第12話 酩酊
心拍数が急激に上昇し、呼吸が荒くなったのが自分でわかる。
不測の事態への警戒心に臨戦態勢が整えられる。椅子から軽く腰を浮かせて侵入者を見つめるのだが、男たちはそんな僕を意に介さず続々と部屋に入って来た。
全部で4人だ。ドアから入って右手に2人、左手に2人。左右対称に整列した彼らに導かれるようにしてさらに1人の男が入って来た。トニーだ。知っている顔に僕の警戒心が少し和らぐ。彼はそんな僕の様子を伺うと、厳しい表情を崩すことなく目だけで僕に合図した。勘違いでなければ「安心しろ」と言われた筈だ。
「我らが領主、トランキライザー様がお目見えである」
そしてトニーは僕たちにそう言った。続いて初老の男性が部屋へと入ってくる。まごうことなきお偉いさんの出現に、僕は反射的に立ち上がる。気をつけの姿勢でベッドのクロルの様子を伺うと、彼女はまだ静かに眠っていた。どうするべきかトニーに目で問おうとしたところで「よい」とトランキライザーの声がかかる。
「疲れているのだろう、そのまま寝させてやればよい」
「はっ」
返事をしたのはトニーだ。僕に頷いて見せた彼は、部屋の奥から素早く椅子を引いてくると、音を立てないスムースさでそれをベッドそばのスペースに設置した。ゆっくりとトランキライザーがそこまで歩み、優雅な動作で腰かける。子どもの体をした僕と視線の高さが合わされた。
このまま立っていても良いものだろうか? 僕は考えを巡らせる。
ひょっとしたら作法としてはトランキライザーを見た瞬間に膝をつく必要でもあったのではないだろうか。少なくとも先ほどの寛大な言葉に対する謝意を僕は表しておらず、またそのタイミングを既に失っていた。今更何かを口にすれば違和感ばかりが残ることだろう。僕は礼儀作法や常識を知らない。子どもの体であることがどれほどの言い訳となってくれるだろうか?
この息の詰まりそうな沈黙は僕が破らなければならないのだろうか。挨拶と共に簡単な自己紹介をし、会えた喜びと会話できる幸運に感謝すれば良いのかもしれない。しかしそれがどれほどこの場の常識にそぐわない振る舞いなのか見当がつかなかったし、自己紹介をしようにも、僕に話せることはほとんど何もないのであった。適切な挨拶の文句もわからない。
結局、口を開いたのはトニーだった。発言の許可をトランキライザーへ求め、受け入れられると、彼は僕を紹介してくれた。
「彼はミノレ、ティムの息子だった者です」
「ティムとはあのティムか――息子であった、とはどういう意味だ? そもそも奴の一人息子は死んだのではなかったか?」
「それが、生きていたようです。彼はその衝撃でか記憶を失い、ティムのことも私のことも、誰であるかさえわからなくなっていたというわけです。今は街を離れ、近隣の村で過ごしています。誘ってはみたのですが、しばらく帰る気はないようで、ティムの息子であるという自覚を失っているのでそのように表現しました」
「――なんと。それは辛い体験であったな」
トランキライザーは同情の眼差しを僕へと送った。僕は小さく作った笑顔でそれを受け、何か答えなければと考えた結果、「実はそうでもありません」と答えることにした。正直な心境を語る以外のより良い方法を思いつかなかったからだ。
「幸か不幸か記憶がありませんので僕は辛くはありません。むしろトニーさんや親たちといった、周りが僕の現状に心を痛めるのに申し訳ないと思います」
「なんと気丈な!」
トランキライザーは僕の返答を気に入った様子で、笑みを浮かべてそう言った。「――しかし困ることもあるだろう。この先何か困難に陥った場合は私を頼りにするとよい」
そしてトランキライザーは指にはめていた指輪のひとつを抜き取ると、片手を僕へと伸ばして向けた。トニーの様子をチラリと伺い近寄って良いことを確認すると、僕はその手へ近づき指輪を両手で受け取った。
「ありがとうございます。――その、いただいても?」
「よい。それは私の庇護下にあるという証明になるであろう、困ったときに使いなさい。しかし子どもの指には合わないかもしれぬ、トニー、何か調整するものを」
「それでは私の鎖を与えましょう。首からかけて、目立たないようにするといい。見せびらかしたくはないのだろう?」
