第8話 クロスオーバー

 

 自分から「利益になる」と宣言してしまった僕は、しかしどのような形で彼らの利となれば良いものか、ちゃんと考えなければならなかった。


 この世界の常識を知らない代わりに、僕はおそらく彼らが知らないことを知っている。たとえば医師としての専門知識がそうだ。あくまで僕の印象だけれど、木造建築の家に住んで毎朝水汲みを行う生活の中で僕が持つほどの医療理論を彼らが構築できているとは思えない。


 しかし僕は同時に医学の歴史を知っている。感染症対策として手指衛生がきわめて重要であることは今や誰でも知っているが、かつてどこかの国の医師が見出した公衆衛生の重要性が当時の医学界によって否定され、おびただしい数の妊婦たちがいたずらに命を落としてきたことを僕は知識として知っている。正しいことが必ずしも受け入れられるとは限らないのだ。


 また、僕の持っている医療の知識がこの世界においても同様に適応されるとは限らない。常識を知らない場所で天動説を唱えて宗教裁判にかけられるのはまっぴらごめんだ。さらに、多少打ち解けた部分もあるかもしれないが、元々マンバは僕のことを不審に思っていた。ここで余計なことを言ってしまえばこの兄妹の家から排除される可能性は十分考えられることだろう。


 沈黙を続けるのにも限界がある。お手並み拝見とばかりにマンバはニヤニヤ僕を眺め、何かするのではないかとクロルは楽しみな顔を見せている。「ごめんなさい、今は何もありません」と白旗を挙げることは簡単だけれど、それによって今後の生活にマイナスとなるのは考えものだ。


「――ピエルナスのハンドリング技術を教えましょう」


 結局僕はそう言った。


「ほう」マンバは笑っていない目で僕を睨み、「昨日ろくにドリブルをつけなかったお前が?」と僕をさらに挑発してきた。


 彼の言ったことは正しかった。ドライブを仕掛けた際にも僕の手はうまくボールを運べなかったし、この慣れない体と慣れない環境では複雑なハンドリング技術も実践できなかったのだ。


 しかし理論と実践は別物であり、僕が先日見たところ、マンバは利き腕でない左手を右手と遜色なく使うことはできるけれど、技巧的なボールムーブを見せることは最後までなかった。非効率的なサーカスプレイをしたがらないというより、そもそもその存在を知らないのではないだろうかと思われた。


 足りないのは努力ではなくお手本と、そこから生まれる発想だ。僕はその最初の1歩を彼に与えることができるだろう。


「確かに僕自身はピエルナスの扱いが下手くそですが、知ってるムーブをマンバさんに教えることはできますよ」

「ムーブ?」

「動きってことです。今より簡単に相手を抜けるようになると思います」

「本当に? 嘘だったら承知しないぞ」

「マンバはピエルナスには本気だから、冗談ならやめといた方がいいわよ」

「大丈夫だよ、クロル。きっと気に入ってもらえるさ」


 心配そうな眼差しを向けるクロルに僕はそう言った。マンバは懐疑的ながらも興味をそそられたような顔をしている。先日の対戦成績は僕の惨敗だったけれど、それは主に体格差とピエルナス自体への慣れが問題となっていた。おそらくは断片的にせよ「こいつは何か違うな」といった動きを僕は見せられた筈なのだ。


 子どもが見せた違和感を伴う動きに対して成人が教えを乞うことは難しいだろう。しかし、ここで生活させてもらうことへの対価として僕から供給することはできるかもしれない。建前や形式は大切なのだ。


 マンバはすらりと背が高く、しなやかで強靭な筋肉と長い手足を持っていた。バスケットボーラーに適した体格だ。努力も意欲も足りているが、バスケットボールの技術や常識を持っていない。


 当然だ。彼はバスケットボールに慣れ親しんだボーラーではなく、ピエルナスと共に生きる球師志望者なのだから。


 指導者としてバスケットボールに触れた経験が僕にはないけれど、それでも面白そうな試みだと思った。マンバを優れたプレイヤーへと導くことがだ。


 この試みが上手くいかなければ最悪僕は殺されてしまうかもしれない。それは頭でわかっていたが、リスクが大きな試みをまったく楽しまずに行うというのも僕には無理なことだった。治療困難な希少症例にどこか興奮してしまう、医師としての本能のようなものがそう思わせるのかもしれない。


「とりあえずおれは仕事に行ってくる。ピエルナスの話はそれからだ」


 そう言い、マンバは家を出ていった。この世帯唯一の成人男性を見送った僕とクロルは顔を見合わせる。


「ほんとにできるの?」


 なおも心配そうな顔をしている支配主に向かい、僕はニッと笑ってみせた。


○○○


 クロルにとって日常的な営みである肉体労働を手伝いながら、僕らはマンバの帰りを待った。唯一の成人が職人といて働く彼らは日毎の糧を農耕以外で手に入れなければならない。幸いなことにベスの村は周囲の環境に恵まれており、様々な手段で様々なものを手に入れることができるのだ。


