第18話 晩餐会

 


 母子家庭で育った僕には父親というものの記憶がないが、少年ミノレはそうではない。体中の細胞か、あるいは僕の意識や魂のようなものが宿っているのであろう頭自体が彼を父親だと認識していた。


 ティムは朴訥とした印象をした長身の男性で、その頭部は短く刈り込んだ頭と豊かな髭に覆われている。


「ミノレ」と彼の発した声の余韻が特別な波長で耳に残っている。僕はどうして良いかわからず、村人たちと領主一同の立場が作る距離を隔ててティムを眺めるしかなかった。


「あのお方が父親なのか?」


 今の僕の保護者であるマンバが低い声でそう訊いた。僕はマンバにわかるように小さく頷く。


「そうだよ。僕の父親だ」


「恨みはあるのか? その、お前死んだと思って、そう扱われたことに対して」


「言わなかったっけ、恨みのようなものはまったくない。ただ、父親であることはわかるけど記憶はないから、自分でも戸惑っているだけなんだ」


「そうか、それじゃあ駆け寄って抱きしめてもらうといい。子どもは父親にそうしてもらうものだ」


 思いがけない優しい口調に僕は驚きマンバを見上げた。同時にこの男の父親に対する尊敬の念を思い出す。おそらく彼はそうしてもらったことがあるのだろう。そして、あるいは今も父親がいたならばそうしてもらいたいのかもしれない。


 しかし僕には父親に抱きしめられた記憶がない。だからそれを欲しがる筈がないのにもかかわらず、自分の体がティムに向かって歩み寄りたがっていることが僕にはわかった。ただそのやり方がわからないだけなのだ。


 それを遠慮や忖度と受け取ったのかもしれない。マンバはトランキライザーに発言の許可を得ると、「このミノレをそちらに行かせてもよろしいでしょうか!」と大きな声で提案をした。


 トランキライザーは柔和な笑みを浮かべて小さく手を挙げ「その必要はない」と示すと、ゆっくりと滑らかな動きでこちらへ歩き寄ってきた。


 領主が移動したのだ。その従者たちは速やかにそれに伴い動く。どう反応して良いものかわかりかね、硬直したように動くことのできない僕たちと一定の距離を残してトランキライザーは歩みを止めた。


 僕にはその意図がわからない。しかしベスの村の村長代理としてこの場にいるパウにはわかったようだった。


 彼は速やかに片膝をついて頭を垂れた。それで気づいたのか、マンバとマルクがそれに続く。僕とクロルはさらに遅れて見よう見まねで挨拶のポーズを作った。


「この度は我らが領主トランキライザー様の貴重なお時間をいただき恐悦至極に存じます」


「挨拶はよい。楽にせよ」


 手の甲への口づけを許したトランキライザーは僕たちに頭を上げさせ、「ミノレ」と僕の名を呼びその場に立たせた。「こちらへ。ティムの元へ行くとよい」


 促され、僕は大人たちの視線を浴びながら父親の元へと歩いた。正直とても恥ずかしい。一挙手一投足に注目されることを快感に思える人もいるのだろうが、僕にはとても無理だ。「見ないでくれ!」と叫びたくなる。


 心臓が高く鼓動する。緊張と興奮と不安がごちゃまぜになったような状態でじわじわと進んだ先には手を広げて僕を待つ父親の朴訥とした姿があった。


 その表情がわずかに曇っているように僕には見えた。僕とは別の意味で不安なのかもしれない。マンバも指摘した点、つまり、重病に倒れた僕を死亡扱いにしたことだろう。そこから僕は蘇生し、こうして会いに来たわけだ。そのこと自体は喜ばしいかもしれないが、死亡宣告をした者には罪悪感と後悔の念をを与えることだろう。