そう言いトニーは細いチェーンを僕の首にかけてくれた。トランキライザーの指輪が通された鎖は細いがとても丈夫なようで、すれ違いざまに引っ張ったくらいでは千切ることはできないらしい。肌に沿ってフィットした首飾りはシャツの下に静かに隠れる。トニーにも言われた通り、目立つ必要はないだろう。
「気に入ったか? 私のことも頼ってくれて構わないぞ」
「はいとても。それでは早速相談したいことがあります。僕は覚えていないのですが、何かこの場にふさわしいお礼の仕方はありますか?」
相談に乗ってくれたトニーは肩をすくめて僕に教えた。僕は言われた通りにトランキライザーの前に跪き、膝に腕を添えて頭を下げた。
俯いた僕の眼前に年齢を感じる右手が差し出される。中指の大きな装飾の施された指輪がひときわ目立つ。そしてその手首には腕輪がピタリと巻き付いていた。
ブレスだ。かつてフィアマやマンバの手首に同様のものが見られたことを思い出す。様々な身分の人々が同じ道具を身につけているのだ。機能をよくは知らないが、存在としてはスマホのようなものだろうかと僕は疑問を頭に遊ばせながら、トニーに習った正しいお礼の作法をなぞる。
差し出された手の甲に口を付け、謝意を声に出して伝えると、そのままの流れで足の甲へとブーツの上から口づけをした。格好だけを考えればかなり屈辱的な姿勢となるが、身分の差が明らかであるのに加えて形式張った儀式感も手伝い、僕に忌避感はほとんどなかった。
「上手にできたな。トランキライザー様も気に入ってくださるだろう」
「うむ。大変な身の上だろうが、これからも励むとよい」
「この最上級の謝礼の作法は領主様や貴族相手でもなければほとんど使うことはないだろう。しかし、せっかくだから知っておくといい。いつか何かの役に立つかもしれん」
「ありがとうございます」と僕は言った。
◯◯◯
トランキライザーが訪問してきたのは当然僕に会うためではなかった。
僕との会話がひと段落つくと、トニーをはじめとした従者たちが目まぐるしく動き回り、決してあわただしくはない滑らかさで部屋にテーブルセットが設けられたのだ。
現在席についているのはトランキライザー。テーブルの上には食器の類が並べられ、食卓の様相を呈している。まさかここで食事をとるつもりなのだろうか? 食卓にはトランキライザーのほかに3つの椅子が備えられていた。
滑らかとはいえその大規模な仕事は少女の眠りを妨げた。まだ睡眠欲は残っているのか大きく寝返りを打った後、クロルは頭を掻きながら欠伸をし、ゆっくりとその上体をベッドに起こした。
「――あれ? なにここ」
クロルの記憶は選考会場で途切れていることだろう。僕は彼女の視界に入る位置に移動し、「おはようクロル」と声をかけた。
「ミノレ。ここは一体どこかしら」
「僕も詳しくは知らないけど、とにかくプロマジンのどこかだ。応援疲れしたクロルにトランキライザー様が部屋を貸してくれたんだよ」
「――そんなことある?」
「あったんだからしょうがない。僕も信じられないような気持ちだけどさ、どうやらお礼も直接言えるみたいなんだ」
「はあ?」
訝しげな表情を浮かべながらクロルは周囲を見渡した。知らない部屋の知らないベッド、その室内には食卓が設けられ、先ほど選考会場で遠くから見た初老の男がついている。
彼の傍にはトニー、そして背後には4人の男が待機している。段々と現実を認識するにつれ、クロルの表情に緊張と警戒の色が強く出てきた。
「よいよい、そのままで。楽にしているとよい」
トランキライザーはゆっくりと頷きそう言った。慈しみ深さを感じる声色だ。直接接触する機会が訪れるなど想像もしていなかったのだろう、観戦中のテンションを思い出したのか、クロルは顔を隠すようにして「――さ、先程はご無礼を」と絞り出すようにして言った。
隠れていない耳が真っ赤になっている。可愛らしいものだと他人事の僕は思った。
思った通り、トランキライザーはその振る舞いを咎めることはなく、トニーに目配せをして僕とクロルを食卓へと着席させた。
「これより調理されたピエルナスが運ばれてくる。滅多に食べられるものではないので大いに楽しんでいくといい」
