第20話 牙
マンバが凄い顔で笑っていた。
あるいは笑顔ではないのかもしれない。牙を剥く肉食獣のような表情でアランを睨みつけている。味方から渡されたピエルナスを右手でつき、ゆっくりと歩き出していた。
対峙するのはそのままアランだ。体格差がある。本来、マンバに対する守備は他の者に任せた方が良いのかもしれない。アランがその小さな体で守備の名手でもあるという可能性はあるけれど、体力の消耗を考えた場合に攻撃のエースと守備のエースは同一人物でない方が好ましいことだろう。
マンバが攻め、アランが守る。先ほどと真逆の構図になっている。はっきりとマンバの方が大きな体をしているにもかかわらず、アランの方が長いのではないかと思える腕がボールを絡め取ろうと機会を伺っている。
マンバもそれはわかっているのだろう。やや半身になって体で壁を作るようにしてボールをアランから守っている。
アランの姿勢は低い。重心を下げてボールをつくマンバよりもさらに下からプレッシャーをかけている。
「こいよ」
「お前の力を見せてみろ」
マンバはそんな声掛けをされているのかもしれない。トラッシュトークというやつだ。挑発的な内容や攻撃的な内容など、あらゆる発言で相手の心をかき乱すのは、ボーラーにとってひとつの技術として確立している。球師にとってもそうかどうかは知らないけれど。
アランは守備にも自信を持っているのだろうと思われた。
仕切り直しをした方がいいかもしれない、と僕は思った。ボールを保持している攻撃側であるにもかかわらず、主導権をアランに握られているような印象だからだ。やり方は簡単だ。パスカットの恐れのない位置に味方を来させて一度そこにパスを出し、再びパスを戻してもらいさえすればよい。そして息を整え落ち着きを取り戻し、シュートもドリブルもパスもできる体勢からもう一度攻めれば、少しは状況も変わることだろう。
しかしマンバはそうしなかった。
アランがボールを求めて手を伸ばしている。伸ばしすぎでバランスが悪い、と僕は思った。上手くロールをすればすり抜けるようにして抜き去ることができそうだ。
マンバもそう思っているだろうか? アランは守備技術自体は高いのだろうが、おそらく体格の悪さをカバーするためにギャンブル気味の守備をする癖がついている。
僕自身が小さなガードの選手であったため、その気持ちは痛いほどによくわかる。アランは低い位置からプレッシャーをかけている。
今だ。
僕がそう思ったタイミングで、はたしてマンバはロール・ムーブを行った。背中で作った壁を利用して、回転する動きでボールを守りながらアランと位置を入れ替わるようにして突破する。できなかった。
アランの異常なほどに長い腕が、普通に考えたら届く筈のない位置からボールに触れていたのだった。
コントロールを失った深緑のアルマジロが無秩序に床に転がった。予測不可能なボールの挙動にマンバが驚いているのがわかる。客観的にすべてを見ている僕が驚いているくらいなのだ。当事者である浅黒い肌の男にはさぞかし驚愕であることだろう。
アランは自分でボールを追うことはせず、味方が確保するのを確認した後、逆襲のレーンを走り出した。驚愕の中でもボールロストは理解できる。マンバがそれを追って走り出す。
ピエルナスが前方へと投げられる。アランは長い腕でそれを取った。強いドリブル。走る速度がほとんど落ちない素晴らしいボール・コントロールだ。
追いつけない。体格に勝っているマンバは直線の走り合いでは有利な筈だが、ふたりの距離は縮まらなかった。不可侵ラインをアランが飛ぶ。ルールで許されたもっともゴールに近づく方法を利用し、決して敵から邪魔されることのない位置からゆっくりボールを転がした。
高さも計算しているのだろう。長い腕で行うアンダースローだ。ゴールに向かって進む軌道上にそっと置かれたピエルナスは、その慣性に従って跳ね転がる。
加速を与えられていない運動によって初期より高く跳ね返ることは物理的にありえない。反発係数は常に1以下の値となるからだ。従って、アランのシュートが高く外れることは決してない。
