第14話 ボール売り
「これがそう?」
市場の中でもかなり端の方にある、小さな露店に僕らは並んだ。売る気がないのか、商品の入った籠をアピールすることもなく、店主と思われるおじさんはぼんやり僕らを眺めている。
「これがそうよ」とクロルは言った。
「なんだ客か? 冷やかしなら帰ってくれよ」
無愛想な店主が僕らに言った。確かに子どもふたりの来店は売り上げを期待できないことだろう。
「お客よ。ひとつ見せてもらってもいい?」
「仕方ねえなあ。ほらどうぞ」
面倒くさがりながらもおじさんは籠からボールを出してくれた。その球形に僕の心は色めきだつ。薄汚れた茶色のような色合いだろうと関係ない。ボールだ。大きさはピエルナスより小ぶりだが、この子どもの体にはかえってありがたいかもしれない。
僕は両手でボールを受け取った。喜びと同時に湧き上がったのは驚きの感情だった。
「重!」
そのボールは僕の想像をはるかに超えて重かった。伸ばした細腕では保持しているのも一苦労だ。その場で弾ませてみようとピエルナスよろしく地面にボールを叩きつけると、ほとんど跳ね返ることなくボールはその場に転がった。
なんとも言えない空気が漂う。「ほらね?」と言いたげなクロルの僕を気遣うような表情と売れることなど期待していないといった風情のおじさん、そしてその重さと反発力のなさからボールが中空の構造をしていないことを頭に浮かべる僕が織りなす空気だ。
「このボールって売れるんですか?」
僕はおじさんに訊いてみた。
「ひどいことを訊くガキだなあ、わかった、教えてやるけど売れねえよ。今これだけ売れないんだから今年はだめかもしれねえな」
わっはっは、と笑いかねない朗らかさでおじさんはそう言った。見たところこのボール以外に売っているものはなく、その唯一の商品の売れ行きの悪さを予測しながらも明るい態度を取っている。不思議なことだが悪い気はしなかった。
「どうする? 買うの?」
訝しげな顔でクロルはそう訊く。僕は肩をすくめてみせた。
「買ってもいいの?」
「まあ、いいわよ。そんなに高いものじゃないし。ただこれを買うならあんたのお土産はそれで終わりよ」
「それなら是非欲しいものだと思うよ」
「本当に? 物好きねえ」
「まいどあり」とおじさんは言った。「ブレスなしだろ。銀貨で払うか?」
「嫌よ。じきに兄が来るからそのとき買うわ。売り切れたりしないでしょ?」
「――たぶんな」
おじさんは肩をすくめてそう言った。
そして僕は会話の流れから彼らがブレスで売買の決済を行っていることを察した。以前マンバはブレスがなければろくな仕事にありつけないというような内容の発言をしていた。おそらくあの腕輪は金銭面での様々な働きを持っているのだろう。キャッシュレス世界というわけだ。キャッシュレス世界における通貨の使用は割高なものとなるのかもしれない。
「マンバが来たら買ってもらうからそれは一旦返しなさい。あたしのお土産も探さないとね」
クロルはそう言い、僕は素直にボールをおじさんへ返した。おじさんはボールを受け取り、興味を持った笑顔で僕を見る。
「ところで坊やはこのボールを何に使うんだ? 足派なのか?」
「足派? 何がです?」
「ピエルナスだよ。このボールは本物に比べて重くて弾まないから手のピエルナスには到底使えない。売れてる街ではだいたい足ピエルナスの練習に使うやつが多いんだ」
「なるほど。――それなら僕は足派ではありませんよ」
「じゃあなんで?」
「なんとかしてこのボールを手で扱えるようにできないだろうかと思ってるんです。改良ですよ。実験です」
「へええ。もしそんなことができるなら、俺が売ってやってもいいぞ。お前が作る、俺が売る。夢が広がる話だな?」
「本当ですか? もし本当なら投資の協力が欲しいです」
「投資! 馬鹿か、お前みたいなガキに金を出すわけがないだろ。俺は商人でお前は客だ。お金はお客が出すもんだ」
「今のところはそうですね」
僕は笑ってそう言った。おじさんも本気にしてはいないだろう。しかし少し具体的な話を出したからか、その目から笑いの表情がなくなっている。僕はクロルに促され、ボール売りの露店を後にした。
○○○
「さっきのは何よ?」
