第13話 プロマジンの街

 

 目が見える。意識が戻ったことにより、それまで自分が眠っていたことが認識された。


 間違いなく二日酔いだ。ぼんやりとした頭と晴れない不快感がそれを僕に教えてくれる。柔らかい枕に頭を押し付けるようにして寝返りを打つ。左手で乱暴に頭を掻き、そのままの流れで顔をこすると、風呂に入っていない不潔さが僕の手の平に広がった。


 大きくひとつ息を吐く。二日酔いを解消するには水を飲んでたらふく寝るしかない。僕は左手の汚れを衣服に擦りつけ、それが可能な日程だったかを十分機能していない頭で思い出そうとした。


 そして気づいた。今日が何曜日だったかがわからない。


 レジデントとして民間病院で働くのが週に4日で医局員として大学病院で働くのが週に1日だ。そこにアルバイトの夜勤や当番が組み込まれたものが僕のシフトとなるため、曜日の把握は僕の生活において何よりも大事なことである。


 この危機的状況を把握した僕の脳は何らかの脳内物質を分泌していることだろう。急激に意識が鮮明となる。ただちにカレンダーと時計を確認する必要がある。目覚まし時計なしに目を覚ました今がいったい何時なのかも僕はわかっていないのだ。


 がば! と身を起こしたところで二日酔いの状態であることを思い知らされた。体が重い。痛む頭が重力に逆らわず身を横たえるべきだと訴えてくる。こんなにひどい二日酔いは久しぶりである。


 出汁だ。出汁が飲みたい。枕に頭をうずめた僕は、自分の生活範囲にあるうどん屋の位置を脳内地図に広げて眺める。僕の出身地域ではまったくコシのない飲めるようなうどんが主流だった。それは出汁を楽しむのに適した形で、僕はたらふく酒を飲んだ次の日は必ずうどんを食べると決めている。


 出汁のたっぷり注がれたうどんに野菜かきあげをトッピングするのだ。かきあげの油が出汁に溶け込むハーモニーを夢想する僕は仮想の幸福に身を浸す。1分間だけこのままでいようと考えながら、その1分を測る手段を持っていないことに思い当たった。加えてその1分すら惜しい状況かもしれないという恐れもあるのだ。


 僕の怠惰な心は恐怖心に敗北した。学生の身分から国家資格を取り卒業して働きだしたところで社会人としての自覚などさらさら芽生えはしなかったけれど、この恐怖心の強さが僕の医師たるゆえんなのかもしれない。


 そんなことを考えながら重い頭を何とか持ち上げ改めて周囲を見渡すと、同じベッドに女の子が横たわっているのに気がついた。


 クロルだ。依然として寝息を立てている少女を目にした僕は、急速に認識を改める。僕は医師ではなくただの少年ミノレだ。この少女の持ち物で、しかしある程度のお偉いさんの身内でもあるらしい。昨夜は我らが領主・トランキライザー様のご相伴にあずかりピエルナスとアルコールを摂取した。レモンサワーのような口当たりの良いお酒をたらふく飲んだおかげでこうして二日酔いになっているわけである。


 ここはクロルとマンバの家ではない。ベッドは枯草で作られた粗末なものなどではなく、清潔なシーツに包まれた枕はふかふかだ。サイドテーブルのような台には半透明の容器に液体が半分ほど満たされていて、カップに注いで匂いを嗅ぐと、何か果物のような風味を伴う飲み物であることが察せられた。


 少なくともアルコールは入ってなさそうだ。僕は一息にカップを傾ける。おかわりを注いで余裕を得た僕は部屋の内部を改めて観察した。


 豪奢な調度品の類は見当たらずシンプルな造りだが、決して粗末な建物ではない。トランキライザーが足を踏み入れるところなのだから当然と言えば当然だろう。僕たちの横たえられていたベッドも派手ではないが上等だ。


 元々は寝室として使われる場所なのだろう。複数人で使用する当直室と言われれば納得のいく出来である。そこからベッドをいくつか持ち出し、空いたスペースにテーブルを入れて簡易食堂として使ったのかもしれない。


 そんなことを頭に遊ばせながら昨夜トランキライザーたちが入って来た扉を眺め、ちみちみとカップを口に運んでいると、その扉が不意に大きく開けられた。


 浅黒い肌に長い手足。マンバだ。「起きたのか」僕と目が合った彼はそう言った。


 不意を突かれたような気分になったが、考えてみればマンバがいるのは当然だ。僕の父親が明らかになったことやトランキライザーと会ったことなど多くの出来事があったのである種あやふやになっているが、元々僕とクロルはこの男の親族枠でここにいる。僕たちがこのプロマジンの街にいるのは彼の球師としての選考会が目的なのだ。


「おかげさまで」と僕は言い、カップの飲み物を飲み干した。


 マンバは鞄からいくつかの包みと何本かの筒を取り出しサイドテーブルいっぱいに並べた。「飯だ」包みの中はサンドイッチのような、具を中に挟んだパンだった。筒は僕も知っている水筒だ。二日酔いの出汁を欲する体にパンというのは食指がまったく動かない。