 クロルが主に担うのは、川から飲用水を確保するのと引率の大人を付けて集団で行う森での採取、余裕があるときは川で釣りのようなことをしたりもするようだった。


「どうしても足りないものはマンバが買い物をしてくるわ。でもお金は大切だから、なるべく自分たちで何とかするの」


 家の裏手に広がる小ぶりの畑の手入れをしながらクロルは僕にそう言った。小ぶりとは言ったが家庭菜園にしては大規模だ。植物の知識がろくにない僕にはこの畑から何が収穫されるのかよくわからないのだが。


 しかし、その脇に備えられた囲みに入った動物が何であるかはわかる。ヤギか何かの四足獣が1頭と、アルマジロのような生物、ピエルナスだ。


「ピエルナスって貴重なんだろ? こんな簡単な柵の中でいいのかい」


 柵はそれなりにしっかりとした造りをしており逃げられることはないだろうが、悪意のある大人が工夫をすれば容易に盗めそうなように僕には見えた。クロルは両手についた土を叩いて払い、僕に肩をすくめてみせた。


「このコはマンバが“登録”してるから大丈夫よ。ピエルナスを盗ろうなんて不届きものは、この村にはいやしないわ」


 ピエルナスは社会的にも貴重な動物で、購入には“登録”なるものが必要になるらしい。僕らのピエルナスはマンバが持ち主として登録されており、その許可なしに触ることは許されないのだという。そのシステムにどれほどの拘束力があるのか僕には甚だ疑問だったが、自信満々の表情でそれを説明する少女に強く問う気にはならなかった。


 やがて昼の鐘が鳴り、僕とクロルは簡単な食事をとる。塩漬けの肉を炉の火で炙り、生野菜で包んだものだ。塩気が強いが十分旨い。朝汲んだ川の水で喉を潤すと、肉体労働と腹のくちくなった満足感が僕のまぶたを重くさせる。


「おねむみたいね。いいわ、ちょっとお昼寝してなさい」


 食後もテーブルに向かって何か作業をしているクロルにそう言われ、うとうとしながら続けようとしていた眠気に対する抵抗を諦めた僕は、そのまま眠ってしまうことにした。お行儀は悪いだろうが仕方ない。料理に使った炎の気配が炉にポカポカと残っており、それは強烈な攻撃力をもっているのだ。


 失われゆく意識の中で、誰かに撫でられる感触を頭に感じた。おそらくはクロルの手によるものだろう。しかし、その優しく安心感を与える動きが引き金となり、フラッシュバックのように母親の手の感触が僕に思い起こされた。僕がかつて僕ではなく、ミノレという少年だったころの思い出だ。その母親も僕の母さんではなく、ミノレという少年の母親だ。


 ミノレの母はとても優しく僕の頭を撫でたものだった。褒められているのだ。「ミノレは賢いわねえ」と黒板のようなものにチョークのようなもので何かを書きつけている。勉強を教えられているのかもしれない。どうやら書かれたものは数字のようで、足し算や引き算を習っているらしい。


 3-4桁ほどの計算だ。僕は繰り上がりや繰り下がりを考え、たどたどしく問題を進める。ミスなく課題をこなした僕は母に頭を撫でられ称えられる。愛情で心が満たされ僕はもっと褒められようと黒板に向かう。どうやら良い授業態度をしていたらしい。


 向かっている机、座っている椅子、母の服装、壁に掛けられた絵画の類。ミノレの生家は裕福だったようである。同じなのは母が手を動かす度にちらりと見える腕輪くらいだ。厳密なデザインは同一でないのかもしれないが、それはマンバの手首にも嵌められていたものである。


 僕は精神科病院の隔離室で会った女性、フィアマのことを思い出した。彼女も腕輪を嵌めていた。確か“ブレス”と彼女はその腕輪を呼んだ。マンバもそうだったように記憶している。


 ぐるぐると景色を変える眠り心地の意識の中で、僕はフィアマの美しく整った顔を思い浮かべた。彼女は意味ありげな笑みを浮かべ、僕をまっすぐ見据えたものだった。


「おい起きろ」


 僕の意識が引き戻される。瞬きしながら頭を上げると、そこにはピエルナスを肩に担いだマンバが立っていた。「約束だ。ピエルナスの技術とやらを教えてもらおう」


 僕は小さく頷いた。


○○○


 昨日も行ったピエルナス用の広場に向かうのかと思っていたが、マンバは僕らを家の陰になっていて目立たない、こじんまりとしたスペースへと連れていった。もちろん競技用に整えられてなどいない。