どこまで理屈を把握しているのかはわからないが、非常に理にかなった投げ方だと僕は思った。
やがて着地したアランは優雅とも表現できる動きでやんわりと減速し、円を描くようにターンした。客席を撫でるような進路である。彼はちゃんとボールがゴールに収まるかを確認することさえしなかった。耳に手をあてている。
賞賛の声が聞こえない、と言わんばかりのそのジェスチャーに、客席は爆発したように盛り上がる。ゴールだ。アランはシュートの成功を歓声によって教えてもらう。
すれ違いざまにマンバの肩を軽く叩いた。マンバは俯いたままで深緑のアルマジロを拾い上げる。
顔を上げて前を向く。
凄味を感じさせる笑顔が顔に貼りついているようだった。
○○○
格付けは済んだということだろうか。アランはその後の守備を他人に任せ、自分はただ付いていれば良いといった位置を担当し、マンバのプレイを観察しているようだった。
何か指示を出したのかもしれない。マンバのチームは必ずマンバが攻撃し、アランのチームは必ずアランが攻撃した。いずれも1対1のやり取りだ。マンバが選考会で見せたようなオフボールの動きは流行となってはいないのだろう。ひょっとしたら邪道扱いになっているのかもしれない。
もしくはこの時間帯の目的として、マンバの実力の見極めや、村出身の新入り球師に対する教育といったところをテーマにしていることも考えられた。
アランの守備にはマンバが付くのだ。そのため、マンバのチームは攻撃も守備もほとんどマンバが一手に担うことになる。
常に集中力を最大限に発揮し、すべての力を用いて攻撃にも守備にもあたるマンバは当然消耗が激しいようだった。汗が噴き出すように流れている。体もどこか重たくなってきているようで、しかし彼はその役割を誰にも譲ろうとしなかった。
「根性はあるみたいだな」
「ま、使えなくはないか。限定的な役割ならな」
マンバのことを知らないと言っていた観客からそんな感想が聞こえてくる。少なくとも部分的には認められているのだろうが、彼らを熱狂させられるようなプレイを見せられてはいないというのもまた事実であった。
納得するような気持ちが半分と、腹立たしいような気持ちが半分。それが僕の感情だった。
アランは確かに優れた選手だ。そして頭が良いのだろう。おそらく自己評価が正確にできているに違いない。
あのままマンバと攻守にわたってやり合えば、おそらく今のような一方的な結果にはなっていない筈だ。特に問題となるのは守備面で、アランの体格でマンバを止め続けることはできないだろう。異常と言える腕の長さは確かに脅威ではあるけれど、それを把握した上で加味した形で攻撃すれば決して攻略不可能ではない筈だ。
攻撃面でも同様だ。アランのクロスオーバーは素晴らしい。ハンドリング技術のほかにも高い状況判断の能力や特筆すべき運動能力の高さを彼は確かにも持っている。しかし、そのどれもが明らかにマンバを圧倒できるものであるとは僕には思えなかった。
今マンバがアランの攻撃を止められていないのは、アランに守備時に休息が与えられ、マンバはそうではないからだ。仮にマンバがアランの守備を他人に任せ、点を取ることに集中すれば、これほどの差はつかないだろう。
逆に言えば、そう仕向けているアランが賢い。最近ようやく球師になった新入りとは一線を画すキャリアの差があるのだろう。あの体格でエースの椅子に座り続けるのには並々ならぬ努力と工夫がいる筈なのだ。
「これがラストだ」
ゲームをコントロールしている審判が選手たちにそう告げた。
一瞬意外に思ったが、それも当然のことだろう、と僕はすぐに考え直した。練習試合のたびにピエルナスを料理できる状態まで消耗させるのは経済的なロスが大きい。おそらくトランキライザーが特別望みでもしない限り、適当なタイミングで試合を審判が終了させ、ピエルナスは回復を待って再利用されるのではないだろうか。小さな規模で、毎日のようにマンバがそうしているようにである。
宣告のあった時点で深緑のアルマジロをついているのはマンバの方だった。これが最後の攻撃となるのだろう。泥のような疲労感を全身にまとわりつかせた男は気合を入れ直すように強くドリブルを何度かついた。
