第106話


 幼い彼女はまだ与えられた役割を理解していない。

 それでも。


 肉体が、その細胞の一つ一つが叫んでいる。目の前で幸せそうに眠り続ける赤子こそ自らのすべてを捧げるべき御方であると。

 頬を伝う涙に、彼女は固く誓うのだった。


「ぁぐ……ッ!」


 巨大な手で握りしめられたクリスティアンの表情が歪んでいく。このまま絞め殺してしまいたくなる気持ちをなんとか押し留め、赤毛の女性、ナタリーは尋問を開始する。


「どうして彼女を城から、それもヒト族の世界に連れ去った。魔族を裏切ったのか」


「そうする、しかッ! なかった……ッ!」


「自分が生き残るためにか! 誰に唆されたッ!!」


「ちが……ッ!! 違う、んだ!」


 彼女は目の前の男のことを尊敬していた。

 それは、愛すべき王の父親であるからではない。そんなことは役割が重要なこの世界にとって大きな意味を持たない。


 まだモニカが生まれる前。ただの一人の魔族であった時分から、彼は魔族のなかで有名な存在であった。良くも、悪くも。


 膨大な魔力を操る優秀な魔法使いでありながら、前線に立ちたがらず、むしろ技術の進歩・発展に興味を注ぐ変わり者。

 実力主義が残る魔王軍に身を置きながら、決して驕らず下の者への配慮を欠くことがない。


 古い時代の者には役立たずと言われ、新しい時代の者には臆病者だと罵りを受けても彼はそれら全てを時には笑って、時にはただ気付かず受け流すのだ。


 だからこそ、

 彼は力のない者たちに慕われた。そこには、


「お前に何があったッ!!」


 彼へ殺意を吠える、ナタリーも含まれていた。

 彼女が得意としたのは、変身系と幻覚系の魔法。どちらも極めれば恐ろしいと言われる魔法。つまりは、極めなければ何者にもなれない魔法。


 膨大な魔力消費と繊細な魔力操作を必要とした両種の魔法は、並大抵のものが使用したとして良くて目くらまし程度の効果しか持ちえない。

 それは、軍で行動するに於いては利用価値があるかもしれないが、個としての強さを発揮しにくい類のものであり、加えて彼女は生まれつき魔力量が低く、不器用で魔力操作も下手くそであった。

 そうなってしまえば、実力主義な魔王軍での彼女の立場は分かり易く低いモノとなる。


 そんな彼女を拾い上げ、育てたのがクリスティアン。

 彼は決して自分が育てたなどとは公言せず、ただ彼女には実験に付き合ってもらっただけだと譲らない。

 師と仰ぐのも勘弁してほしいと泣きそうに頼む彼に、それならせめて友人になってくれと逃げる彼の背中を彼女が殴ったのは遠い昔の話。


 賢者であるディアナを驚かせるほどの幻覚魔法の使い手へと成長した彼女にとって、彼は何より大切な友であり、そして彼の娘は己の全てを捧げるべき御方であった。だというのに、


「言えッ! ……ッ! 言ってよクリスティアン!! 騙されたんだよね!」


 告げられた。

 魔王が攫われたと。そして、その犯人は父親であるクリスティアンであると。


「そうじゃないなら……ッ! 何をされたッ! どんな魔法だ、どんな魔法具だ! お前を操っているのは!!」


 信じたくもない。

 心の整理がつくまえに、下る命令は魔王様の保護とクリスティアンの処理。


 普段より彼に不満を抱く者たちが活気あふれるなかで、


「言えよォ!!」


 彼女は一人、策も何もなく魔族の領を飛び出していた。


「なら、会話させてェ!?」


 巨大な腕にぶんぶんと振り回されて、クリスティアンの顔色は嘔吐一歩手前まで突き落とされていた。

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