妻の桜子の言葉を少々鬱陶しく思えていた。
「天下の日本国軍人が、遅刻などするのは恥です」
物腰の柔らかな風貌とは違って、彼女の性格は、よく言えば芯が通った大和撫子だろう。
悪く言えばキツい。朝の身支度をしている最中にも、彼女の小言は止まらなかった。
この満州の地においては、その性格がますます出てきているように感じる。
惚れた腫れたて、結婚したのだ。
今更、文句を言うまいと、彼は誓っていたが、たまにふと折れそうになる。
しかも、彼女は知り合いのいない、完全に異国となったこの満州の地にまで付いて来てくれた。それに、彼女の小言の内容を確認するまでもなく、彼、葛葉大尉の事についてばかりだ。
「駅前のヤマトホテルのロビーに……」
「午後三時です」
「了解しました閣下。
彼が少々、からかい半分で応えた。
「外でも、そのようなご冗談を言っていらっしゃいますの!?」
と、彼女はプクッと頬を膨らました。不満があると、そうするのが彼女の癖だ。
なかなか可愛らしい癖だが、よく父親に「はしたない」と注意されたが、直ることはなかった。
その後も、軍服の着方がどうのとか、忘れ物はないかなど、まるで母親のように心配された。今日の話は部下が結婚するに当たり、葛葉夫妻は仲人を頼まれた。その花嫁の両親が、今日やってくるので、顔合わせというわけだ。半ドンでもあることだし……。
「では、お忘れ無きように……」
と、桜子夫人は、玄関まで来て深々と頭を下げた。
葛葉大尉が住んでいるのは、新京の中心市街より少し郊外にある新興住宅だった。
振り返ると、真新しい同じ建物が、いくつも並んでいる。
戦後の満州国の開放政策によって、入ってきたアメリカの企業が建てたモノだ。
誕生したばかりの空軍の大尉の給料では、本国では恐らく手に入ることが出来ないだろう。軍が買い取って家族寮としてくれているからこそ、住めるようなモノだ。
他の住居人も彼と同じような立場か、その家族だ。
桜並木を通り、彼は出頭するためにバス停に向かった。
見上げれば、桜が何輪か咲いていた。本国よりも気温の低いこの地では、ようやく桜が咲き始めたばかりだ。
現在、葛葉大尉は飛行開発実験団に所属している。
飛行開発実験団の分隊が、この新京におかれていた。
新京には、ちょうど満州航空株式会社という会社が存在した。
戦時中は民間旅客や貨物定期輸送などをこなし、航空機の製造まで行っていたところだ。それに新京は満州のほぼ中心であり、最も設備の設備の整った飛行場もある。
飛行開発実験団の分隊はその飛行場を中心として展開し、本国では出来ない実験などは、この広い満州の地で行っていたのだ。
彼の任務は新型機のテストパイロットだ。他の航空士官よりも高給取りではあるが、その分、危険がつく。だが、彼はそれにやりがいを感じていた。
なにせ、一番初めに、新型機を触るグループの一員だ。
子供が、新しいおもちゃを欲しがるようなモノだ。
彼は戦中末期に軍で頭角を見せた。日本初の
そんな彼が、ひとよりも新しい機体に触れることに、興奮を覚え無いわけがない。
戦後、軍に残るか、民間に下るか選択に迫られたときに、提示された軍の配属先。つまり飛行開発実験団に飛びついたのは言うまでもない。
そして、今、開発に携わっているのは、音速を突破する航空機の開発だ。
1944年6月マリアナ沖海戦において、我が大日本帝国陸海軍は、迫り来る米国の機動艦隊の迎撃に成功した。これにより、両陣営の足並みは止まってしまった。
マリアナ諸島に壁が出来たような感じだろうか。
防御を固める日本軍と、進行のために再整備を進める米軍。
両軍共に長距離爆撃機の投入による硬直状態の打開を図ったが、上手くいかなかった。
その後の1945年7月に大東亜戦争の休戦協定が結ばれたため、後の世で言われる第二次世界大戦は終結した。
だが、平和になったわけではない。
始まったのは兵器開発競争。自由主義と共産主義に分かれた、冷戦時代に突入したのだ。図らずも大日本帝国を含めた満州国は、前者に属すこととなった。
兵器開発競争の一環として、各国はあることを競いだした。
誰が先に音速の壁を、突破するか?
