第7話 兄妹の生活

 

 寝て目が覚めてしばらく経ったが、僕は依然としてミノレという名の少年のままだった。どうやら夢オチではないらしい。


 藁か何かをシーツに包んで作ったベッドの上で僕は自分の右手を眺める。その手の平は柔らかく、スポーツや労働による過剰なストレスを体験していないことが察せられる。


 その手の向こうでは僕の“持ち主”である女の子がスヤスヤと眠っていた。僕とひとつのベッドを共有している。正確には、僕ひとりのために新しい寝床を用意する余裕がないので彼女のベッドに潜り込ませてもらっている次第である。


 クロルという名前の色黒な少女の寝顔を眺める。まつ毛が長い。その瞼の向こうには黒く大きな瞳が待っていることを僕は知っている。彼女は髪の毛も真っ黒だ。


 整った顔立ちの少女とひとつベッドに寝ているわけだ。緊張と興奮に苛まれても良さそうなものである。しかし、僕には以前、せっかくできたかわいい彼女と同居のような状態をしばらく過ごしながらもほとんど性的な行為を許されないという、思春期の男子からすると拷問に近い日々を過ごした経験がある。その夜に比べれば大した困難ではないだろう。


 第一、僕たちのベッドの隣にはクロルの兄で僕の保護者のような存在であるマンバという男のベッドが並んでいるのだ。彼女に手を出すというのはベネフィットに対してリスクがあまりに大きな挑戦だ。


 マンバのベッドは今は空だ。僕が目覚めたときには既に彼の姿はなくなっていた。だからといって僕の行動が変わることはないけれど、多少思い切りよくクロルの寝顔を眺められるというものだ。


 美しい顔立ちの女の子というのはどうしてこんなにずっと眺めていられるものだろう? 何故この顔を美しいと感じるのだろうか。


 そんなことをぼんやり考えていると、遠くで鐘の音のようなものが鳴っているのが耳に入った。その音源を探るように僕は身を起こすようにして周囲の状況に気を配る。


 もちろん何もわからない。諦めて体を再びベッドに横たえると、クロルの大きな目が開いていた。大きな瞳だ。


 小さく微笑み、「おはよう」とクロルは言った。手を伸ばして僕の頭を撫でてくる。お姉さんという感じの仕草だ。


 そして僕は思い出した。僕は小さな男の子で、おそらくクロルより年下だろう。しかも僕は彼女の所持品だ。彼女がお姉さんぶるのは必ずしも背伸びをしているわけではないだろう。


「おはよう」


 僕がクロルにそう言うと、彼女は素早くベッドから滑り出て健康そうな体を大きく伸ばした。木製の窓をずらすように開けると陽の光が差し込んでくる。


「良い朝ね」とクロルは言った。


○○○


 時計の存在しない世界において、時刻を知らせるために存在するのが例の鐘の音らしい。


「ここまで聞こえてくるのは朝昼夕の鐘だけよ。街じゃもっと細かく鳴らされるんでしょ?」

「そうだね」と曖昧に僕は答えた。


 クロルの1日は水汲みではじまるようだった。


 村の近くに川が流れており、そこから木製の桶で汲みあげるのだ。女の子の力でも使える大きさの桶で運搬用の大きな桶に汲みとっていくというのは気の遠くなるような作業になることだろう。


「これって、川の流れを利用して、大きな桶に直接水を入れられないのかな?」


 少しでも楽をしたい僕はそう提案してみた。幸い僕らはふたりいる。二人で大きな桶の口を両側から持ち、川の中でざぶりと汲んだらすぐに終わるのではないだろうか。ひとりでやるには水の加減が難しくてリスクの高そうなやり方だけれど、十分試す価値はあるのではないかと思われた。


 クロルは僕の提案の意図を理解し、ニッと笑った。


「そこまで言うならやってみましょ」


 もったいぶった口調でそう言うと、クロルはほとんど躊躇うことなく川に入っていった。「冷たい!」と嬉しそうな声を上げ、膝の上まで水に浸かる。


 水流に両手をさらして、そのまま手酌で川の水を口に運び、「おいしい! あんたも早く入ってきなさいよ」と川の中から両手を広げて僕を招いた。とても気持ちが良さそうだ。


 注意深く、片足ずつ僕は川の中に入っていった。慣れない靴の底が滑らないように気を付ける。流れはそれなりに速い。静止摩擦係数で耐えなければすぐに転んでしまいそうだった。


 クロルより体の小さな僕は太もものあたりまで冷たい水に覆われた。岸に置いていた桶を背の高いクロルがひょいと取り上げ、口の方向が川の流れに逆らうように立ち位置を調節する。クロルの合図で僕も手を添え、ゆっくりと桶を沈めて水流を捉える。