露店から離れるや否や、クロルは僕を問い詰めた。「あのボールを改良だなんて本当にできるの?」
「やってみないとわからない。でも、できたらいいなと思ってるよ」
「なにそれ」
「そうだなあ。ねえ、クロルはあのボールの問題は何だと思う?」
「問題? ピエルナスのようには使えないところでしょ? もう皆にバレててほとんど誰も買わないわ」
「バレたんだ。それっていつの話? 結構最近だったりするのかな」
「一昨年くらいじゃなかったかしら。街で流行ったのはもっと前かもしれないけれど、村でも売られ出したのよねえ。たぶん街で売れなくなったから流れてきたんだと思うんだけど、まあ村でも最初はそれなりに売れてたわ」
「へえ。僕は村では見たことなかったけどな」
「そりゃあ売れないからね。街から村に持ってくるのもただじゃないでしょうし、わざわざ売れないものを運びはしないわよ。あの店もそのうち潰れちゃうんじゃないの?」
あまり興味がなさそうにクロルはそう言い、市場に売られる素敵な食べ物や装飾品の類を見て回りだした。僕への追及はおざなりになり、やがて自然消滅する。訊かれたところで答えられる範囲が限られているので僕は正直助かった。
ボールを触ってわかったことがある。それはあのボールがゴム製だということだ。おそらくゴムの木から天然ゴムを取り出し、それをそのまま球形に成形しただけなのだ。だから芯までゴムに満ちていて、弾まなければ軽くもない。ピエルナスのようには使えない。
しかし僕はボールのあるべき姿を知っている。それほど構造面を詳しく知っているわけではないが、中空の構造を作るべきであることや、皮を利用することで補強できることも知っている。かつてあのゴム毬が売れていたということは確実に需要があるわけだ。そしてその需要は満たされていない。
仮に僕がビジネスマンだったら舌なめずりする状況だろう。ひょっとしたら、不十分な改良であったとしても、方向性の正しさを示すことができれば何らかの利益を得られるかもしれない。場合によっては僕の生家の助力を借りられるかもしれないし、あるいはトランキライザーに話を持っていくことも満更不可能ではないかもしれない。
そしてもっとも大切なのはリスクが少ないということだ。何か条件がついたり借金をしたりしてはじめる試みではないのだから、割に合わない大きな困難に陥ったらさっさと辞めれば良いのだ。誰にも迷惑はかからない。
どうやって中空の構造を作れば良いだろうかと考えながらクロルのお買い物に付き合った僕は、「どっちの方が似合うと思う?」といった類の女子特有の質問に対して上の空の返事を行ったことにより、こっぴどく怒られた。大げさに言えば奴隷としての自覚を持てといった類のお叱りを受けたのだ。僕に弁明の余地はなかった。
やがてマンバと合流した。バッシュに相当する何かを手にした筈の男は肩から見たことのない袋に入った荷物を下げていた。おそらくこれがそうなのだろう。その紐に被せるようにしてピエルナスを肩に乗せている。あるいはこれが球師としての正しい出で立ちなのかもしれず、マンバの立ち居振る舞いは誇りに満ちているようにも見えた。
「買い物の目星はついたのか?」
「ばっちり! そういえば、この子あのボール買うんだって」
「ほんとかよ。ちゃんと問題点を教えてやったのか? クロル、もしあのボールで練習しようと思って買うんだったら、やめといた方がいいと思うぞ」
「重くて弾まないからだろ? それはわかってて買いたいんだ」
「いや。――まあそれもあるんだが」
マンバはそこで言葉を区切り、「そうか、クロルは自分で遊んでたわけじゃないもんな」と納得の表情を浮かべた。どうやらあのゴムボールには他にも欠点がとあるらしい。
「あのボールな、寒くなるとカチカチに硬くなって使えなくなるし、暑くなるとぶよぶよに柔らかくなって使えなくなるんだ。今はたまたま良い気候だけど、じきに硬くなってしまうだろう。工夫して遊ぶもクソもないぞ」
「なるほどね」と僕は言った。
そして僕は考えた。ゴムは確かに熱に対して敏感で、そのような変化を起こすことだろう。しかし寒空の下屋外のコートで行うバスケットボールに大きなやりづらさを感じたようなことはない。何か特別な加工をする必要があるのかもしれない。
特別な加工。それは一体何だろう?
