第六話 猿

 逃げられると思っていたわけではない。

 ただ、外を見て見たかった。

 あたしは、結局のところ、あの富豪に娘としてもらわれて、そこで余り良い思いをしなかった。その結論として、あたし自身をあきらめる様になった。

 そういうことでしかなかったのだ。

 あたしには、何もなかった。

 憎しみも、この口の悪い性格も、結局自分の意思で形作られたものではなくて、ただ環境がそのように求めたというだけのことだった。悲しいかな。本当に悲しいかな。

 あたしの決断など、何の影響力も持っていなかった。

 自分の人生にさえ、持っていなかったのだ。

 誰にも会わず、誰の声を聞くこともなく。

 あたしは、外に出ていた。

 そこは野原だった。

 完全に、あたしは自由になっていた。

 監禁されていた事実も、そこから命からがら逃げだしてきたことも非現実的だった。

 だからだろう。

 その野原の背の高い草の間に、多くの死体が眠っているということにさえ気づくまで時間がかかった。虫やら動物やらが張り付いて、その肉をむさぼっている音だけが響く。

 その数も尋常ではなかった。

 そういうことか。

 この閉鎖空間の中での感染がまた一歩進んだのだ。

 昔、空間の外にいる人間たちが、この感染した人間たちを隔離した空間の中で生き永らえさせるという決断をした。ただし、それはあくまで人権的にどうこう、という建前のものだ。おそらく、あたしたち感染者の知らないところで、もう、決断はなされたのだろう。

 死体には目立った外傷も、何か大きな傷がある訳でもない。

 いつものように、感染したことによる、ただれた皮膚と腐った肉が見えるばかりだ。

 多分、この閉鎖空間の外にいる人間たちの手によって酸素を抜かれているか、感染者を殺す別の病原菌でもまかれているのか。

 そのあたりだろう。

 もうすぐ、死ぬことだけは何となくわかった。

「外、出られたんだ。」

 あたしはそこで、初めて次女に出会った。

 富豪は、長女と次女と三女だけはいつも特別扱いしていたから、あたしも含めた下の妹たちは顔も知らなかった。

 次女は感染していないかのような綺麗な肌をしていた。

「柄の悪いのが四女だって、お父様には言われていたから。なんとなく分かるの、そういう所。」

 お父様。

 お父様。

 なんだそれ。

 可愛がられてたのか。

 そういうことか。

 だとすると、長女も言うんだろうな。

 あの男のことを、お父様とかほざくんだろうな。

 マジでうぜぇなおめぇら。

「お前と長女はぶっ殺すからな。」

「無理よ。あなたみたいな柄の悪い女じゃ無理。」

「何が何でもぶっ殺してやるよ。」

「殺してどうするのよ。」

「どうせ、ここから出られねぇし、そのままだらだら死ぬならよぉ。お前ら双子に騙されてあのクソ富豪の娘にさせられたんだから、殺したくはなるだろうがよ。ちげぇかよ。」

「殺したいと思う気持ちまで、否定することはできないよ。」

 そういう。

 そういう諦めた調子の喋り方で、それっぽく見下すような喋り方が一々うぜぇんだよ。

 うぜぇんだよ、クソ女。

 死ねよ。

「孤児院から、あの富豪の屋敷まで。それこそ、ここの外の世界から、この閉鎖された空間に連れてこられた、あたしも含めた他の四人の妹はてめぇのこと恨んでるぜ。」

「仕方なかったのよ。」

「楽だな。その立場は。」

「恨むなら。」

「恨んでくれて構わないわ、だろ。楽だなぁ、決まりきったセリフを吐くだけで悲劇のヒロイン気取りの上に、貴方以上に頭を悩ませているあたしの人生にも少しは同情してって思える身勝手さ。よく分かるぜぇ。」

「何が言いたいのかしら。」

「お前、言うほど人生上手く行かなかっただろ。」

 次女がはかなげな表情のまま、眼球だけ回してこちらを見つめた。

「何が。」

「ここにいたくなかっただろ。本当は。」

「だから。」

「もっと、自分は上だと思ってただろ。」

「思ってな。」

「残念だな、お前はここで死ぬよ。」

「確かに、それもまた一興なのかもし。」

「そうやって何とか悦に浸ろうとしても、もう才能のない自分の能力の底が見えて、自分をだましだましするしかやることねぇんだろ。」

「だから、何が。何。何が言いたい訳。」

「あたしさ、ここから出られるんだよね。本当は。」

 その瞬間、次女が目を大きく広げた。

 あたしは表情一つ動かさなかった。

「嘘だよ、ばーか。」

 次女が叫びながら走って来る。

 表情は白く滑らかできれいなまま。

 眉間に皺が寄り、眼鏡が赤く歪んでいた。

 そういうことをするから。

 あたしの指先から小石が飛ぶと、それがその赤く歪んだ眼球に当たる。

 完全に弾け飛んだ破片を集めても、もう視力は回復しないだろう。

 次女はあたしの横を通りすぎて両手を振り回しながら走り去っていった。

 足音が遠ざかった後に、ポケットの中を漁り、カードキーを取り出す。

「それも、嘘。」

 この閉鎖空間から外には出る。

 死んでも出る。

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