第21話 歪み

 帰りの馬車に揺られながら、僕らはそれぞれ思い思いの感慨にふけっていた。


 このプロマジンの滞在では色々なことがあった。元々の予定では1泊して会談の翌日、マンバのプレイを観戦して帰るつもりだったのだが、引き延ばすことを勧められ、結局ゆっくり3泊していくことになったのだ。滞在費用は領主持ちで、僕たちは良い扱いを受けたと言えることだろう。


 その間に僕は少年ミノレの両親に会った。父とは晩餐会の時点で会っていたが、母とは後日改めて会うことになったのだった。


 記憶を失った、という僕のでっち上げた設定を事実として父から伝えられていたのだろう。母は少し戸惑ったような素振りで、しかしとても慈しみ深く僕の体を抱きしめてくれた。すると僕の心は暖かなもので満たされたのだ。


 父の時と同様に、直感的に、瞬時に彼女が母であることが僕にはわかった。僕の体はその温もりを欲しているかのようだった。


 プロマジンに戻るつもりはなく、少なくともしばらくの間はベスの村で過ごすつもりだという今の僕の希望は受け入れられた。それは少年ミノレを一度は死んだ扱いにしたという彼らの罪悪感がそうさせたのかもしれないし、以前の息子と明らかに異なる口調や知識背景で話す僕にいくらかの抵抗を感じていたのかもしれないし、あるいは単に僕の自由意思を尊重してくれた結果なのかもしれない。


 そのいずれであっても僕には構わないことだった。彼らは僕を概ね愛してくれているようで、僕も彼らを概ね愛しているだろうからだ。


 そして僕の希望通りになったのだ。その背景にある感情を推察することに意味はない。おそらくどの気持ちも大なり小なり存在していて、それは言わば昼と夕暮れで変わる太陽の色のように、考えるその時々で色味を変えるものなのだろう。


 僕自身にしてもそうだった。ミノレをよく知る環境にこの身を置くことを考えると、いつか不信感や違和感からの迫害を受けることになるような気がするが、記憶を失ったという設定を受け入れられている現状ではそのような心配は不要な気もする。仮にプロマジンの街に移り住んだとしても問題なく生活できるのではないかとも思われる。


 僕の体は子どもなのだ。子どもが成長するに従って内面的にも変化するのは至極当然のことであり、断片的に得られる少年ミノレの記憶をちりばめながら生活すれば、それがいずれ青年ミノレとして確立されていくのではないだろうか。


 クロルやマンバ、ベスの村に対しての愛着はある。恩義も感じているし、何らかの形で恩返しをする機会があったら良いと思う。しかしながら、僕には経済力がまったくないし、ゴムを加工してボールを作成しようという試みは暗礁に乗り上げている。


 バスケットボール・スキルをマンバに与えるという点においても、彼には優れた応用力と並々ならぬ情熱が既に備わっている。今さら僕の助けが根本的に必要だとは思わない。


 その点、プロマジンに拠点を移した場合のことを考えてみると、球師であるマンバとは会う機会があるだろうと思われた。ひょっとしたらクロルもそこにいるかもしれない。親に頼めば、たとえば金銭面などで具体的に何らかの恩返しができる気もする。


 こうしてぼんやりと考える限り、僕はプロマジンに行くべきなのかもしれないという気持ちになるのだ。そしてそれは僕にとっても幸せに通ずることかもしれない。


 しかし僕はベスの村へ戻ると皆に言っていた。今どうするかを訊かれたとしても、おそらく戻ると答えるだろう。


 揺れる馬車に身を委ね、見るともなしに景色を眺める。冷たくなりつつある風を頬に受ける。


 怖いのかもしれない、と僕は思った。


 かつて少年ミノレのいた環境にこの身を置くのが、怖いのかもしれない。


 精神科医としての思考回路がそう思わせるのだろうか? 周囲の誰もが僕のことを少年ミノレだと認識していて、僕もそれが正しいことを知っている。しかし同時に、僕は決して彼ではないのだ。それを僕は知っている。それこそが今の僕のアイデンティティの中核と言っても良いだろう。


 これは何だ。


 精神的な疾患ではないのか。


 この状態が何らかの疾患なのだとしたら、この、僕を僕たらしめるこの意識こそが、その症状そのものであると言えるのではないだろうか。


 この“僕”は妄想なのか? ぞくり、と背筋が寒くなる。


「我思う、故に我在り」という命題が真だとするなら、僕は妄想ではないのかもしれないが、歴史的な名言をもってしてもこの考えを否定するのは難しいように思われた。


 仮にプロマジンの街に行ったとしよう。そこには暖かい両親と、少年ミノレが生まれ育った環境がある。そんなところでのんびり暮らせば、この“症状”は快方に向かうのではないだろうか?