補強に使うのががどのような動物の皮なのであろうとゴム自体が気温レベルの温度の上下に敏感であればわかりそうなものである。確かに冬のボールは硬かったような気もするが、少なくとも使用に不満が出るほどではなかった筈だ。すると、ゴム自体に何か工夫が必要なのかもしれない。
「どうする? やめとくか?」
ニヤニヤと笑い、マンバは僕にそう訊いた。挑発するような笑みだ。その誘いに乗ったわけではないけれど、僕は翻意しなかった。
「いや買うよ。それが僕に許されるならね」
「いいだろう」とマンバは言った。
そして僕らは再びボール売りの元へと足を運んだ。おじさんはもう来ないだろうかと思っていたのか驚いた顔で「買うのかよ」と呟くようにして言った。
「買うって言ったでしょ? 安くしてよね」
「そうだな、面白そうだしな。ひとつの値段でふたつ売ってやろう」
「売れないボールがたくさんあるからでしょ? それなら半額で売ってちょうだいよ」
「それがわかるなら駄目だってこともわかるだろ。いらないか?」
「もちろんいるわ」
クロルはそのように交渉し、僕はふたつのボールを手に入れた。ありがたいことだがこれから村まで持って帰ることを想像すると気が滅入る。すると、会計を済ませたマンバと目が合った。
「――仕方ないな。ひとつよこしな。ひとつはちゃんと自分で運ぶんだ」
そう言いマンバはゴムの塊を掴んで取った。僕はニヤニヤ笑いを口に浮かべる。
「なんだよ?」
「いやあ、妹の交渉を無に帰したくない兄の優しさかと思ってね」
「アホらしい。さっさと帰るぞ」
表情を変えずにそう言うマンバを僕は眺めた。彼は否定をしなかった。ひょっとしたら新しいツンデレの形だろうか?
そんな僕に構わずマンバは歩き出していた。僕らに用事は残されていない。クロル、僕、とマンバに続く。「坊や」と店主に呼び止められた。
「本当にそのボールを改良するのか? ――できるのか?」
「さあね。やってみないとわかりません。なんせはじめて触るものですからね」
「その割にはアテがありそうな顔をしてるな? もし本当に改良ができるなら、何かと相談に乗ってやろう。またここに来るといい。俺の名前はハロという」
「僕はミノレ。また会えるといいですね」
「生意気なガキだ」とハロは言った。
そして帰る道すがら、僕はゴムのことを頭に浮かべた。かつてどこかでゴムのことを勉強した経験があるのだ。しかしその記憶は曖昧で、切れかかった糸を手繰るようにして知識を引き出す必要がある。
大学低学年時の教養科目で履修したのだろうか? しかし僕は暗記科目が大嫌いなので必修でない化学の講義を選択したとは考えづらい。
それではどこだ。高校化学か。有機化学の単元でゴムについて学んだか?
――高分子化合物だ。僕は記憶の取っ掛かりを見つけ出すことに成功した。2次試験対策での勉強の中、天然ゴムや合成ゴムの化学的性質について僕は学んだことがある。
問題はその内容がほとんどまったく思い出せないということだ。おそらくパラパラと参考書をめくり、その化学式を書いて覚えようとしたこともあったのかもしれないが、そんな経験はこれまでに過ぎた歳月の中で知識の藻屑と消えている。
重たいゴム毬を両手に抱え、ゴム臭さに耐えながら右足と左足を交互に動かす。この重労働を言い訳に兄妹の雑談に混ざることなく歩みを進める。少しずつ変化する景色を見るともなしに目に浮かべ、具体的な思考をすることなく何か思い出せないかと雑多なオモチャ箱のような記憶のゴミ箱を引っ掻き回す。
無理だ。何も思い出せない。思い出せない苛立たしさや悔しいという感情よりも納得と諦めの気持ちの方が強かった。少なくともこれ以上思い出そうとするのはただの無駄だ。暇つぶしでなければやめるべきことだろう。
僕は思い出すのではなく、推測しようと考えた。僕がゴムについて学んだのは高校化学の高分子化合物の単元だ。これはおそらく間違いない。
ならば、その化学構造は炭素を主成分としたものである筈だ。その温度の変化への繊細さは単純な構造を思わせる。おそらくこの脆弱さを改良したのが合成ゴムで、単純だけれど特有の構造に由来する弾性をもった化合物が天然ゴムなのではないだろうか。
つまり僕の果たすべき仕事は大きくふたつだ。すなわち、今のゴムの塊ではなく中空の軽い球形へとなんとか成形することと、何らかの反応を施し弾力を保ったままに化学構造を変化させ、ゴムの熱への耐性を上げさせることである。
果たして僕にそんなことができるだろうか? できるかもしれないし、できないかもしれない。それを知りたいと僕は思う。具体的な新しい目標を手にした僕の中から好奇心と探究心が湧き出てくる。その助けを借りた僕の足取りは軽い。
「何か思いついたの? ウキウキした顔しちゃってさ」
からかいの口調でそう言うクロルに僕にニッと笑って見せた。
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