エネルギーのようなものがマンバの体に満ちていくのがわかる。そんなものがまだ残っているというのも驚きだったが、カラ元気でないことはその表情からも察せられた。鋭い目つき。肉食獣が牙を剥くように口の端を吊り上げている。
しかし、ドリブルでマンバが向かったのはこれまでのようなゴール正面のトップの位置と呼ばれる領域ではなかった。
左斜めに差し掛かる、バスケで言うところのウィングと呼ばれる角度である。マンバはそこでボールをコントロールし、味方の配置の指示をした。
それはこの試合ではじめての行動だった。マンバは3人いる味方のうちふたりをそれぞれのコーナーに立たせ、残りひとりを近くに呼んだ。
「そうそう、そのへん。もうちょっと近くだ」
仕草で仲間にそう伝える。近くに呼ばれたのはアランがマークしている男だ。いたずらにフリーにすることはできないため、自然とアランもついてくることになる。
その人選は、当然意図的な選択なのだろう。
スクリーンプレイか。その形を見た僕は直感的にマンバの狙いがわかったが、同時に非常に驚いた。
なぜならこのプレイは僕の知っているバスケでは常識的に行われることだが、ピエルナスにおいては非常識な行動に違いないからだ。
単なるオフボールの動きでさえ非常識だったのだ。味方の体を利用してミスマッチやギャップを作り出すこの技術が彼らに知られている筈がない。加えて彼らにオフボールの動きを利用する攻撃方法は流行していないようだった。1対1を挑まないプレイスタイルは禁忌のような扱いとなっていてもおかしくないのだ。
さらに、スクリーンプレイのことはマンバも知らない筈だった。少なくとも僕は彼に教えていない。ルールの解釈が面倒な問題となりかねないので、この考え方が彼らにすんなり受け入れられるかどうかがイマイチ確信できなかったからである。
オフボールの動きもスクリーン的に敵味方の体を障害として利用はするけれど、ここまであからさまな利用ではない。偶発を装っている。この体を使って守備を妨害するという行為が反則扱いであった場合、スクリーンプレイには言い訳の余地があまりにないのだ。
マンバの意図は当然彼らにはわからない。彼にパスを渡してアランのところを攻めさせるのか、それともパス交換をして仕切り直すのか。そのあたりが仲間を近づかせる狙いだと思われていることだろう。
そして馬鹿にされてもいる筈だ。そのいずれかがプレイの意図であったとすると、呼んだ彼を置く位置が近すぎる。よほど自分のパスに自信がないのか、それともかえってダブルチームやパスカットに遭うリスクが高くなることに思い至らないのか、と侮られる距離である。
しかしマンバの狙いはそうではない。そのため自然と彼らの裏をかくことになる。
呼んだ味方の存在自体が目的なのだ。マンバから見て右方向に配置された男は微動だにしないことを指示されたことだろう。気をつけの姿勢を取った彼をかすめるような進路をマンバは思い描いている筈だ。
当然、マンバのマークマンはその動きに付いていく。しかしながら、じきに彼は付いていけなくなる。そこにはただ突っ立っているだけの男の体が存在し続けているからである。この物理的な邪魔を直接排除するのは明らかに反則だろう。彼はその障害物をどうにか迂回しなければならない。つまり、マンバのマークマンは剥される。
マークマンが剥された先にはマンバとアランの空間が用意されているというわけだ。マンバは最後の攻撃の機会にアランに挑むことを選択していた。
客席がにわかにざわめく。おそらくこれまで誰も見たことのなかったであろうスクリーンプレイを見せられた衝撃と、新入りの球師が最後にエースへと食ってかかる態度への興奮が空気に溶け込んでいる。意外そうな顔でマンバを迎えたアランは、小さく笑って低い姿勢を作り、生意気な新入りの対応をしなければならないことを受け入れた。
「いくぞ」
「おれの力を見せてやる」
あるいはマンバはアランにそう言っているのかもしれない。この瞬間、この争いの主導権はマンバが握っていた。マンバとアランの間にはわずかではあるがシュートに十分なスペースが残されており、体格差を考えると、アランにはこの距離でのシュートを防ぐ術がないからだ。