 ぼんやりとそんなことを考える。すると、自分が確かに認識している筈のものが、わずかに歪んでいくような気持ちになるのだ。


 ぐにゃりと歪んだ馬車に揺られる。


 その歪みを揺れのせいにして大きくひとつ息を吐く。


 なんとなしに向けた視線の先では、街を満喫するのにエネルギーのすべてを使い果たした少女が、電池の切れたオモチャのように微動だにせず眠っている。


 眠っていた筈のクロルの目がぱちりと開いた。そして欠伸交じりに僕を見た。整った顔立ちが眠気を帯びた表情をしていて、かえって魅力的に僕には見える。


 ふわふわと睡魔に抱きかかえられたような夢見心地なのだろう。クロルはうっとりとした微笑みを浮かべ、隣に座るマンバに寄りかかるようにして体を預けている。


 そんなクロルの様子を眺めていると、少しずつ、それまで感じていた漠然とした不安や恐れが晴れていくような心地がした。ぐにゃりと歪んでいるような認識から違和感が取り除かれていくような気がするのだ。


 僕は彼女をじっと見つめる。


 彼女は僕をじっと見つめ、やがてにっこりと微笑んだ。


「楽しかったけど、疲れたねえ」

「そうだね」と僕は言った。


○○○


 ベスの村へ到着した僕らは即刻解散することになった。元々1泊して帰ってくるつもりであったため、丸2日分の各々の仕事が未処理で残されているからだ。


「俺はこれから村長に報告を行い、しばらくは平常業務にかかりきりになるだろう。マルクはゴールの作り直しを頼む。完成したら俺とマンバに連絡するように。マンバは球師としての研鑽を重ね、ゴールができたら籠のピエルナスの練習を村の者たちも巻き込んで行うといい」


 パウはそのように指示を出し、出迎えの若者を連れて早々にその場を立ち去った。マンバはそれを見届けると、マルクに向かって肩をすくめた。


「それじゃあマルク頼むな。おれはとりあえず親方に挨拶をしに行く。それが済んで仕事も落ち着くようだったらピエルナスを触るかもしれないが、今日はせいぜい自主練くらいしかできないだろう」


 あくまでマンバの本職は今のところ木工職人なのだろう。クロルと僕に家のことを任せると、彼は職場へと走っていった。


「皆忙しいのねえ」

「僕たちも今から忙しいかもしれない。とりあえず水だけでも早急に汲んでおかないと、何もできなくなるんじゃないの?」

「――確かにそうだわ。気が遠くなってきた」


 クロルが街で買い求めてきた大小様々なお土産たちを家まで運ぶのもこれからなのだ。揺れる馬車には乗っているだけで体力が削られるので、僕たちは既に疲労困憊している。荷台から降ろされたままの荷物に目をやると、うんざりするような量だった。


 そうして肩を落とす僕らを励ます者がいた。マルクだ。マルクは豊かな髭を撫で、僕の肩を軽く叩いた。


「今日のところは水屋に頼むといいさ。何なら俺が奢ってやってもいい」

「本当に? やけに太っ腹じゃない」クロルが目を輝かす。

「領主様に滞在費用を出してもらえて助かったし、ゴールを買い取っていただいたからな。そのうちいくらかを発案者殿のために使ってもバチは当たらないと俺は思う」

「いい心がけだね」と僕は言った。


 ベスの村の工夫は大いに評価され、僕たちの作ったゴールはそのままプロマジンに買い取られることになったのだ。だからベスの村ではまた新しく作り直す必要がある。その詳しい売値は知らないが、少なくとも村長代理にとっては魅力的数字であったように僕には見えた。


 その一部を僕のために使うと言う。知的財産権の概念などないであろう世界ではきわめて珍しい申し出だろうと思われた。


「というのも、ついでに相談したいこともあるんだよ。ゴールの作り直しを指示してくるから、ちょっとこのへんで待っててくれないか。その荷物も運んでやろう」

「素敵! でもあたしいっぱい買っちゃたよ、大丈夫?」

「一応これでも大人だからな。たぶん大丈夫だと思う」


 マルクは笑ってそう言った。そして僕たちを残してどこかへ消える。ゴールの作成を依頼できる工房にでも向かったのだろう。僕は荷物から水筒をふたつ引き抜くと、残りの荷物を見張れる位置でクロルと並んで腰かけた。


「マルクが相談って、何だろうね?」


 水筒の栓を抜いたクロルが僕に問う。それに対して僕にできる反応は、首を傾げるくらいがせいぜいだった。


「まったくわからない。僕たちのどちらに相談なのかもわからない」

「え。それはあんたにでしょ?」

「どうかな。成人式直前の女の子に求婚したりするのかもよ」

「マルクがあたしに? いや~、ないでしょ」


 クロルはそう言い、水筒をくぴくぴと傾けた。思い付きの冗談で言った内容だったが、ひょっとしたらあり得ることかもしれない、と僕は冷静になって考えた。


「成人した後ってすぐに結婚できるものなの?」

「そうねえ、あたしのことは置いといて、一般的に、って話ならできるわね。偉いひとたちは大体結婚相手が子どものうちから決められているから、成人と同時に結婚するのも珍しくはないみたい」