 僕は自然と水筒に手を伸ばし、栓を抜いてぐびりと飲んだ。そして盛大に噴き出した。


「酒じゃないか!」


 それはかなり薄いが確かなアルコールの風味を感じさせた。


「調子悪いんだろ? 少し迎え酒をするといい」

「それはアル中の考え方だ……」


 僕は目を覆ってそう言った。


 二日酔いの不快感を迎え酒で緩和させるというのはアルコール摂取によって中枢を麻痺させているに過ぎず、十分に代謝・排泄されなかったアセトアルデヒドの蓄積こそが二日酔いの原因なので、決して根本的な解決には至らない。むしろトータルでの症状は増悪傾向になる筈でありアルコール依存症に繋がる処置であるというのが常識だ。


 しかしそれは僕の中での常識だ。この場に適応はされないのかもしれない。


「酒の感じを体が拒否する。ありがたいけど遠慮するよ。パンはもう少ししたら食べられると思う。ありがとう」

「そうか、まあ無理するな。今日中に帰れば問題ない。おいクロルそろそろ起きろ。飯あるぞ」

「うう~眠いよ。気持ち悪い」

「だからだ。ほら飲め、食え。そして治せ」


 マンバはそう言いクロルに迎え酒を強要した。この未成年に対する飲酒を咎める権利は僕にはない。この一度だけで日常生活に戻るのならばそれほどリスクは高くないことだろう。


 会話のおかげか多少体調が整ってきた。遠くで鐘が鳴っているのが聞こえる。朝の鐘ということはないだろうから昼の鐘の音なのだろうか。ずいぶん寝坊したものである。


「これは昼の鐘?」


 同じ疑問を持ったのであろうクロルがそう訊いた。マンバは「違う」と首を振る。


「こいつも言ってただろ、街では鐘が3度じゃないんだ。これは3の鐘? とか言われるやつだ」

「じゃあそんなに遅くはないのね。お土産買って帰れそう?」

「お小遣いをいただいちゃったからな。市場にでも寄っていくとしよう」

「やったあ。でもさ、やれやれって態度を作ってるけど、本当はマンバも楽しみなんでしょ?」

「それはまあそうだな。だから早く食っちまえ」


 お楽しみが待っていることを知ったクロルは本当に二日酔いなのかと思われる早さで食べものと飲みものをやっつけた。特別な荷物を持たない僕らの出発準備はすぐに整う。僕は自分の首に通行証の役割を果たすナイフが下がっていないのに気がついた。


「マンバどうしよう、あのナイフが見当たらない。ひょっとしたら失くしてしまったのかもしれない」

「はあ? 何言ってんだ、あれはおれが昨夜回収しただろ」


 マンバはそう言い腰に下がったナイフを指差した。装飾からそれが昨日のナイフであることがわかる。自分の落ち度でないという安心感に僕は大きくひとつ息を吐いた。


「頼むぜまったく。もらった指輪は失くしてないんだろうな?」

「それはある」


 シャツの中に収納した細い鎖の先を僕は眺める。トランキライザーとの記憶が夢でなかった証がそこには確かに下げられていた。


◯◯◯


 どうやらマンバが今のところ本職の木工職人として働く工房は街からの発注も受けることがあるらしく、プロマジンの地理もある程度は把握できているようだった。


「まあ詳しくは知らないけどな。覚えておくべきなのは、とにかく教会がど真ん中に

あるってことだ。だから迷ったら一旦教会に向かえばいい。鐘はどこからでも見えるしな」


 そう言いマンバが指差した先にはひときわ高い建造物が建っており、その頂上に大きな鐘がついていた。大きな鐘を補佐するようにやや小ぶりな鐘がいくつか連なっている。


「教会から北を向くと城がある。トランキライザー様のお住まいだな。おれたちは一応客人としてのもてなしをされたから、こうして城の近くに泊まれたというわけだ」

「お布団すごくふかふかだったね。どんな草でできてるんだろ?」

「たぶんあれは草の布団じゃない筈だ。でも何でできてるんだろうな。確かにふかふかだった」


 幸せな夜の感触を語り合う兄妹の姿を僕は微笑ましく見守った。ベッドの上に敷かれた寝具は草の布団ではなかったが、上等なマットレスというわけでもなかった。おそらく簡素な羽毛か綿のようなものでできていることだろうと僕は思った。


 その自分の予測を語る代わりに僕はマンバに質問した。「この建物は何?」


 街の中心である教会のほとんど正面という一等地に建った建物は一風変わった出で立ちをしていて、とても普通の商店のようには見えなかった。木造建築も珍しくない中完全な石造りの建物で、しかし決して美麗な白一色というわけではない。むしろ無骨な印象を僕は受けた。