食卓を整えながら、トニーはそのように説明をした。どうやらこれからピエルナスを食べられるらしい。確かにピエルナスは球技のボールとして使えるのみならず、貴重な食材として働くという話をかつて聞いたものだった。
「この残りの席にはトニーさんが座るんですか?」
「いいや、クロル。私は従者だ。主人や君たち客人たちと同席はしない。そこに来るのは今日活躍した君のお兄さんだよ」
「――マンバ!」
トニーの返答を待つまでもなく最後の客人が訪れた。よく日に焼けた浅黒い肌、精悍な顔つき、恵まれた体躯と長い手足。マンバだ。彼は室内に入るとまっすぐトランキライザーの元へと参じ、片膝をついて頭を垂らした。
「お招きにより参上しました。ベスの村、マンバでございます」
「うむ」
マンバは差し出された手の甲に口を付け、許しを得て頭を上げた。促されてひとつ残った食卓の席へとつく。すぐに背の高い容器に入った飲み物らしきものが運び込まれ、カップが4つ並べられた。
ひとつの容器からそれぞれのカップに液体が注がれる。
「――ああ、子どもたちのものは少量にし、果汁か何かを足してやれ。そのままでは飲めぬであろう」
トランキライザーのその台詞から察した通り、その中身は酒だった。食前酒なのだろうが、その原液が食前酒とは思えないアルコール濃度をしていることが、僕に与えられた果汁によってカクテル様になったカップの匂いから察せられる。あるいは蒸留酒なのかもしれない。
「この出会いと幸運をもたらす神に感謝を。マンバ、試合における其方の動きは見事であった」
「ありがたきお言葉」
「それではいただくことにしよう。乾杯!」
かんぱい!?
カンパーイ! と僕にとっても馴染み深い音頭と同時にカップたちが掲げられ、トランキライザーとマンバは手に持つカップを一息に空けた。ある種予想外だった乾杯の掛け声に面食らってしまった僕はひと呼吸遅れてカップに口をつけて傾ける。アルコールの刺激と柑橘系の爽やかさが同時に口内に広がった。
旨い。素直にそう思った。甘口のレモンサワーのような口当たりはいくらでも飲めそうな気分にさせられる。甘味と酸味の類まれなハーモニーにアルコールが彩りを加えているのだ。僕はただちにこれを気に入った。
「おいし〜」
どうやら気に入ったのは僕だけではなかったらしい。輝きの眼差しでくぴくぴと飲み干すと、名残惜しそうにクロルはカップをテーブルに置いた。
「気に入ったならおかわりをするとよい。――ほどほどにな」
「は〜い」とクロルは抜群の笑顔を見せた。
やがて食べ物が運ばれてきた。生ハムのような肉の類にチーズが少量添えられている。前菜ということだろう。手の込んだオードブルというより素材を楽しむようなメニューで、久しぶりに味うアルコールのツマミとしては最適だった。
話題の中心はクロルだった。試合中に領主様にコミュニケーションを試みてくる見た目も可愛い女の子なのだ。興味も引かれることだろう。僕は会話の邪魔をすることなく、クロルが現在12歳であることと、12歳ということは間もなく成人であることを知った。
クロルは成人式のようなものをいずれ控えているらしい。会話の流れから装飾品を買う幾ばくかのお小遣いを頂戴したクロルは「うわあ、明日何か買って帰ります!」とお年玉を貰った正月の子どものように目を輝かせ、トランキライザーは久しぶりに会った親戚のおじさんのような優しい微笑みでそれを見つめた。
そんな微笑ましい光景を肴に果汁とアルコールの幸せジュースを僕は飲み、小さな肉片を口へ運んだ。幸せなひと時だ。
その幸せなひと時にさらなる恵みがもたらされた。ピエルナスがやってきたのだ。
◯◯◯
深緑のアルマジロことピエルナスは真っ赤に茹で上がっていた。
いや、茹でたわけではないのかもしれない。詳しい調理法を僕は知らない。しかしその色合いと表面の質感は僕に調理済みの甲殻類を連想させた。
「ピエルナスを食べる機会は領主の私でも多くない。せっかくの好機を逃さぬように、神へ感謝を捧げるとよい」
トランキライザーはそう言い、ピエルナスの食べ方を実践して教えてくれた。ナイフのような器具を使って外殻の一部に切れ込みを入れ、そこを掴むようにして身をえぐる。足から抜き取り出される蟹肉を連想するのは真っ赤な外殻のせいだろうか? トランキライザーはぷるぷるとした身の部分を外殻に乗せるようにひっくり返し、「これを一口にいくのが至福だ」とお茶目な笑顔を見せながら口に運んだ。
