第103話


 凍る背筋に足が止まる。逃げないといけないと頭で分かっていても身体がその場を離れようとしない。

 意志に反して振り向く視界で捉えたのは、異形へと変貌した赤毛の女性の姿であった。


 女性らしい細くしなやかだった腕が大きく歪み、獣のようなかぎ爪まで生えている。羽のように軽やかなジャンプを見せた足がズボンを内側から破るほどに太く、全身には鱗が生えそろう。

 こんな状況でさえなければ綺麗と言えたであろう彼女の顔は、鋭い牙が裂けた口元から飛び出し、瞳が爬虫類のように縦に細く際立っていた。


 言うなれば、ドラゴンのなり損ない。

 美しかった赤毛が逆立ち、本当の炎のように揺らめきだした。


「ゾノ子ヲ、返ゼぇぇええぇええ!!」


 聞き取りにくいひどく低音へと落ちぶれた彼女の絶叫が、マリナの脳を揺さぶった。飛び出してくる化物に、逃げなければいけないと頭では理解しているのだが、彼女が取った行動は恐怖に駆られてその瞳を閉じることであった。


 容易く少女の命を刈り取るかぎ爪の一撃が、振るわれる。


「チャマ トゥマゴ ナンジャンネ サウンチャ」


「ガッ、ギィ!!」


 あと数センチ。マリナの鼻先寸前で、赤毛の女性だったもののかぎ爪が何かに阻まれ砕け散る。想像もしていなかった痛みに恐ろしい顔を顰めた化物へ、


「う、らァァ!!」


「――ッ!?」


 更に上回る化物の拳が突き刺さった。

 マリナの風の比ではない。砲弾と化した速さで周囲の壁に衝突してはバウンドし、何度も何度も破砕音を響かせながら暗い路地裏の奥へと女性だったものの肉体が消えていく。


 そんな化物を上回る化物に、


「おーッ!」


 モニカは嬉しそうに飛びついた。


「随分とまぁ、少し目を離しただけで大冒険してんじゃねえよ」


「おー、アドラ。ただいま」


「もぉ……、何度も言ったはずだよぉ……」


「な、え、なにが起きたの、わっぷ!?」


 恐る恐る瞳を開けた途端、マリナは後ろから誰かに抱きしめられた。むにょんと後頭部を包み込む感触には嫌でも覚えがあった。


「敵の前で目を閉じるのは駄目だってばぁ」


「……ディアナ!」


 自身には存在しない柔らかい感触だけでも腹が立つというのに、こちらの危機などどうでも良いと欠伸混じりの彼女の顔に、マリナは更にむかっ腹を立てるのであった。


「ぉ、遅いですのォ!! いったいどこで何をしてたのですッ!」


「それでもまぁ、ここまであの子を守りながら逃げてたことは評価に値するのかなぁ……、これって褒めるべきぃ?」


「あたしに聞くな、馬鹿」


「わた、わたくしがどれだけ大変で! あなたが、貴女が急に迷子にっ! 迷子にッ!!」


「はいはぁい、そうですねぇ~。迷子になったのはウチですねぇ」


「おー、アドラ、アドラ。パパは?」


「ぁあ? ああ、嫌な予感がしてあたしとディアナですっ飛んで来たからな。もうちょいしたら追いついてくるさ」


「おー、ありがとう」


「どういたしまして」


 しがみつかれめちゃくちゃに振り回されているディアナは、きちんと感謝を述べるモニカのほうが良いなと思ったのだが、それを口にしないだけまだ優しさを見せているのかもしれない。


「それより、」


 抱き着いていたモニカを引きはがし、ディアナの傍へと放り投げる。ぷらんと捕まえられた彼女はまるで猫のようであった。


「お前ら、ディアナの傍から離れるなよ」


「なはぁ……、あんたの馬鹿力を受けてもう立つとかまじめんどう……」


「え? あ、貴女ッ!? よく見たら山賊のアドむがっ!」


「はぁい、邪魔だから黙ってようねぇ」


「むがーっ!」


 狭い路地では大剣を振るうことなど出来ないため、アドラは拳を握り半身を前に構える。


「さっきの見た目、変身系の魔法か」


「多分ねぇ、もっと変になって飛び出てくるかもかもぉ」


「殴れるならどうとでもなるわ、なッ!」


 律儀に相手を待っているわけもなく、アドラは適当に拾った石ころを弾丸に路地奥へと投げつける。

 それを合図に飛び出した相手が、


「んげッ!?」


「なははぁ、残念だ。殴れないよぉ」


かよ!!」


 複数へと増えていたことに、大人二人組はそろって顔を顰めるのであった。

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