 その負の感情を解消できるのは僕だけだ。奇跡の再会を果たした親子が涙ながらに抱擁を交わすというテンプレート的なイベントを注目の中こなすのは苦痛だが、仕方がないことかもしれない。僕は覚悟を決めてティムの広げた腕に飛び込んだ。


 小さな子どもの体を包み込む両手を全身で感じた瞬間、意図などしていないにもかかわらず、勝手に涙が溢れ出した。


「なんだこれ!?」


 不測の自体に僕は動揺してしまう。流れる涙を呼び水にしたように、なんとも言いようのない複雑な感情がポンプのように湧き出してきた。それは局所的には安堵感のようなものであったり、また孤独感のようなものでもあった。


 ごつごつとした岩石のように明らかに消化不可能な塊だ。それを処理しようという無駄な抵抗を諦めた僕は涙を流れるままに放置し、考えることも放棄して、ただただティムの大きな腕に包み込まれるままにした。


 処理不可能な岩石を抱えているのはティムも同様なのだろう。しばらくそのまま沈黙が続き、やがて抱きしめる手を緩めて僕の目を見た長身の男は口を開いた。


「なんと言っていいものか、とにかくお前に謝りたい。謝って許されることだとは思っていないが、とにかくすまなかった」


「いいや、父さんに謝る必要はないと思う。よく覚えてはいないんだけど、母さんを守る気持ちもあったんだろ、僕が父さんでも同じ判断をしたと思うよ」


 そう言った僕をかかえたまま、ティムは目をぱちくりと瞬いた。


「しまった」と僕は思った。何の準備もせずに実の父であるティムに発言をしてしまった。それは僕を少年ミノレと認識し、またその少年を良く知る者に強烈な違和感を持たせることだろう。


 話し方、話す内容、言葉遣い。発言がひとに与える印象はとても大きく多様なのだ。「こんなの俺の息子じゃない!」と叫ばれないものかと、ヒヤヒヤしながら父親の様子を僕は伺う。彼は再び僕を抱きしめた。


「――そうか、ミノレは記憶を失くしたんだったな」


 そしてティムは自分を納得させるように、しみじみとそう言った。「報告は受けていたが、正直こんなにショックを受けるとは思わなかった。私がやったことの結果だとしたら本当に申し訳ないことだ」


 声からティムも泣いていることがわかる。胸の息子に拒絶感を持ってもおかしくない大きさの違和感を持っているだろうに、僕を抱きしめる腕の力はかえって強くなったように感じられた。心地よい圧迫感だ。


「苦しいよ、父さん」


 少し笑って僕は言った。すぐに腕の力が抜かれていく。圧迫感の名残を惜しみながら、僕は頬に残った涙を拭う。「僕は誰も恨んでいないし、今の生活が不幸でも不満でもない。むしろもう少し続けたいとさえ思っているんだ。だから、もしよかったらこのまましばらく放っておいて欲しいんだけど」


「母さんはどうするんだ? お前の顔が見たいだろうし、帰ってきて欲しいと思っているぞ」


「今の僕の有様には父さんでさえショックだっただろ? 母さんにいつ、どういう形で会うべきか、申し訳ないと思うんだったらそれを考えてくれないかな。僕はそれに従うよ」


「しかし、帰ってくる気はないんだな?」


「それを前提に考えてほしい。なかなか難しいことだとは思うけど」


 ティムは困ったように髭を撫で、やがてゆっくり頷いた。「お前の言う通りにしよう」


○○○


 晩餐会がはじまった。


 ベスの村側に座っているのは村長代理だというパウを中心に、右手にその弟マルク、そして左手に僕とクロルが並び、最後に僕らの保護者であるマンバという配置になっている。プロマジン側は我らが領主・トランキライザー様を中心に、右手にティム、左手にトニー。選考会で司会や審判のような役回りをしていたマヌがトランキライザーの後方に立っている。


 机はやや楕円状のものだった。対角線上に発言をしてもそこまで遠く感じることはなく、その豊富なスペースは食事に役立つことだろう。大人の会議がはじまる気配に自然と緊張感が増していく。