アランは必ず距離を縮め、その場でのシュートを妨害しなければならない。
しかし、マンバの選択肢は限られていない。その場でシュートを打っても良いし、必ず距離を詰めてくるアランの動きの逆を取るようにして突破を試みても良い。状況によってはパスを考えても良いだろう。
僕にはマンバが何を選択するかがわかっていた。それはマンバもアランも同様だろう。マンバはアランを抜く筈だ。それをわかっているアランは待ち伏せても良いだろうが、守備の形としては必ず距離を詰めなければならない状況だ。
どうする。僕はアランの行動を見守った。このマンバとの戦いに有利な選択をするか、それとも守備の理論を優先させた“正しい”選択を行うか。しかしアランは迷うことなくマンバとの距離を詰めに走った。
マンバもシュートフェイクなどで惑わそうとはしなかった。アランの正面に向かって小さく進む。ボールをキープするための低い体勢から上体を起こすようにしてマンバは重心を引き上げた。
姿勢が良い。バランスが取れているのが一目でわかった。次の瞬間、マンバは前後左右のあらゆる方向に同じ加速度で向かうことができるだろう。
アランはマンバに向かって距離を詰め、マンバはアランに向かって進んでいる。彼らの間のわずかなスペースは瞬きの間に失われる。
マンバの右手につかれていたボールが低い軌道でバウンドし、左手へと渡される。疲労のせいか、必殺のクロスオーバーと呼ぶにはキレの伴っていない動きになっていた。そして、そこには驚くほどの速さで距離を詰めてきた、アランの異常と言えるほど長い腕が伸びている。
「甘い!」
アランの伸ばす右手がそう叫んでいる。
取られる。取られなかった。マンバの左手は瞬時にボールを右手に送っていたのだ。アランの伸ばした腕がマンバの左側に流れる。右手にボールを受けたマンバの体の流れはそのままアランを回避する動きの一部となっている。
ぞくり、と僕の背筋を冷たい興奮が駆け上がった。
マンバの左足が大きく動く。右足に蹴られた地面の一部が砂の粒となって宙を舞う。
「マジかよ」と僕は呟いていた。
「行けマンバ!」と彼の妹の声援が飛ぶ。
観客のどよめきが大きなうねりのようになって会場を揺らしていた。
その何ともいえない空気の中、完全にアランを置き去りにしたマンバは、先ほどのアランと同じ形でシュートを放った。
不可侵エリアのラインを飛び、長い手を利用して低い位置からボールを転がす。背の高いマンバは同じ動作だと初期高さが高くなりすぎてしまいそうなものだが、着地直前までボールを保持しつづけることでそのリスクを回避していた。その必要性がないほどの、力の限りの跳躍を見せているにしては意外なほど冷静な判断である。
進路はゴールに向かってまっすぐだった。慣性を与えられた深緑のアルマジロはその通りに跳ねていく。着地したマンバは減速しながらゴールへ向かい、間近でピエルナスがゴールするのを見届けた。
ガッツポーズ。そして雄叫びをマンバは上げた。エネルギーを人の形に凝縮させたようなその振る舞いにすべての観客が魅了されたことだろう。驚きの声や興奮の叫びが回転する洗濯機のようにごちゃ混ぜになって揺れている。
「凄いーーなんだあいつは? 今までどこにいたんだよ!」
「名前を調べて帰らないとな。ーー面白くなってきやがった」
注意して耳を傾けた僕には、マンバを知らないと言っていた彼らのそんな会話が聞こえてくる。マンバの名はいずれプロマジン中に知れ渡ることになるだろう。彼らもわざわざ調べなくても、僕のように少し注意して耳を傾ければ女の子が腕を振りながらその名を呼んでいるのがわかる筈だ。
機会があれば僕が教えてやっても良い。彼の名はマンバで、僕の知る限りもっともピエルナスに真摯に向き合うベスの村唯一の球師なのだ、と。
“今のところ”唯一だ、と付け加えるのも良いかもしれない。
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