「ああそれか? それは火屋だ」

「ひや?」

「燃料とか蝋燭とか着火剤とか、燃えるもの全般を扱っているんだ。炎は聖なるものだし火事の危険も大きいからな、こんな素材で建てられ教会の管理を受けている」

「へえ。教会って神に祈っているだけじゃないんだね」

「馬鹿! その敬意を欠いた物言いを咎められたらお前は殺されてもおかしくないぞ。早くもトランキライザー様の庇護を乞うつもりか」

「――そんなつもりはありません!」


 危ない危ない、あやうく生命の危機に瀕するところだった。僕は口をつぐんでそっと胸を撫で下ろす。


 どうやらこの世は教会の力がとても強いらしい。街の中心に陣取り経済にも少なくない影響を及ぼしているのだろう。宗教に関する認識をますます改める必要がありそうだ。


 燃料ということで硫黄の取り扱いもあるのだろう。わずかに漂う特有の刺激臭を感じながら、硫黄が取れるということは温泉でも湧いていないだろうかと豊かな自然に思いを馳せた。機会があればいつか誰かに訊いてみたいものである。


「お前の好きなピエルナスも教会の管轄だ。嫌われたらとても生きていけないぞ」

「そういうことなら嫌われるつもりはありません。――じゃあピエルナスの登録って、ひょっとして教会で受けるんですか?」

「そうだよ、よく知ってるな。ちゃんと神力を使って登録してくれるから、その後は持ち主の許可なく使うことができなくなるんだ」

「あれって具体的にどうなるの? マンバは知ってる?」

「もちろんおれは知ってるさ。見たことはないけどな、許可なく一定以上の刺激を加えると、爆発するとか針が飛び出てくるとか噂によって色々種類はあるけれど、とにかく嫌なことになるらしい」

「そんなことができるんだ」


 教会はすごいなあ、と僕は呟くようにして言った。


 神力。僕はそれを知っている。その不思議な力によって僕は今ここにいるのだ。アルマジロのような生物に細工を施し防犯機能を仕込むことができたとしてもまったく不思議ではない。


「さて、おれの目当てはこの店だ」


 マンバはある店の前でそう言った。「お前たちはどうする? このまま済むのを待っててもいいし、市場の方に行ってもいい。この道を行けばまっすぐだ」


「マンバはここで何するの?」

「靴を作るんだ。ピエルナス用の靴で、球師になるには必要となる」

「それって結構時間がかかる?」

「そうだな、足型を作って素材を細かくオーダーする筈だから、それなりに時間がかかるかもしれない」

「それじゃあ、あたしたちは先に行ってるわ。行きましょミノレ」

「う、うん」


 ピエルナス用の靴。僕は興味を惹かれていた。今マンバが履いている、それなりに立派な革製の靴ではなく専用の靴があるというのだ。あるいはバッシュのようなものかもしれない。


 しかし僕はクロルの付き人をしなければならない。ほとんど知らない街で女の子をひとりにするわけにはいかないだろう。当然僕はクロルに付いていくものだとクロルもマンバも思っている。マンバは小ぶりのナイフを僕に与えた。


「これは通行証にならないが、とにかく純粋な護身用だ。必要となるとは思えないが一応持ってろ」

「――うん」

「なんだよ靴が見たいのか? 心配しなくても帰ったら作った靴を見せてやるよ。それに、広場に行けばボールが売ってるかもしれないぞ」

「ボール!?」


 僕は目を輝かせてそう訊いた。まさかこの世界にピエルナス以外のボールがあるとは思ってなどいなかったからだ。その僕の期待ぶりを目の当たりにしたマンバは都合が悪そうに言葉を続ける。


「ああでもピエルナスみたいなのは想像しない方がいい。丸くて、ちょっと跳ねさせて遊べる程度のものだ。比べ物にはならないぞ」

「でもボールがあるんだろ?」

「――まいったな。本当に期待しない方がいいと思うんだけど」

「もうだめよマンバ、言っても聞かない。ミノレも見たらわかるんじゃない?」

「まあそうかもな。おれは言ったからな、そんなに期待するんじゃないぞ」

「わかったって。早く行こうよクロル」

「――はいはい。しょうがないわね」


 聞き分けのない子どもをあしらうお姉さんのような口調でクロルがそう言うと、僕たちはマンバと別れて市場への道へと進む。僕の胸は期待に膨らむ一方だ。


 もちろん市場で売られているボールに大きな期待をしているわけではない。あの深緑のアルマジロと比較することもおこがましい貧相な品質のボールであることだろう。


 しかし、それでもボールだ。品質が悪いと言うことは、逆に考えれば意外と安く手に入るのかもしれない。今僕が考えているのは何らかの工夫でそのボールの品質を高められるのではないだろうかということだ。


 何もないところからバスケットボールを作り上げることはできないが、僕はその完成形を知っている。目指すものがはっきりとわかっているのだ。それに向けていくらか近づけることはできるかもしれない。


 できるかもしれないし、できないかもしれない。大事なのは今の僕に失うものは何もないということだ。


 挑戦する価値はあるだろう。僕は努めて呼吸を深くゆっくり行いながら、強く脈打つ心臓を抱えるようにしてクロルと一緒に歩いていった。

 

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