第6話
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「……東京にいるのか」
あえて聞くまでもなかった。
彼女の言った、原宿や渋谷は歩かないという発言は、東京ないしその近郊に住んでいる証しとも言える。
「はい、そちらは?」
「あー、東京」
聞かれたことがない質問なので、戸惑い気味な返事になってしまった。
「……すみません、実は知ってました」
え。なにこの娘、ストーカーさん?
ごめん、自惚れた。俺に限ってストーキングする物好きな奴などいる訳が無かった。
「実は、年末に偶然見かけました。話し掛けようと思ったんだけど、どう声を掛けたら良いか分からなくて」
「何処で……?」
「小田急線の、鶴川駅の近く、です」
おいおい、思いっきり俺のアパートの最寄り駅だよ、それ。もしかしてかなりのご近所さんなのか。だからといって別にどうもしないけれど。
「どうでもいいけど、それ、冷めるぞ」
両方の手のひらで挟んでころころと転がしているペットボトルの存在に気づいた彼女は、キャップを捻って口に運ぶ。
「あ、ありがとございま……ん、美味しいです」
そう言って向けてきた彼女の笑顔は、中学時代の諦念に塗れたものではない。
「隣、宜しかったら」
促されて、彼女との間を一メートルほど空けて、ベンチの端に腰を下ろす。
その空いたベンチの空白に噴き出した彼女は、ひとしきり笑い終わると俯いてしまった。
「──ありがとうございます」
「紅茶くらいで何度もお礼なんか言わなくていい」
「いいえ、助けてくれたお礼、です」
「それならさっき聞いてる」
「違う、違います」
俯いたままで首を小さく左右に振る彼女は、白いコートから覗く雪のように白い膝小僧の上、小さな両の拳を握っている。
「六年前のも含めての、お礼なんです。あの時の私は、何も言えなかったから」
「俺は……何も出来なかった。他の傍観してた奴らと同じだ」
「違う。全然違います。私、知ってます」
彼女の小さな手の甲に、ぽたぽたと雫が落ちてゆく。
それは、雪でも雨でも無い。
「──捨てられた私の教科書をゴミ箱から拾って、綺麗にしてくれたこと」
は?
「早退した日や休んだ日のプリントを、家の郵便受けに入れておいてくれたこと」
ああ、そりゃ確かに俺だが……。
「雨の日、隠された靴を戻しておいてくれたことも、知ってます」
あれ、全部バレてたのか。誰にも見つからないようにやったつもりだったんだけどな。
「本当は……もっと早くお礼を言いたかったんです。でも私、その頃から本格的にお仕事始めちゃったので、ご迷惑を掛けるといけないと思って」
お仕事?
大学に行ってないのか。
「大学は行ってますよ。勉強したいことが見つかったので」
ほう、じゃあ勤労学生ってやつか、中々大変そうだな。俺もバイトばっかりだから、何となく苦労は分かる。
「ねえ、覚えてますか?」
「中学時代のことなら、大概は忘れてる。忘れたいことの方が多かったし」
「ふふ、私もです。でも」
冬の抜けるような青空を見上げた彼女は、穏やかな口調で語り続ける。
「あなたが言ってくれた言葉は、ずっと覚えてます。絶対に忘れません」
──はて。
何を言ったのだろう。
だが俺は、人を泣かせるような事を言った覚えはない。なんなら中学時代に学校で言葉を発した時間を全部合わせても、一時間を切る自信がある。
その俺が、何を言ってしまったというのだ。もしも失言で傷つけたのなら謝らなければいけない。
「な、 何て言ったんだ、俺は」
恐る恐る尋ねると、彼女の顔はみるみる朱に染まってゆく。
え、セクハラまがいの失言なの?