「もういいわ、上げて。そうそう」


 クロルの指示で必要な量の水を確保し、僕らは力を合わせてそれを岸へと持ち上げた。ひとつ終わらせることのできた仕事を思い、大きくひとつ息を吐く。クロルは川の水を手ですくって豪快に顔を洗っていた。


「手馴れてるね?」


 僕はその背中に訊いてみる。顔を洗う手が止まり、やがてゆっくりとクロルの顔が僕の方に向けられた。


「わかる?」

「とてもはじめて試したって段取りじゃなかったと思うよ」

「そう。実はこのやり方が一番速いの。でも足を滑らせやすいし、大きな桶を流されたりするかもしれないし、お行儀も悪いからマンバには止められてるのよね。だからはじめて仕事を覚えるあんたには普通のやり方を教えたわけだけど、ちまちますくって入れるだなんて、そんなことやってられないわ!」


 ふふんと笑ってクロルはそう言い、手で顔をこすって余分な水気を退けた。得意気な表情だ。そしてその手で川の水を捉えると、僕に向かって両手をふるって水を投げつけてきた。


「冷たい! やめろよ」

「やめないわ! ほらほら!」


 連続して水を投げてくる。僕はすぐにずぶ濡れになった。健康体に見えるとはいえ、つい先日死にかけていたところを拾ってきた者に対する仕打ちではないのではないだろうか。


「やめろって言ってるだろ!」


 終わりの見えない水攻撃に僕は反撃することにした。少し手をくぼませて水の保持力を高めると、クロルに向かってできるだけ多くの水をできるだけ強い勢いで送り込む。


 僕たちはしばらくそのまま水遊びをした。


○○○


「こらあんたたち何やってんの!」


 少年少女の微笑ましい水遊びは村のおばさんの一喝で終わりを告げた。どうやらこの岸は遊ぶためにある場所ではないらしく、川遊びがしたければ他所でやれというのが彼女の主張だ。こちらに反論の余地はない。


「――まったくもう、これだから親がいないと」


 お説教の締めくくりにおばさんはそう言い、クロルは彼女に見えない角度で肩をすくめた。


 そのおばさんの出現を引き金に、わらわらとご婦人たちが集まってきた。元々持ち場が決まっているかのように自然とコロニーが形成されていき、それぞれのコロニーで仕事がはじまる。井戸端会議というやつだろうか。


 僕とクロルは締め出されるようにしてその場を離れた。水の溜まった大きな桶をふたりで担ぎ、こぼれないように歩調を合わせてゆっくりと運んでいく。


「いつもこれをひとりでやってたの?」


 そう訊く僕に、「そうよ」とクロルは短く答えた。「でもいつもはこんなにたくさん汲まないわ。ひとりじゃこんなに運べないもの」


 肩に食い込む水の重みに耐えながら、少しは役に立ってるらしいと僕は思った。


 黙って歩みを進めていく。水を吸った履き物が歩くたびに湿った音を立てる。ぐじゅ。ぐじゅ。僕はそのゆったりとした一定のリズムに乗せて足を1歩また1歩と動かし続ける。服の裾から水が垂れる。


「――あたしたちはね」とクロルが顔を進行方向に向けたまま口を開いた。「あたしたちはふたりで生きているの。お父さんが死んじゃったとき、お父さんはこの村でひとりだけの球師だったから、領主さまからお金をもらえたの。それを村にあげちゃって、どこかの家に入れてもらっても良かったんだけど、マンバはそうはしなかった」


 その頃成人したてのマンバは、誰かの世話になるのではなく、妹とふたりで生きていこうと決めたらしい。保険や遺族年金のようなものだろうか、支払われた金銭を一部村に納めてその権利を認めさせ、仕事をしながら球師を目指そうとしたようだ。


「マンバは仕事、何やってるの?」

「職人よ。木工がメインで藁細工を手伝ったりもしてるみたい」

「ふうん」


 呟くように言いながら、僕にはあまり仕事内容が想像つかなかった。木工職人というと小さな木のオブジェでも作っていそうな、ややアーティスト寄りのイメージだが、そんな職業が人力で水を汲んで家まで運ぶ生活の中で成り立つとは思えない。その僕の疑問はクロルが続けた言葉で解消された。


