第5話

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 鉄橋を離れて、河川敷にある緑地帯のベンチに腰を下ろしていた。

 彼女は俯いていて、俺はじっと水量の少ない川面を見ていた。


「あの時、お礼を言えなくて、ごめんなさい」


 彼女は、ずっと俺にお礼を言いたかったと言った。


「あの時のお礼は、どうしても此処で伝えたかったんです」


 彼女にとってこの場所は、嫌な記憶でしか存在しない。なのに何故、そんな嫌な場所へ再び来たのか。


「今の私は、此処から始まったから」


 俯いていた彼女は、上を見上げる。

 しかし、そこには空なんて無い。

 あるのは鉄橋だけ。彼女にとっては、絶望の景色かも知れない。

 なのに、何故そんな穏やかな笑顔になれるのだ。


「あなたが、私を、助けてくれたから」


 振り向いた彼女は、満面の笑みを浮かべている。


「今、ここにいるんです。だから」


 ──本当に、ありがとうございます


 彼女は満面の笑みのまま、大粒の涙を零した。


 しかし、である。


 俺には、お礼を言われるようなことをしたつもりは無い。ただ俺は叫んで、ハンカチを渡しただけだ。

 いや、助けられたことは素直に良かったと思う。

 今の彼女の顔を見たら、尚更そう思える。


 ただ、なんというか。

 行為に対する感謝が、大き過ぎる。そんな気がした。

 だからつい、余計なことを言ってしまう羽目になる。


「んで、用事はそれだけなのか」

「いえ、それだけでは無いのですけど……あの」


 何かを言い淀む彼女をじっと見る。というか見惚れてしまう。

 成人式の会場で見た、堂々とした振る舞い。

 儚く弱々しい雰囲気は、そんな振る舞いとは無縁に思えた。


 しかし、その雰囲気にも既視感はあった。

 今朝の夢で見た、顔の見えないアイドルと、そっくりだった。

 まさか正夢──いやあり得ない。

 第一、夢の中では顔は見えなかった。それに夢なんて、無意識のうちに過去の経験則をある事象に当てはめただけの映像でしかない。つまりは複数の記憶の集合体だ。


 目の前の彼女は、その表情から憂いを隠さない。そしてベンチから立ち上がった彼女は、三たび頭を下げる。


「ご、ごめん、なさい」

「……は?」


 まさか、彼女の口から謝罪の言葉が出るとは思っていなかったせいで、思わず間抜けな声で聞き返してしまう。


「あたしは、貴方を助けられなかったから」


 ──なんだよ、そんなことか。

 大丈夫。独りで生きるから。

 大学生のうちは、母親の世話になっているけど、いずれ誰にも頼らなくて済むようにするつもりだから。

 そして、完全に独りで生きていけるようになった時に、俺の平穏な世界は、完成されるのだ。

 だから、こんな言葉が口から出るのだ。


「別に……助けてくれとは頼んでないし」


 唖然とする彼女に思わず苦笑する。その笑いに気づいたのか、ぷくっと頬を膨らませる。

 なんだこいつ。こんなに表情豊かな奴だったのか。

 思えば中学時代。

 こいつの表情は、二種類しか見た事が無い。力の無い、諦めた笑顔と、あの橋の下で見た、泣き顔。

 今目の前にある膨れっ面は初めてだ。

 ……いかん。見惚れている場合じゃない。


 だが、これで彼女があの市民ホールから逃げたかった理由が判った。

 赤い振袖の女子たちは、この「彼女」の正体に気づいていたのだ。

 気づいた上で、厚顔無恥にもフランクに話し掛け、尚且つ利用したのだ。


 冷たい北風が吹き、彼女の肩がぶるると震えた。

 冬場の橋の上や河川敷は、水があって遮蔽物が無いせいで気温は低く風も冷たい。

 風除けになりそうな場所を探してぐるりと見渡すと、ちらっと遠くに自販機が見えた。


