第9話 選考会の日

 

 今日のクロルは美しかった。


 ご婦人方の喧騒を避けるために毎朝早めに行う水汲みを、今朝はさらに早起きして行ったのだ。それは入念な水浴びを行うためであり、生活の垢を落としてこれまで見たことのない衣装に身を包んだ少女は目が覚めるような輝きを放っていた。


 彼女のやや浅黒い肌は日焼けによるものだと思っていたが、換気扇はおろか煙突も存在しない屋内の炉で日々調理などを行うことで、煤汚れのようなものの影響も強かったのだろう。僕の視線を受けニコリと微笑む表情には吸い込まれそうな印象を受けた。


「どう、似合う?」


 クロルはその場でくるりと回り、胸を張って僕を見た。その冗談っぽい仕草は彼女がそれまでまとっていたある種神秘的な雰囲気を台無しにする。僕は思わず笑ってしまった。


「黙っていれば綺麗だよ」

「なにそれ。あたしがご主人様って忘れてない?」

「失礼しました。正直なところを言うと、とても似合ってて可愛いものだと思っているよ」


 微笑ましい少女の態度に僕はそう言い賛辞を送る。クロルは「わかってりゃいいのよ」とぶっきらぼうに言い放ち、素直に褒められると思っていなかったのか、気恥ずかしそうに僕に用事を押し付けてきた。


 内容は薪割りだ。それなりに備蓄があり、急ぎの仕事だとは思えなかったが、「お出かけするんだからやり貯めとかないと。ほら行く行く!」と背中を押すように部屋から出され、社会的に彼女に隷属している僕は逆らうことなく手斧を取った。


 以前マンバにコツを教わった僕は上手に薪割りをこなすことができる。燃料として利用される大振りな木片はたっぷり蓄えられているが、確かに焚き付けに使うような細かい木切れは少ないと言えないこともなかった。


 不足に困ることはないだろうが、無駄な仕事とはならないだろう。僕はひと抱えの薪を薪割り台のそばにざらりと並べた。そのうちひとつを左手に持ち、右手に持った手斧を添える。僕は大きくひとつ息を吐く。


 この細長く切り分けたバウムクーヘンのような燃料を、さらに細く長い形に加工することが今回のミッションだ。細く長い形にすることで、持続的に燃焼するための木の塊が、一瞬で着火しすべてが燃え尽きるようになるのである。


 切り株を利用した薪割り台に木を備え付け、大きく振りかぶった斧でカコーンと割っていくのがいわゆる“薪割り”のイメージだろう。僕もかつてはそうだった。しかしそんなダイナミックな作業を行うのは薪割り職人の仕事であり、この村では皆ある程度の大きさまで加工された薪を彼らから購入し、必要に応じて各々さらに小さく割って使うというのが一般的であるらしい。


「うちがもっと裕福だったら焚き付けも買えるんだけどねえ」


 その常識を教えてもらった際にクロルは僕にそう言った。大げさな仕草で貧乏生活をアピールする様はやはり可愛らしいものだった。しかし村での彼らの経済的な地位がイマイチわからず、家主であるマンバがその貧乏ジョークを黙殺している中いったいどのようなリアクションを取れば良いものか、途方に暮れたのを覚えている。


 結局じっと黙っていた僕は、クロルから背中を強く叩かれた。「ちょっと、あんたが何か言わないと、あたしが強欲みたいじゃない!」と非難され、その場はなんとなしに収束したわけである。


 斧を振って固定した木片に切りかかるのではなく、切りたいところに刃を添えた形で斧と木片を両手で抱え、薪割り台へそのまま打ち付けるのがこの場合の正解だ。衝撃で刃が食い込み斧が固定されるので、今度はその斧を木ごと振ってやればよい。すっぽ抜けにさえ気をつければ空振りすることは事実上なくなる。


 木は年輪に沿って繊維の層のようなものが形作られているため、それに逆らわずに刃を入れれば驚くほど簡単に割ることができる。より慎重に、より細い焚き付けを作成するのは僕にとってチマチマとした楽しさをもった作業だった。


「いつまで割ってんの? 急がないと始まっちゃうわよ」


 集中して仕事をこなしていた僕にオシャレの完成したクロルが声をかけてきた。どうやらずいぶんとのめりこんでしまっていたらしい。僕は薪の残りと加工した焚き付けを決まった場所に丁寧に片付け、お出かけの準備を手早く済ませる。


 とはいえ僕に必要な支度など皆無である。僕とクロルの分のお弁当や水筒の入った鞄を肩にかけたら完了だ。


「よし、行こうか!」


 クロルは眩しい笑顔でそう言った。とても楽しみなのだろう。それは僕も同様で、あるいは彼女以上にウキウキ顔をしているかもしれない。


 今日はマンバが出場するピエルナスの試合をクロルと一緒に見に行くのである。


○○○


 ピエルナスはこの国における一大娯楽で、各街ごとにそれぞれのチームのようなものを結成し、しのぎを削っているらしい。村にはそれぞれ帰属する街があるため、街によっては下位の村からもピエルナスの選手を広く集めるところもある。