「き、綺麗、だって……そ、それとっ……お前は強くて、か、可愛いから……大丈夫だ、って」
え、えーと。
それ、俺ですかね。人違いじゃないですかね。
……うん、全然覚えてないや。
そもそも俺は、他人を励ますような立場にはいなかった。誤解、いや曲解じゃないのか。
「本当に……嬉しかったんです。あの時、もう転校が決まってたんですけど、次の学校でもいじめられたらどうしようって、ずっと悩んでました。でも」
彼女が見上げた空に、きらきらと冬の太陽を反射して飛行船が浮かんでいた。
「あの言葉を支えに、大丈夫だって言い聞かせて頑張ってみました。そうしたらみんな、優しく迎え入れてくれて……」
そうか。彼女は転校することであの地獄から抜け出せたのか。しかし。
「俺は……そんな偉そうな事を言ったのか。ちょっとタイムリープして過去の自分に説教してくる」
「偉そうだなんてそんなっ。あの言葉があったから、今まで私は生きて来れたんです。だから、ありがとうございます」
キャスケットを押さえながらぺこりと頭を下げる彼女に、心当たりの無い照れ臭さだけが込み上げる。
「いや、礼を言われてもだな、当の本人の記憶に残ってないしなぁ」
「いいんです、何度でも言いたいだけですから。私を救ってくれてありがとう。私に生きる力をくれて、本当にありがとう。今日会えて、あなたに会えて、本当に良かった、です」
目に一杯の涙を溜めながら笑顔を向ける彼女に、三たび見惚れてしまう。
脳が蕩けるような感覚に陥り、冷静な判断が出来なくなっていたのだろう。
「──あ」
気がついたら、俺は指で彼女の涙を拭っていた。
──接触。
他人に影響しないことを旨として生きる俺にとって、それはタブーといえる行動だ。
こんな俺が、誰かの悲しみを拭うなんて烏滸がましい。何より俺にはその手段が無い。
「……あの時と、同じですね」
彼女の言葉をきっかけに、記憶が甦ってくる。
──そうだ。
あの時も俺は、冷静な判断が出来なくなっていた。
目の前で傷付いている少女を何とかしたくて、くしゃくしゃのハンカチで彼女の涙や、髪や顔についた汚れを無言で拭っていた。
思い出した。
その時彼女は、こう言ったんだ。
「私に関わると、もっと苛められます」
そして俺はこう応えた。
「お前に耐えられて、俺が耐えられない訳はない」
振り返ると、なんて言い草なんだと思う。あの頃の俺は、個人差って言葉を知らなかったに違いない。
「我慢出来なくなったら、迷わず逃げろ。お前なら大丈夫。強いし、綺麗だし、可愛いし」
完全に甦った記憶に思わず赤面する。てかやっぱりこいつ曲解、いや、都合の良いところだけ抜粋して尾ひれ付けて覚えてやがる。
「どうしたんです?」
「いや、ちょっと古傷がね」
「何処か痛むのですか。おまじない、それともキシロカインでしょうか」
「ちょっと待て。民間療法と処方薬の二択なのかよ。落差が激し過ぎて耳がキーンてなるわ」
てかよく知ってたな、キシロカイン。
「どちらも効果あるんですよ?」
「そりゃそうかも知れないけどさ」
効くのか、民間療法。だったらバス遠足のシーズンは梅干しバカ売れだろ。
「痛いのは、ここですか? それともぉ、ここ、でしょうか?」
「お、おい、やめろっ……ふひゃ!?」
顔の前に構えた彼女の白く細い指先が、俺の胸の辺りをつんつくつん。
思わず目をやってしまって、彼女と視線が合致してしまう。
やばい。至近距離はやばいって。
とくん。
一拍だけ、心臓が強く血液を送り出した。
人が歩く足音がする。
きっと河川敷の上の歩道だろう。
これだ。これしかない。彼女から身体を離して、足音へと振り向きながら言い訳を吐く。
「やめろって、人が見て……えっ」
「あら、何してるの」
「母さ、ん……っ!?」
「え、お母、様!?」
振り返った先には、駅前のスーパーマーケットの袋を提げた母親が、にやにやしながら立っていた。
「あらあら、何だかお邪魔だったかしら」
邪魔ではないけれど、助かったけれど。
タイミングは最悪だよ。
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