「こんなところで良いんですか?」


 僕がマンバにそう訊くと、彼は目だけ笑っていない笑顔で頷いた。


「本当に何か新しい技術が得られるのだとしたら、周りに見られたくないからな。――それに」

「それに?」

「万一お前に騙されていた場合、目立たないところで制裁したいと思わないか?」

「そうはならないことを祈っていますよ」


 整地されていない地面はそもそも全体が傾いているようで、仮に元の体でバスケットボールを扱えたとしてもどれほど思い通りのハンドリングができるかわからないようなものだった。様々なハンデを抱えた今ではむしろ良い言い訳となるかもしれないが、いずれにせよマンバの気にそぐわなければ、軽くて鉄拳制裁も覚悟しておくべきだろう。


 大きくひとつ息を吐き、僕はマンバにピエルナスを要求する。


 何を教えるかは決めていた。フロントチェンジ・クロスオーバーと呼ばれる技だ。ハンドリングの基礎のひとつとして教えられることの多い技術であり、本当に極めてしまえばそれだけで必殺技となり得る攻撃力を秘めている。


 やり方は簡単だ。自分の体の前面でボールをついて、右手から左手へ、あるいは左手から右手にボールを受け渡す。これがフロントチェンジと呼ばれる動きである。どこを境にクロスオーバーと呼ばれるようになるのか知らないが、この動きがただの受け渡しでなくディフェンスを惑わす意図を宿した場合にそう呼ばれると僕は捉えている。


 フロントチェンジ自体はマンバもできる。先日彼が披露したハンドリングの動きの中に組み込まれていたからだ。しかしそのキレはなまくらも良いところで、とてもじゃないが武器とはならない出来だった。


 おそらく彼は何かの見よう見まねでしているのだろう。しかしちゃんとしたやり方を習ったことはない筈だ。典型的な、技の原理や骨子を理解しないまま形だけをなぞったやり方になっているからだ。


 僕は2-3度ピエルナスを地面に弾ませ、その表面を手の平になじませると、「この動きをマンバはするね?」とフロントチェンジをやって見せた。わざとマンバの動きを模した、武器にはならないやり方だ。


「もちろん。それはフロントチェンジという技だ。街の、アランという選手の必殺技だよ」

「彼から指導を受けたことは?」

「――ない。アランのような球師と会話をすることなんて、今のおれには不可能だ」


 その事実は彼のプライドを傷つけるのか、マンバは歯切れ悪くそう言った。今のマンバは何者でもなくただの球師志望者だ。その人数の多寡やマンバの立ち位置を僕は知らないが、あるいは彼らの間には、ただの野球少年とプロ野球選手くらいの距離があるのかもしれない。


 だとしたら、この僕のようなただの子どもに対して見栄を張らず、それを口に出せるマンバはとても素直な性質をしているのかもしれない。僕は少し驚いて彼を見上げた。


「そのアランという選手はフロントチェンジでディフェンダーを抜き去りますか?」

「そうだ。彼はとても鋭く相手をかわし、簡単にゴールする。親父の次の憧れだ」

「そのムーブを真似するが、同じようには抜きされない?」

「そうだよ。同じように動いているつもりだが、どうもおれのは違うらしい」

「彼と同じムーブかどうかは置いといて、マンバのフロントチェンジを向上させることはできると思う。これは利益になりませんかね?」

「もしそんなことができるのなら、今ちょくちょく使っているナメた言葉遣いを許してやろう。できるならな」


 教える立場に立ったせいか、知らず知らずのうちに口調が荒れていたらしい。そんな自分と、今度はそれを咎めなかったマンバの両方に苦笑しながら、僕はピエルナスを弾ませ続けた。2日連続で扱っているからか、昨日よりずいぶんとこのボールの感触に慣れてきているような気がする。


「これが今のマンバの動き」


 僕はそう言い、少し離れた彼に向かって拙いフロントチェンジでつっかけた。右手から左手にボールを渡す。「あまり効果的じゃあないムーブだ」


 再び元の位置に戻って動く。思い通りに動くボールが心地よいリズムを僕に与える。マンバをディフェンダーに見立てた僕は、ボールを小さく弾ませながら、相手を睨んでタイミングを測る。


 いい感じだ。集中力が高まっていくのがわかる。僕はボールを右手でついている。


「これが、クロスオーバーだ」


 僕はそう言い、肩甲骨を深く使ってできたタメから鋭いボールを低く飛ばした。体の動きは右に向かって進んでいるのに、ボールは左から抜けていく。ステップに従って体は進路を変えるため、予測も経験もない相手からしたら、自然な反応の逆から抜け出してくるように感じることだろう。


 実際僕はほとんどマンバを抜くことができた。彼のディフェンスを掻い潜って駆け抜けなかったのは単にスペースが狭かったからだ。もちろん彼のディフェンスにそこまでのやる気がなかったのが原因のひとつであるのだが、予告された通りに子どもに完全に逆を取られるというのは強烈な体験であることだろう。


「何が違うかわかる?」


 右手に保持したピエルナスをマンバに手渡しながら、僕は彼にそう訊いた。その対等な口調を咎めることはせず、マンバは僕にニヤリと笑いかけた。


「それを教えてくれるんだろう?」


 その目は純粋な好奇心に輝いていた。

 

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