「ベスの村はどの街のお世話になってるの?」

「プロマジンという街よ。ピンとくる?」

「あいにくだけど、まったく思い当たりがないな。寂しいものだよ」


 ひょつとしたら“生前”この僕は、そのプロマジンという街で暮らしていたのかもしれない。しかし今の僕にはその名を聞いても肩をすくめる程度の反応がせいぜいである。クロルもそんな僕の仕草に合わせるようにわざとらしく肩をすくめた。「マンバはプロマジン所属の球師になろうと頑張ってるの。今日見るのはその選考試合のようなもので、ようやく出場資格が得られたのよ」


「何か条件のようなものがあるのかい?」

「村長の推薦があることと、自分でピエルナスを所有していることよ。だからあんたのおかげと言えないこともないわね」

「なるほど。行き倒れに乾杯だね」

「そういうこと」とクロルは笑った。


 村の門番に挨拶し、村の外を道なりにしばらく歩く。天気はカラリとした晴れで、しかし気温は高すぎない。運動するには良い気候だろう。僕は両足を一定の速度で動かしながら、マンバに持たされたナイフをチラリと眺めた。


「道を外れずに来るならまあいいだろう。帰りはおれと一緒だ、絶対に門番の許した時間帯にしか出るな。ミノレ、お前はこのナイフを持ってろ」

「何のために?」

「戦うためだよ。何かあったらお前がクロルを守るんだ」


 マンバは昨夜、観戦に行くと言い出したクロルの要望を受け、僕に抜き身のナイフを渡してそう言った。刀身が鋭く光る。なんとか落とさず受け取ることはできたけれど、簡単に戦えと言われたものだが僕にそんなことはできないだろうと思われた。


「いや無理だよ。暴漢とナイフで戦うなんて僕にはできないって」

「ここらへんの道で襲われるなんてことはほとんどないし、特に日中は大丈夫よ。そのナイフはお守りみたいなものね」

「いやでも万一ってことがあるから持たせるわけだろ?」

「そうだな、語弊があったな。お前は別に戦わなくていい」


 少し考え、マンバは僕にそう言った。「襲われたら、戦わなくていいから必死にそれで抵抗しろ。クロルはその間に走って逃げろ」

「了解」

「ぜったい無理だろ!」


 僕の叫びは不思議なほどに聞き入れられず、マンバは朝早くから家を出てそのまま帰ってこなかった。おそらく外出先から直接街に向かったのだろう。僕は自分の運命をなんとか受け入れ、もうどうにでもなれといった心境で開き直ってクロルと道を歩いている。


「実際こいつはお守りみたいなもんだ。良く見えるところに挿していろ」


 出発前にマンバはそう言い、鞘に収めたナイフを僕の胸のあたりにベルトのようなもので固定した。そこで気づいたのだが、ナイフはシンプルなデザインながらも洒落た装飾がされていて、特に柄の先端には宝石のようなものがついていた。


 こんな高価そうなナイフを所持して歩くなど、かえって強盗に遭う確率を引き上げそうなものである。あるいは僕に対する罠なのかとも考えたものだったが、クロルが巻き添えを食らうことになりそうな罠を仕掛けてくるとは思えない。


 結局僕は言われるままの格好で、言われるままに村を出た。すれ違う大人たちが胸のナイフを注視するのは果たして僕の気のせいだろうか?


「この実おいしいよ」


 街道沿いに生えたイチジクのような果実をむしってかじり、クロルは僕にそう言った。所有主は気楽なものである。


「それって取っても怒られないの?」

「街道沿いの果物は自由に食べていいそうよ。郵便屋さんなんかが食べるために生やしてくれているみたい」

「だったら僕らが食べたらいけないんじゃないか?」

「まあまあ、ミノレさんもほら、機嫌を直してどうかひとつ」


 そう言い、クロルから手渡された果実は確かに旨かった。武器を携え知らぬ道を歩く緊張と疲労に果汁の爽やかさがありがたい。それに僕は元々機嫌が悪くなんかないのだ。


「こんなナイフを持たされているのは怖いけど、僕は別に不機嫌じゃないよ。なんなら楽しみだと言っていい。ちゃんとしたピエルナスの試合が見られるわけだし」

「それならよかった。マンバは選手に選ばれると思う?」

「村から何人選ばれるとかって決まってるの?」

「決まりはないけど、確か多くて2人くらいね。ゼロってことも多いみたい」

「まったく選ばれないことも珍しくないなら街のレベルによるとしか言えないな。――ただ」

「ただ、なに?」

「たぶん大丈夫なんじゃないかと僕は思ってるよ」

「だよね!」


 クロルはそう言い嬉しそうに笑った。


 そして僕とクロルは石畳のような整備をされた道を並んで歩いた。おそらくこの地域の主要道路のひとつなのだろう。ベスの村からその街道へ出るまではしばらく剥き出しの大地といった風情の道で、雨の日には足元がひどく汚れるだろうと思われた。


