第62話 大切な存在

 十月の某日。辺りが肌寒くなって、冷たい風が吹いていくこの季節。

 辺りの木から葉っぱが消えて、ほぼ緑がなくなっていた。まるでそこだけが色あせたような雰囲気すら思える。


 でもその中で、アルスだけは鮮やか過ぎるほどに緑色の体表を持っていた。


 私達は川の土手で、アルスと面向かっていた。今日ここで、この子はこの街から旅立とうとしている。

 その前に私達は、アルスに別れの言葉を告げようとしたのだ。


「短い間だったけど……楽しかったよ。旅をしても元気でいてね」


「風邪を引くんじゃねぇぞ……もし何かあったら……ウウ……俺達の事を思い出すんだぞ!!」


 まず森さんと長谷田さんが、別れの言葉を綴ってくれた。


 森さんは悲しそうにしながらも、微笑みながらアルスの頭をポンポンと叩いてくれている。

 一方、長谷田さんが泣き顔だ。私達と比べてそんな長い時間じゃなかった……でもアルスといた時間を大切にしていた。


 私は長谷田さんに心の中で感謝を込めた。アルスをそんな風に思ってくれて嬉しいと。


「……さっ、沢口さん」


 森さん達が終わった所で、隣の誠君が促してくる。

 私はもう隣のユウナさんに振り向いた。彼女もまた、私へと無言で頷く。そして後ろにいるメロ君もまた、促すように頷く。


 自分の番だ。なるべくアルスを悲しませないよう、泣かないようにしないと。

 そう思いながら、誠君とユウナさんと一緒にアルスに歩み寄って、前に立った。


 アルスはじっと私達を見ていた。というか、私だけを見ているんだろう。

 私はここに来て、何を言えばいいのか迷ってしまった。何か言おうにも、口が魚のようにパクパク開いてしまう。


 誠君もユウナさんもしばらく私を窺っていた。それから流れを切らさない為か、先にアルスへの別れの言葉を告げる。

 

「アルス、本当に君といて楽しかった。一緒にいた時間がこれほどに……何だろう。楽しいというかワクワクというか……とにかく色んな事があって飽きなかった。

 十年いなくなっても、僕は君を絶対に忘れない。だから絶対、絶対に沢口さんや僕達の所に戻って来てくれないかな……」


 誠君はアルスに対して辛そうな表情をして、その言葉を口にした。

 アルスは少しだけ顔をうつむかせた。彼の言葉を、ちゃんと一心に受け止めている。


「私も……あなたとの時間がとても幸せでした。どうかお身体に気を付けて……アルス様に神のご加護をあらん事を」


 ユウナさんがそっとアルスの鼻辺りを触れる。

 しばらく黙祷してから、アルスから離れた。そしてアルスの瞳が私の方に見据える。


 最後は私なんだ。


 リラックスするように深呼吸をして、平静さを維持する。

 そしてちゃんとアルスと向き合う。 


「…………」


 ライオンのような獰猛で、それでもどこか温和な顔つき。光り輝くような金色の瞳。


 最初の可愛いらしい顔つきとは全く違う。厳ついながらも穏やかなそれがそこにある。


 最初の頃なんて、それはもう私が持てるほどのサイズだった。ピョコピョコとしてて可愛かった。


 家で一緒にご飯食べて、公園で一緒に遊んで、それでいて私の身を守ってくれた事もある。


 そんな大切なアルスが、今はもう立派な成体になっている。


「……アルス……」


「エリ……僕はよかったと思うよ」


 何か言おうとした時、アルスが先に言ってきた。

 急な事に私は面食らう。


「よかった……?」


「うん。僕がここまで成長出来たのは……エリ、君のおかげなんだ。それに、僕にとって今までの事が楽しかった……」


 金色の瞳が、何かを耐えるように強く細めた。

 声もどこか絞るように低い。


「楽しい事、嬉しい事、悲しい事……そういったのを分かち合って、嬉しかった。だから僕は、エリが好きになってよかった」


「…………」


 おもむろに私に近付くアルス。

 その大きな右腕を上げて、私の頬に触れてくる。ごつくて、温もりのある手。


「僕はやり遂げるよ。世界中の植物を促進させて、そしてエリの元に戻ってくる。ちゃんと戻ってきて……戻って……」


 




 私は気付いてしまった。


 アルスの瞳から透明な雫が流れている。嗚咽の声も発してきた。

 泣いていた。今この子は、涙を流して泣いているんだ。


「アルス……」


「……初めて分かった……エリが泣くのって……こんな感じなんだ……な…………こんな時に……分かる……なんて……」


「…………」


「やっぱり……僕はエリといたい……でも……本能に抗えない……僕はどうしたらいい……どうすれば……」


 ……これがあなたの真意だったんだね。

 前の発言で信じてしまった自分が馬鹿だった。アルスだって、本当は世界中を回るのが嫌だったんだ。




 聞けて良かった。


 

 

 別れる前に、その真意が聞けて良かった。




「落ち着いて、アルス!!」


 ――パン!


 私はアルスの頬を叩いた。

 ただ本気で叩いた訳ではなく、発破を掛けるように軽く。それをされたアルスが、涙を浮かばせた目を見開かせた。


「あなたは自然の神獣なんでしょう! 神獣がそんな弱音を吐いたら駄目だって!」


 この子はもう、あの頃の幼い姿じゃない。

 それを私はよく知っている。


「あなたの力は前に見せてもらった。あなたなら世界を回る事だって出来るはずなんだよ。だから大丈夫……あなたならきっと……ううん、絶対に成し遂げられる」


 その言葉に嘘などなかった。至って本心である。

 私のアルスが、そんな事で挫けるはずがないからだ。


「それで戻ってきたら、世界中で見てきた物を私に話してくれるかな? 世界中なんて回った事がないんだから、絶対に話題の種になると思うんだ。……だからさ、胸張って……って……」


 言葉が上手く口が出来ない。いつしか私も、アルスと同じように泣いていた。

 辛くなるからとなるべく我慢していたのに、アルスに涙を見せたくないと思ったのに。それでも私は必死にこらえて、ちゃんとその言葉を伝える。


「あなたなら……出来る……それで私の所に……戻ってくる……。それまで私は……私は……ちゃんと待っているんだから……。

 だから胸張って行って……あなたは……







 あなたは私の大切なアルスなんだから……」


 私にとって大切な存在。


 私は信じた。大切な存在が目的を終わらせて、ちゃんと戻ってくるのを。私達がもう一度再会出来るのを。

 アルスにはそれが出来るはず。そうして再会したら、また一緒に幸せに暮らしたい。


 それが私の、全てを投げ打ってまで叶えたい願いだった。


「……ありがとうエリ……君も僕にとっての……大切な存在だ……」


 アルスが言った。瞳に流れた涙を、器用に尻尾で拭った。

 優しい顔で私の頬を擦ってくれたりもした。私は、その顔を静かに抱き締める。


「……行ってくるエリ、皆」


「うん、行ってらっしゃい」


 アルスが、私の元から離れていく。


 私達から背を向けて、ゆっくりとその身体を浮かせる。




 そして彼は、空高く舞い上がった。

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