「ちょっと待っててくれ」


 彼女をベンチで座らせて、飲み物を買いに自販機へと走った。

 てか何やってんだよ俺は。もう疑問は解消したんだから、早く帰りゃいいじゃねぇか。

 本当に、どうかしている。


 温かい飲み物を二本、手の平で回しながら、小走りで河川敷へ戻ると、彼女の前には見知らぬ男が二人いた。


 あれだけ可愛ければナンパなんて飽きる程されるだろうな、などと一人納得しつつ、彼女の座るベンチへと急ぐ。

 今の目的は、寒がる彼女に温かい飲み物を渡すことだ。

 その任務を速やかに遂行する為に、彼女が座るベンチの背中側から歩み寄る。

 と、ナンパ男二人が怪訝そうな顔を向けてくるが、構わずに歩を進める。

 背後の異変に気づいた彼女が振り返る。努めて平静の表情を保とうとしていたようだが、その瞳は微かに潤んで見えた。

 怖くて当然だよな。人の気持ちは見えないから。


 彼女の表情が、変わった。


 成人式の会場にいた時と同じ、堂々とした顔だ。

 つまりこれって、また手伝え、と?

 視線を向けてくるその彼女に、ベンチの背後から飲み物を渡す。


「ほれ、冷めないうちに飲めよ」


 ……あり?

 思ったのと違う言葉が出ちまった。本当は「冷めないうちにどうぞ」というつもりだったのに。演じるって難しい。


「うわぁ、ロイヤルミルクティー。ありがとう。あたしの大好物、覚えててくれたんだぁ」


 ──はい?

 何だよ、その台詞みたいな言い回し。それにまた口調変わってるし。

 てか俺は、他人の好みの飲み物なんぞ知らないし、覚える気もない。

 だが、嬉しそうに紅茶のペットボトルに口を付ける彼女の表情を見て、悪くはないとも感じた。

 ベンチを挟んだ向こう、彼女の前に立つ二人の男へ、視線を向ける。


「──で、この人たちは?」

「うん、ちょっと道を聞かれただけ」


 俺は、二人の男性に目を向ける。

 身長は俺より低い。年齢は、二十代半ばくらいだろうか。

 おおかた成人式を終えて出てくる女の子に声をかけて、ドライブにでも誘うつもりだったのだろう。

 それを示すように、右の男性の手には、車のキーが握られている。


「ほーん。で、何処へ行きたいんです。よかったら地図を書きますよ」


 スーツの内ポケットを探って、メモ帳とボールペンを取り出す。


「い、いや、市民ホールだったんだけど、もう分かったから」

「……そうっすか」


 嘘をつくならもう少しマシな嘘にすればいいのに。

 あんたら、市民ホールから来たでしょう。河川敷の上に停めた車、フロントガラスに市民ホールのパーキングのシールが貼ったままでしたよ。

 それにあんたら、どう見ても良い大人ですよね。成人式に用は無いですよね。

 そっちの人。左手の薬指のそれは何でしょうね。


 ナンパが失敗した二人は、そそくさと何処かへ去っていく。

 ベンチに残されたのは、彼女と俺。

 俺はベンチの背もたれに腰を預けて、微糖のホットコーヒーのボトルを傾ける。


「ははは、また助けてもらっちゃいました」

「お前も大変だな」

「ん? どうしてです?」

「いや、ナンパとか……多いだろ」


 あの市民ホールの群衆の中でも容易に見つけられる程に目立つ容姿だ。今のような煩わしい事は多いのだろう。


「んー、どうでしょう。そうでもないですよ」


 嘘つけ。その笑顔は中学時代のと同じ取り繕った笑顔だ。長年人の顔色を窺ってきた俺の目を舐めるなよ。


「あ、でも渋谷とか原宿は歩かないようにしてます、ね」

「……東京にいるのか」

「はい、そちらは?」

「あー、東京」

「……すみません、実は知ってました」


 どういう、ことだ。

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