「家とか家具を作ったりするの。マンバ、結構上手いのよ?」


 クロルは兄を自慢する妹の瞳でマンバの有能さをアピールする。微笑ましいことである。家まで水を運び終えると、そこにはそのマンバがいた。


 マンバはその色黒の肌に汗をしたたらせ、鋭い視線の動きで朝の挨拶を行った。


「おはようございます」僕は一応声に出す。


 マンバは柄杓ひしゃくのような木製のレードルで僕らが運んだ樽から水を汲み取り飲むと、肩に下げた鞄を顎で示し、「朝飯だ」と言った。


「やったあ」


 クロルの足取りが軽くなる。一緒に樽を支える僕は水をこぼさないように足並みを揃え、加速した歩調で家の水瓶へと力を合わせて水を注いだ。


「ああ疲れた! ふたりだから水をたくさん運んでみたけど、よく考えたら慣れてから増やした方が良かったわ」


 かえっていつもより疲れたらしい。水を汲みに行く回数が減るだろうからトータルでみれば楽なのだろうが、はじめての共同作業でいつもより多く仕事を処理するのは大変だったことだろう。もちろん僕もそれなりに大変だったが、僕には比較対象となる“いつも”はない。


 どうやったのか、クロルは速やかにかまどに火を起こし、鍋でスープを作っていった。マンバの鞄に入っていたのはパンだった。パンとスープの朝食がテーブルの上に並べられ、食事の時間がもたらされる。木製の腕に木製のスプーンだ。木工職人だというマンバが自分で作ったものかもしれない。


 心の中で「いただきます」と唱えてスプーンを持った僕は、マンバとクロルがそうはしていないことに気がついた。ふたりは目を瞑って何やら精神を集中させている。隔離室でのフィアマの様子が僕の脳裏に蘇る。


 祈っているのかもしれない。食事に手をつける前に気づけた自分を褒めてやりたい。僕は音が鳴らないようにきわめてゆっくりスプーンを戻し、見よう見まねで彼らの祈りの形をとった。


 予想したより長い時間を祈りに捧げ、目を開いたマンバは「食べようか」と呟くようにして言った。頷いたクロルはパンを手に取り、小さくちぎって口に運ぶ。


「あんた、ひとりでさっさと食べようとしてなかった?」


 どうやらバレていたらしい。「そうかな?」と誤魔化すように言ってみたが、「街の方ではちゃんと祈らない家も多いらしいが、うちにいるならちゃんとしてくれ」とマンバに言われることになった。


「すみません」と僕は言う。

「直るなら謝る必要はない」

「わかりました。直します」

「よろしい」と何故かクロルがとても偉そうな口ぶりで言った。


○○○


「死にかけていたせいか、これまでの自分の暮らしがよく思い出せないんですよね。おそらくふたりが言うように僕は街育ちなんでしょう。だからこの村の風習や常識のようなものがピンとこないことが多くて、迷惑をかけることも多いことだろうと思います」


 色々と考えてみた結果、臨死ショックに由来する記憶喪失的な設定でやっていくのが良いのではないだろうか、という結論に達した僕は、食事中の会話の流れでそう言ってみた。この体は街育ちなのかもしれず、僕はこの村のことを知らない。つまり、嘘は吐いていないと言えなくもない。



 僕の生殺与奪権をもつ兄妹は互いに顔を見合わせ、「つまり?」と先を促した。


「なるべく僕からも訊くようにしますので、当たり前だろってことでもいちいち教えてくれると助かります。何も知らない子どもだと思って、どうかひとつ、よろしくお願いしますってことです」


 僕が彼らにそう言うと、不思議な沈黙が家の中にに広がった。はて、何か変なことでも言っただろうかと兄妹の顔をチラチラ見ていると、「もうだめだ!」とマンバがいきなり声をあげ、何故か破顔して爆笑しだした。


「なんだこいつ!? ずっと変なやつだとは思っていたけど、面白すぎる!」


 一貫して僕に優しく接していたクロルも巻き込まれるように笑いつづけた。


「――だってどこからどう見ても何も知らない子どものくせに、それが何も知らない子どもだと思ってって! あんたそんな話し方どこで覚えたの? 街のひとってみんなそんな感じなの!?」


 狙ったわけではない、わけのわからない笑われ方に、僕は恥じ入りながら彼らの笑いの嵐が収まるのを待つしかなかった。台風が通り過ぎるのを待つように、じっと大人しくしてただただ忍ぶ。僕にとって計算外だったのは、僕のそんな態度さえも今の彼らにとっては笑いの種となるらしいことだった。


「ああ面白い。わからないことは何でも訊いてね」


 目に滲む涙を指で拭いながらクロルはそう言った。僕は軽く拗ねながらそれに頷く。「笑いすぎたって。ごめんごめん。怒らないでよ」


「いやでもこいつが面白いのが悪いんだ。うちにいてうちの飯を食う以上何かおれたちの利益にならなければならないと厳しく接しようと思っていたが、なんだかどうでもよくなってきた」

「なんですか。僕は利益になりますよ」


 笑われたのがいけなかったのだろうか、僕は勢いでそう言って、言った後で取り消せないことに気がついた。


「――へえ。お前に何ができるんだ?」


 マンバの目は笑っていない。はじめて言葉を交わしたときのような鋭さで僕を睨みつけていた。

 

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