「ねえねえ、今日はどんなご飯だと思う?」


 そんな緊張感とは無縁な少女は僕の腕をつついてそう言った。チラリとマンバの様子を伺い、私語を咎められないことを確認した僕は、しかし返答の材料を持ち合わせていなかった。


「領主様たちの食事内容なんて想像もつかないな。楽しみに待つしかないんじゃないの?」


「それはそうなんだけどさ、想像する楽しみってあるじゃない。あたしはきっと、とっても甘くて大きなパンが出てくるんだと思うけど」


「甘いパン? それは美味しそうだけど、食事に合うかは微妙なところなんじゃないかな」


「それじゃあこれまで見たこともないようなお菓子とか」


「ご飯の話じゃないのかよ」


「お菓子か。食後に持ってこさせよう」


 そう発言したのは柔和な笑みを浮かべたトランキライザーだった。彼は隣に座るトニーに目配せをし、トニーはどこからか近寄ってきたウェイターのような男に何かを小声で耳打ちをした。


「お菓子! いただけるんですか?」


 目を輝かせたクロルがそう言う。これから晩餐会がはじまるというのにその後のメニューを期待しているような言動がどこまで許されるのかと僕はヒヤヒヤしていたが、誰も少女の発言を咎めることはしなかった。


 トランキライザーは深く頷き、「しかし、これから食事がはじまる。お残しするような悪い子におやつは与えないのでよく味わって食べるように」と冗談めいた諭すような口調で言った。


「はあい」とクロルは純粋な女の子の調子で答える。微笑ましい光景だ。そうしているうちに卓上のグラスに飲み物が注がれ、食前の祈りを皆で呟いた後、乾杯の音頭がトランキライザーによって取られることとなった。


「かんぱ~い!」


 前回と同じくどこか気の抜けたような合図でグラスを傾ける。今日は酔っぱらわないようにしなければならない、と覚悟の上で液体を口に迎えると、果実の爽やかさが僕の口内に満たされた。


「これは……?」


「お前らの分は頼んで酒ではなくしてもらった。好きなだけ飲むといい」


 睨むような口調でマンバが僕にそう言った。想像はできるが、前回の酔っぱらった僕の言動は彼にとって背筋の凍るような経験だったに違いない。申し訳ない気持ちで背中を丸めるようにして、僕はちびちびとジュースをすすった。


「酒がよければ用意させるが?」


「いえ、トランキライザー様。僕も懲りているので遠慮します」


「――不良息子め、私の知らないところで酒に溺れていたとは。そんな子に育てた覚えはないぞ」


「育てられた記憶がなくなっちゃったんだからしょうがないだろ」


 大げさに肩をすくめてみせた僕の態度が笑いを誘えてくれたらしい。僕ら親子の関係性をデリケートな話題にさせず、場を明るい雰囲気にすることに成功した僕は勝利の美酒を傾ける。ノンアルコールの味わいだった。


 前菜はハムのような肉類とチーズ、そしてポタージュスープのようなものだった。ピエルナスを食べた日と同じく素材を活かしたようなメニューである。酒のツマミに最適だと当時は思ったものだったが、ミックスジュースのようなものを与えられた今の僕には物足りない。


 そう思っていると、僕とクロルにパンの入った籠が運ばれてきた。


「子どもたちはパンでも欲しかろう、好きなだけ食べるがよい」


 トランキライザーの有難い申し出にクロルは瞳を輝かせた。僕にとってもありがたい提案だ。僕たちの喜ぶ様子に満足したトランキライザーはにっこりと微笑み、「とはいえ、甘くて大きなパンはないがな」と冗談めかして付け加える。