そしてトニーがピエルナスの載せられた皿を運び、マンバ、クロル、僕の順にその身の一部を取り分けさせてくれた。あの弾力に富んでいた筈の外殻はサクサクとパリパリの中間くらいの手ごたえで切れた。ご機嫌なパイ生地を突き破るような感触に味への期待が高まっていく。
放射状に繊維が集まっているのだろうか。房ごとにちぎって食べられるパイナップルのように、外殻の下の身の部分は容易に分断して小気味よく収まった。半透明でぷるぷるとした質感は生の海老の身を彷彿とさせる。僕はトランキライザーの指南通り、大きく口を開けた中にそのすべてを放り込んだ。
口を閉じるとわずかな圧力が身にかかる。その物理的な働きは肉汁のようなものを僕の舌へと
その強烈な美味を楽しみながら、いつまでも現状の幸福を噛みしめる幸せと、より大きな快感を求めてピエルナスの身を文字通り噛みしめたいという欲望の両天秤に僕は揺れた。滲出液だけでこれほど旨いのだ。半透膜の薄皮のようなものを噛み破り、中の旨みを一度に味わうことは、いったいどれほどの快感を僕にもたらしてくれることだろうか? 死んでしまうかもしれないと僕は思う。死んでもいいと思ってしまうのではないだろうか。
しかしその行動はこの幸福の終わりのはじまりを意味する。いつまでも舌の上で転がしていれば連続的な旨味を味わえるのだ。
現状維持か? より高みを目指すか? 僕はピエルナスの身の代わりに自分の舌を噛みあわせに運んで痛くない程度に甘噛みをした。これで噛むという行動そのものに対する欲望は一時的に満たされる筈だ。より長く楽しむことができるだろう。
無理だった。膨れ上がった欲望は快楽の一括払いを僕に強いた。僕の意志とは関係なしに咀嚼筋や舌筋が勝手に連動し、見事な動きで僕の口腔内で旨味の爆弾を爆発させた。
口腔内で生まれた濃厚な香りが咽頭から鼻腔へ抜けるのがわかる。内部からダイレクトに伝わる嗅覚情報はそれだけで筆舌に尽くしがたい快楽を僕にもたらす。そしてその香りの元となるものは半ば液体の状態で僕の舌にまとわりつき、今度は嚥下の欲望を僕に伝える。しかし僕には他にも噛むべきものがあった。
ピエルナスの外殻だ。パイ生地のような触感で破れた平らなシートは僕の咀嚼を待っていた。
一息に噛んでしまうと、期待を裏切らない素晴らしい食感が訪れた。肉汁をまとったその味わいは北京ダックのようである。パイ生地のように多層的になっているのだろうか? 複雑なのに軽やかな歯ごたえでその構造を破壊すると、層の隙間に旨味の凝縮した汁が入り込む。それぞれ単独でも十分優れた味わいだろうに、美味しさの相乗効果を得られていることがよくわかった。
夢見心地で嚥下する。喉に味覚は無い筈なのに、食道を通る感触すらをも旨く感じた。
すっかりすべてがどうでもよくなっていたことに気がついた。慌てて意識を食卓に戻したが、マンバもクロルもピエルナスを食べたことなどなかったのだろう。その素敵な味わいに完全に魅了され、言葉を発する気などなくなっているのはどうやら僕だけではないようだった。
幸福に浸る彼らの様子をトランキライザーが満足そうに眺めている。僕が最初の一切れを食べ終わったのに気づいた初老の男は目を細め、「どうだ、ピエルナスは素晴らしい味わいだろう」と得意気に言った。
そしてトランキライザーはトニーへ目配せをし、僕におかわりするかと問うてきた。おかわりに関する礼儀や作法を僕は知らない。しかし同時に知ったことではなかった。
割り込むようにしておかわりを要求したクロルの態度を呼び水に、僕も便乗して何度もおかわりを重ねた。ピエルナスの味わいは甘口のレモンサワーとも相性がよく、満たされる欲望にその身を委ねるほかに僕にできることは何もなかった。
どれほどの時間がかかっただろう。あるいは驚くほど早かったかもしれない。この僕の小さな体はアルコールに蝕まれ、すっかり酔っぱらったその夜の記憶は失われていったのだった。
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