「なるほどね。クロルは結婚しないの?」

「あたし!? いや~、相手がいないからねえ。マンバも急いではいないみたいだし、幸いただの村娘だし、何か良い話があったら考えてもいいけど、今のところはないかな~」


 ふうん、と僕は相槌を打ち、この間もなく成人式を迎える少女を眺めた。


 クロルはとても可愛い女の子だ。顔立ちが整っており、家事のほとんどを引き受けているので大人びて見えるが、表情や態度は12歳の若さで溌剌はつらつとしている。そのギャップと時折見せる少女から女性へ変化する途中の不安定さも魅力のひとつと言えるだろう。ふとした時に色っぽいと言えるような顔をしていることさえあるのだ。


 よく日に焼け煤で汚れていることも多いので色黒な印象を持ちそうなものだが、実はそれほど黒くない、美しい肌をしていることを僕は知っている。地の色から浅黒いマンバとは異なるところである。


 季節の変化に伴い風は冷たくなってきているけれど、街道を外れた後村まで歩いてきたせいもあって僕らは汗をかいている。クロルの汗ばむ肌に太陽の光が反射する。水筒から水を飲む喉の動きがひどく艶めかしいように僕には見えた。


「なによ」


 視線に気づいていたのだろう。クロルは僕を睨みつけた。僕は頬杖をついて彼女を眺めながら、「僕が未婚の成人男性だったら求婚するだろうと思ってさ」と冗談めかして言った。


「なにそれ。馬鹿みたい」

「マルクは馬鹿じゃないと思うけど」

「あんたね、前提が間違ってるのよ。マルクは結婚してるわよ」

「あれ、そうなの」

「村長の次男よ? あんな歳まで独身の筈がないじゃない」


 その発現を僕は不思議に思う。髭面の大男ではあるけれど、マルクは明らかに若かった。パウもそうだ。村をまとめるような働きをしているからか、実年齢より大人に見えるけれど、おそらくせいぜい20代の中ごろだろう。


 しかし、と同時に僕は思った。20代半ばということは、成人して10年以上経つことになる。それは“あんな歳”と呼ばれる年齢なのかもしれない。


「だから、相談はたぶんあんたによ」

「どんな内容だろうね?」

「さあね。球師になるつもりでもないでしょうし、街との繋がりってわけでもないでしょ。今回のお出かけに付いて行かされたお礼か、もしくは苦情でも言われるんじゃないの?」

「苦情は困るな」

「相手は村長一族よ? ベスの村人は黙って従いなさいな」

「今実害が及ぶとしたら、対象はこのクロルがお買い物した荷物になると思うけど」

「あんたはあたしのものなんだから、命を賭して守りなさい。相手が村長一族だろうと関係ないわ!」


 ふん! と鼻息を荒くする少女を眺め、僕は水筒を傾けた。


 しかし本当に相談の内容は何だろう。バスケット・ゴールの新たな可能性についてだろうか? それともプロマジンで建設中のメインアリーナのような競技場についてのことかもしれない。


 僕はティムとの議論を思い出す。もっとも、議論というより周知や通告と言ったほうが適切なような内容だったのだが。


 ベスの村で作ったゴールには明らかな欠点があった。地面にまっすぐ立たせた柱にバスケットを備え付けたようなデザインだったので、どうしてもコート上に頑丈な柱が存在してしまうのだ。


 不可侵エリアを撤廃し、ドリブルでゴール下まで切り込めるようにするため、そこには何人もの男たちが場合によっては全力疾走で駆け込み合うことだろう。明らかに危険だ。


 明らかに危険だったが、不可侵エリアのあるピエルナスしかプレイしたことのないマンバたちは、その危険性に思い至っていない様子だったのだ。


 しかしティムはそうではなかった。彼は柱にバスケットを設置するのではなく、天井からバスケットを吊るすようなデザインを考えていた。概要図のようなものを見せられ、感心したことを思い出す。あるいはそれは見上げるような形に設置されていた、街の門のあたりにあった掲示板のデザインの流用なのかもしれないな、と僕は思ったものだった。


 やはりそのデザインの有用性も、彼らにはよくわからなかったのかもしれない。その辺について、発案者である僕なら何か解説を加えられたり考えられる工夫の種火を提供してくれと言ってくることは大いに考えられるだろう。


 やがてマルクは戻ってきた。その表情は深刻だが、僕らに対して害意をもっているようには見えなかった。


 実際マルクの相談内容は僕に対する苦情ではなかった。それどころではなかった、と言ったほうが適切な表現かもしれない。


 マルクは注意深く周囲を伺い、盗み聞きされることのない状況であることを確かめた。そしてゆっくりと、僕の目を見て口を開いた。


「用件をまず言おう。俺はパウより自分の方が次期村長にふさわしいと思っている。それについてどう思うか教えて欲しいのと、できれば協力して欲しいというのが俺の相談内容だ」


 なんと面倒臭そうな相談なのだ。それが僕の率直な感想だった。大人しくさっさと水汲みに帰っていれば良かったに違いない。


 しかしすべては既に遅かった。この返答は慎重に行わなければならないだろう、と僕は思った。


 大きくひとつ息を吐く。喉が渇いていたが、急いで水筒を口に運ぶ気にはならなかった。

 

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