最新鋭の機体の開発は、やはり飛行開発実験団の本隊のある岐阜基地が担うモノだった。だが、今回の機体は、特殊であるため。それに、彼の地では主に海上での試験を主としている事から、墜落したときの機体回収を――回収して確認するため――目的として、満州の分隊に回ってきた。
葛葉大尉が基地に着いた早々、技術陣が待ち構えていた。
「やはり、
彼等からの報告を聴いても別に、苛立つことではなかった。
まだ音速を突破するという、人類にとって未知の機体をどうすべきなど、解るはずがない。機体もさることながら、エンジンも手探り状態だ。
残るは、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、イタリア、そして我が日本。
やはり最初に音速を突破するのは、ドイツの技術陣を抱え込んだアメリカか、ドイツの工場施設を取ったソ連かのどちらかだろう。
葛葉大尉は、机の上に目を向ける。
そこには、音速を突破するために考え出された、機体のスケッチ画が並んでいた。
日本の候補は当初、3つあった。
一つは、最も簡単な方法と、ロケットモーターの機体。
これか一番有人飛行による音速突破は、確実なのかもしれない。だが、これはさすがに葛葉大尉は乗りたくないと思った。
長細い円筒形の機体に短い主翼。後部には水平尾翼の端に、それぞれ水平尾翼がついている。大型爆撃機を改造した母機から空中に切り離すという。
しかしながら、これを見た人間は皆こう思うだろう。
「〝
そう、まさに赤外線で誘導する空対艦誘導弾〝廻天〟に操縦席を付けただけだ。
この兵器の開発当初、飛行実験に人が乗ったという噂がある。そしてヒドいのに至っては、赤外線による誘導装置が開発されなかったら、人が乗って体当たりする、と馬鹿げたモノまであるのだ。それを候補としてあげてくるのも、どうかと思う。
だがしかし、現実的な選択でもある。噂によれば、アメリカがロケットモーターを使う機体で、挑んでいるというのだ。
二つ目の機体は、自分の知ってたる戦闘攻撃機〝火龍〟の改造機だ。
技術者にも意地があるので、口には出さないが、ドイツのMe262をほぼコピーした機体だ。ナマズのような三角形の断面の機体に、主翼は先進的な後進翼。その下にそれぞれジェットエンジンを積んでいる。だが、〝火龍〟では純国産エンジンだったが、出力が弱かった。2基のエンジンの重さが、足を引っ張っている。
「実験機なんだから、エンジンをいっそうのこと1基だけにしてしまおう」
そこで、主翼のエンジンを外し、機体下部に付けようという計画だ。だが、やはり純国産エンジンが足を引っ張っている。
最後の機体は、これを見た葛葉大尉は絶句した。
「これは果たして飛ぶのか?」
と……。
葉巻型の機体に、主翼は先進的な後進翼なのだが、どう見ても通常の機体をひっくり返したようなモノだった。スケッチ画は、右が機首で左へ向かうように書かれているのだから、これが正解なのだろう。機首に小さなカナードと呼ばれる小翼をもうけ、尾部に推進式のジェットエンジンを1基、搭載している
話によれば、〝火龍〟が完成してしまったが、当初は高々度迎撃機として期待されていたらしい。〝
そんな機体を引っ張り出してきた。推進装置をプロペラからジェットに換えて……。
しかし、葛葉大尉はこの機体のスケッチを見て節句はしたが、別の感情も湧いてきた。
美しい機体だ。
と……。
前に葛葉大尉は、航空機設計の神とも言うべき、堀越設計士と面談したことがあった。大戦初期に活躍し、欧米の戦闘機を一時的に一掃した、零式戦闘機〝
彼の言葉を借りれば、
美しいと思ったモノが、一番優秀だ。
ふと、その言葉を葛葉大尉は思い出し、強く押した。
しかし、時間も予算も限られている。3つすべての計画を進めることはむずかしかった。
最終的に決まったのは、エンテ型飛行機だった。
最初の機体はやはり、誘導爆弾の感覚が拭えないし、アメリカと同じ土俵では勝てないと判断された。残る2者は、〝火龍〟を改造したところで、エンジンの1基化は新造と大して労力が変わらない。むしろ、むずかしいだろうという結論に達した。
そして、音速に挑戦するのが始まった。
機体の名は、当初はそのまま〝震電〟としていたが、辞めてしまった名前では縁起が悪い、となった。そこで、伝統的に秘匿のため航空機に自然名を付けるという発想からと、テストパイロットとなる葛葉大尉の夫人の名前から命名された。
ある意味で、彼女の名前は有名だったからだ。
続けて開発チームの名前も〝桜花組〟と呼ぶことになった。もちろん、彼の口から夫人にそのことは伝えられることはなかった。だが、人の口には蓋が出来ず、本人に知られることとなったが……その件に関しては、機会があれば話そう。
それが、この1947年の初頭のこと。だが、世界から見て、出遅れていることはたしかだ。
すでにアメリカは実験中の機体は、初飛行に成功しているという噂があった。こちらはエンジン無しのグライダーが、初飛行に成功した程度だ。しかも、倉庫に眠っていたスクラップ寸前の機体でだ。
我が日本と満州は、共産主義からの防波堤となるべくして、生き残っている
「引き続き、エンジン開発を頼む」
今日、彼か言えるのはそれぐらいしかなかった。
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