 人通りは少なくなかった。荷馬車を伴う行商人のような人や鞄を背負って道を駆け抜ける人たちとすれ違う。屈強な体つきの男に荷物を持たせ、自身は小ぶりの馬に跨りカポカポ進む人もいた。


 身分の高い人なのだろうか。クロルに腕を引かれ、僕は進む馬に蹴飛ばされないよう注意深く道を譲る。我が物顔でゆっくり進む馬の尻と垂れた尻尾を眺めながら、僕たちは再び歩き出した。


「馬が来たら道を譲るの?」

「――別に決まってるわけじゃあないけどさ。ぶつかって怪我するのはこっちだからね、こういうのって、損する方が気をつけるしかないんじゃない?」

「それはそうだね」と僕は言った。


 マイペースで歩く馬は尻から排泄物をプリプリ産みだし、それは街道に我が物顔で落ちていく。この馬糞を踏まないように歩を進めるのも、僕たちが靴の清潔さを保つために、当然自分で行うべき努力なのだ。


 やがて街が見えてきた。それが目的地だとわかったのはクロルが「あれがプロマジンの街よ」と教えてくれたからだ。僕の目に映るのは延々と続く石壁だけで、『城壁』という単語を連想した僕にはそれは、一見お城のようにも思われたのだ。


 立派な壁は視界に入ったのだが、そこまで辿りつくのは思ったよりも大変だった。真っ直ぐ到達されるのを阻むように街の周りを川が走っており、その川沿いに街道は大きく曲がっているのだ。設計ミスとしか思えない位置に橋が架かっている。文句を言わないクロルに倣い、僕は黙って足を進める。やがて門へと突き当たった。


 その門を通るには門番の許しを得なければならないらしい。「こんにちは」とクロルは笑顔で挨拶し、「マンバの妹のクロルです」と自分の名前をそこに加えた。


 門番といくつか簡単なやり取りを交わし、やがて僕たちに入場許可が与えられる。なんと僕の胸に挿されたナイフが通行許可証のような役割を果たしていたらしい。何種類かある許可証の中で、この装飾の施された鞘に収まったナイフは比較的上位に位置づけられるらしく、子どもふたりでそれを持ってこられた門番は驚いた顔で確認作業を行っていた。


「このナイフ、そんなに偉いやつだったんだ。やっぱり僕が持ってたのって結構危険だったんじゃないの?」

「そうかもね。まあ襲われずに来れたんだからいいってことよ。そんなことよりピエルナスをするのはどこかしら」


 我が身の危険を“そんなこと”でスルーされた僕は文句のひとつも言いたいところだったが、兄の晴れ舞台を目の当たりにする機会に目を輝かせる少女にこの不満を理解させるのは割に合わない重労働だとも思われた。大きくひとつ息を吐き、僕はクロルと周囲を伺う。すぐに大きな掲示板が目についた。


 人垣に埋もれない高さに様々な情報が載せられている。店の宣伝や対価を伴う依頼ごとなどが目立った装飾と共に掲げられる中、ひときわ無粋な『球師選考会について』という文言が見上げる僕に降ってきた。飾り気のなさが公的なものを感じさせ、雑多な情報の中でかえって目立つ。


「あれじゃない? 球師選考会だってさ」


 そう言い僕が振り向くと、いつの間にか、クロルのすぐ隣に知らない男が立っていた。


 見たことのない成人男性だ。明らかにクロルに関心を寄せており、話しかけようとしているように僕には見える。急激に警戒心と緊張感が呼び起こされ、鼓動が強く速いものになっていく。自然と胸のナイフに手が向かう。クロルが男の存在に気がついた。


 僕はじわりとクロルに近寄り、男の視界に足を踏み入れた。易刺激的で衝動性のある患者と接する精神科医のように柔和な表情を顔に浮かべる。僕は子どもだ。男が強く警戒したり、ただちに攻撃的になったりすることはないだろう。しかしある程度の牽制にはなる。


「こんにちは」と男は僕たちふたりに言った。「君がクロルかな。街へようこそ。試合会場まで案内するよ」

「わあ、ありがとうございます!」


 クロルは素直にお礼を言った。僕は警戒心を込めて彼を見つめる。その視線を感じたのか、はじめて男は僕の方を注視した。


 そして僕と目が合った瞬間、彼はそれまでの大人らしい穏やかな表情を豹変させ、驚きに満ちた声を出した。


「まさか――いや、似ている、のか? 君、名前は何ていうんだい?」


 僕の名を知った男は驚愕と感激を隠すことなく神に祈りを捧げだす。「まさか生きていたなんて! ミノレ、君のお父さんに会いに行こう!」

「えええ!?」


 どうやらこの男はかつての僕を知っているらしい。会ったことのない知り合いにどのような対応をしたものか、突然の展開に言葉を失うクロルと一緒に僕は途方に暮れていた。


 

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