「大丈夫です。後でお菓子をいただけると伺っていますので」


 クロルの言質を確認するような鋭い眼差しをトランキライザーは柔和な顔で受け止めた。


○○○


 会談の話題は主にピエルナスのことだった。世間話のような内容から入り、次第にベスの村で試作したゴールについて発表していく。さすが村長代理ということだろうか、器用に食事をとりながら、パウは滑らかに話を進めた。


「――というわけで、私たちは現在底を抜いた籠のようなものをゴールとして使用しています。工夫を凝らし、ボールが正しく通り抜けた際に、特有の音色が奏でられるようにいたしました。これにより、シュートが成功した場合とただ近くを通った場合を判別することが可能です」


「なるほどな。ティムはどう思う?」


「面白い試みだと思います。――是非実物を見てみたいものだ」


「もちろん持参しています。ご覧になりますか? 旅の埃を十分払えていないので、食事が済んでからお目にかけようと思っていたのですが」


「そうだな、そうしよう。トランキライザー様もご一緒されますか?」


「私はよい。協議・調整した後、最終形だけを報告せよ。その際必要であれば実物も見ることにしよう」


「承知しました。それではこの後私は別室で実物の査定をすることにしよう、君たちは誰が来る?」


「私と、発案者であるこのミノレ。よければ球師のマンバは早めに休ませてやりたいのですが」


「そうか、中座を許す。明日は励むとよい」


「もったいないお言葉、感謝します」


 マンバは深々と頭を下げてそう言った。僕の頭は自然とメンバーを確認する。僕とパウがバスケットの確認に付いて行き、マンバは宿場へ戻る。残るはマルクとクロルだ。クロルはトランキライザー様に甘えて素敵なお菓子でも貰おうと思っているのだろう。


 問題はマルクだ。パウに名を挙げられなかったけれど、この部屋にクロルと残すというのはあまりに残酷な仕打ちなように思われた。マンバがいなくなった後の保護者枠として必要なのだろうか?


 マルクはここまでの会談の中でもほとんど発言することはなく、寡黙に飲食を進めてきていた。気持ちはわかる。会話に混ぜて欲しいというより変に関わらせてくれるなと思っているかもしれないし、あるいはここに来る原因となった僕の発言に対して恨むような気持ちにさえなっているかもしれない。


 そんな宙ぶらりんの状態になったマルクを救ったのはトランキライザーだった。


「そなたも行って構わんぞ。護衛はマヌとトニーで足りている、私はクロルに付き合ってもらってここでお菓子を食べるとしよう。クロルはそれをどう思う?」


「とても素敵だと思います!」


 シャンとした態度でクロルは手を挙げそう言った。「ほらマルクって元々それを作るのにたくさん関わったから一緒に来たんでしょ? だから一緒に行って説明しないと意味ないよ」


「ほう。そうなのか?」


 本日はじめてマルクに興味を持ったのかもしれないティムの問いに、「ええまあ」と緊張まみれにマルクは答えた。


「それなら君も来るべきだ。色々話を聞かせてくれたまえ」


「いってらっしゃい」とクロルは言った。


 そして僕たちは別室でバスケットゴールをお披露目した。ティムはプロの目線で鑑別し、パウやマルクに色々と訊いた。そのうちいくつかはパウには対処不能な深さの問いで、技術担当のような立ち位置のマルクは楽しそうに返答をしていた。自分の技能がお偉い責任者に理解されるのはさぞ面白いことだろう。


 僕はというと、発案者ということでこの部屋に連れて来られてはいるものの、実際することはろくになくて暇をもてあそぶことになった。大人たちのディスカッションに耳を傾けながら、部屋の様子を眺めまわす。おそらくこの部屋はピエルナス関連の執務室のようなものなのだろう。あるいはティム用の部屋なのかもしれない。


 概ね片付いてはいるけれど、それでも使用中の資料はわずかに散らばっていた。そしてその中に模型のようなものがあるのに僕は気づいた。


「――これは」


 直方体の建物の模型。僕には体育館にしか見えなかった。


 

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